Therapy/Supervision

Helgeとの最後のセッション

Termination(関係の終了)が続いている。


水曜日は、Helgeとの最後のセラピーセッションだった。


セラピーを受けるきっかけは、Practicumを始めるのと同時にセラピーを受ける、
というのがCIISの卒業要件になっていたからだった。


僕は、日本でサイコセラピーも、カウンセリングも、受けたことは一度もなかった。


半信半疑だったのだけど、どうせ高いお金を支払うのであれば、
一流のセラピストからセラピーを受けてみたい…。


そんなことをあれこれと考えている時に出会ったのがHelgeだった。


約1年間のセッションを終えた今、クライアントとしての体験から、
カウンセリングとは何をするための時間か、と尋ねられたら、
僕はこう応えるかもしれない。


カウンセリングとは、純粋に自分のことだけを話すための時間だと。
自分自身とその内面を深く探っていくためだけの時間だと。


だから、カウンセリングでは、自分の外側で起こったことや、
他人について語ることはほとんど無い。何かの出来事の状況説明を
することもあまりない。


もし、それをする必要がある時は、必要最小限にするのが良い。


仮に、なぜか長々と状況説明をしている自分に気づいたら、
そのことによって、何かに直面することを避けている自分がいないかどうか
立ち止まって少し考えてみるのが良いかもしれない。


一年前、Helgeとの初回のセッションで、セラピーを通して何を達成したいのかと
尋ねられて、僕は「自分の感情を心行くまで味わえるようになりたい」と応えた。


以前、僕の胸は絶縁体のようだった。
胸の位置で何かを感じると言うことが無かった。


一年間を終えて、僕は、それをいろいろな形で達成することができた。


今は…、


自分の胸の位置に、楽器のようなものが置かれているのを感じる。
風が吹くと、それは自然に、静かにメロディを奏で出す。


僕は、この1年間をサポートしてくれたHelgeにとても感謝をしている。


Helgeは、僕が頭の中で拵えたファンタジーには全く興味を示さなかった。
毎回のセッションで、彼は、僕が今この場で感じている体の感覚について
問い続けた。僕が魂で感じている真実を探るために、この瞬間に感じていることに
意識を向けるようにと、常に僕を促した。


僕は、体の感覚に敏感になる、ということは、自分の内なる声に耳を傾けることに
通じるのだと知った。


常に、自分の体と一緒にいる。


それが、どれだけ大切なことであるか、僕はこの1年間を通して、
静かに、ゆっくり、でも確実に学ぶことができたように思う。


水曜日の最後のセッションは、過ぎゆく一秒一秒をとても貴重に感じたし、
すべての時間を愛おしく思った。


Helgeと僕はセラピストとクライアントと言う関係だったけど、この1年間を通して、
同じ世代だったということもあって、友情と連帯意識が育まれていたように思う。


午後5時57分、最後のセッションが終わる時間が来た。


僕たちは、互いのこれからの人生の実り多き旅路を祈った。
そして、ソファを立ち上がり、互いにがっちりハグをした。


僕は、セラピールームを後にした。


通りに出て、大きく深呼吸をした。
笑顔があふれた。

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踏み込むための構造

深層心理と関係性を重視するPsychodynamicsを専門にする2人のスーパーバイザーと、
Here and Nowと体の感覚を重視するGestalt Therapyを専門にするセラピストと、
それぞれ毎週セッションを持つことで、最近、気づいたことがある。


気づきと言うには、あまりにもシンプルなのだけど…。


Gestalt Therapyをアプローチの基本に据えるHelgeは、
セッションの冒頭、僕に対してほぼ絶対に「どんな一週間だったか?」
あるいは、「今日の気分はどうか?」というフレーズで会話を始めない。


いずれの質問によっても、クライアントは過去の出来事の話をすることになる。
成功体験だったり、失敗体験だったり、それに対する感情だったり。


そして、セラピーの時間の少なくとも半分は、それによって費やされることになる。
“過去”というレコードの溝をただなぞる、生産的とは言えない時間だ。


Helgeはその代わりに、僕にこう尋ねる。


「今日のこの時間をどう使おうか」


そして、そのプロセスの中で、話が過去に行きそうになると、
適当なところで、体の感覚にフォーカスさせるような質問が飛んでくる。


僕は、お腹や胸のあたりで感じるその感覚を、いろいろなメタファーを使って
表現することになる。


そして、それらの表現から、僕の人生や生き方に対して、
いったいどういう洞察が可能になるか、ともに探っていく。


一方で、サイコダイナミクスを専門にする2人のスーパーバイザーは、
こういうアプローチをとらない。


何があったか、何を話したいかを聞いてくる。


だから、僕は、過去の一週間に起こった目ぼしいことから、
テーマになりそうなことを話す。


彼女たちのセオリーによれば、クライアントの話す過去は、事実ではない。
すべてが自身の過去の体験によって歪められたレンズによって
見ている幻影に過ぎない。


つまり、僕が話すどんな内容も、おそらく、僕の内面が投影されているに
過ぎないと言う風に捉える。


だから、ほどほどのタイミングで、内省を迫る柔らかい
フィードバックが飛んでくる。


もしあなたのレンズがこう言う風に歪んでいると仮定して、
その歪みをこう言う風に変えることができたら、何が見えるか。
あるいは、こう言う風に見えたりはしないか。


その指摘が、鋭ければ鋭いほど、本質をついていればついているほど
セッションに沈黙が生まれる。


僕は彼女たちの視点を借りて、自分の内面を深く探っていくことになる。


そして、その瞬間に、セッションのテーマは、僕が最初に話していたものから、
より僕自身の本質に迫るものにスイッチすることになる。


セラピーの世界には、色々なアプローチがある。


それぞれのアプローチに甲乙をつけるというのではなく、
まったくj違うアプローチなのになぜ機能するのか、それをもっと知りたい、
自分の言葉でとらえたい。


自分なりのアプローチを確立するために。

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その後の選択肢について考える

いよいよ僕にとってのLast Semesterが始まった。


CIISの旅路も、あと僅かだ。


自分で言うのもなんだけど、僕は、特に今年になってから、落ち着いて、
いろいろ自分を見つめる機会が持てているんじゃないか、そんな風に感じている。


一つは、プラクティカムサイトのPacific Instituteとの出会いが大きい。
レジデント、インターン、スーパーバイザー、素晴らしい人たちとの出会いは、
自分を見つめる多様なパースペクティブを僕に与えてくれている。


もう一つは、Helgeとのセラピーセッションだ。
セラピーがこんな風に機能するとは思わなかった。


といっても、セラピストとクライアントとの相性もあるだろうから、
巡り合わせの運もあったのかもしれない。


さて、そのセラピーセッションが、水曜日にあった。


前回のセッションで、次回は、Family Constellationの手法を使って、
僕の人生のプライオリティについて探究してみようということになっていた。


というわけで、僕たちは早速、その課題に取り組んだ。


Family Constellationとは、CIISのFamily Dynamicsのクラスで体験した手法だ。
その時のインストラクターがHelgeだった。


クラスでは、クライアント役の生徒は、自分の家族をクラスメートの体を使って、
空間に配置していく。


父親の位置、母親の位置、兄の位置、姉の位置、妹の位置、弟の位置、
そして、自分自身の位置。誰と誰が近くて、誰と誰が疎遠で、誰かの視界には
誰かが全く入っていなくて…。


位置と体の向きで、自分に映っている家族の構造、配置をその場に創り出す。


そして、配置されたクラスメートは、インストラクターの指示に従って、
そこに置かれた自分に湧き起ってくる感情をただ述べる。


寂しい、孤独を感じる、怒りが沸き起こってきた、何故だか悲しい、いろいろだ。
本当に主観の世界のワークなのだけど、これが不思議なことに、深く機能する。


この手法を使うと言うのだ。


Helgeは僕に紙を複数枚渡した。そして、CIISの卒業後のキャリアの選択肢を
一枚ずつ紙に書くようにと言った。


言われるままに僕は可能性を一枚ずつ紙に書いた。


1. 1年間の世界一周旅行に出る
2. 会社に戻り、アメリカで働く
3. 自分のビジネスを日本で立ち上げる
4. 会社に戻り、日本で働く
5. OPTを利用して、アメリカでインターンとして働く


Helgeはそれらをシャッフルして、裏返しにして、自分にも、Helgeにも
わからないようにして、床に並べるようにと言った。


僕はそれを横一列に並べた。


何をするのかと思っていたら、Helgeは、深呼吸をした。
これから、それぞれの紙の上に乗るのだと言う。


そして、その紙の上に乗った時にどういう感情が内面に起こってくるか、
それを僕に伝えるから書きとるようにと言った。


…。


とりあえず、言われるがままにやってみようと思った。


Helgeは、裏返しにされた紙の上に乗り、
その時に、内面に湧き起ってくる感情を僕に伝えた。


一枚が終わると、深く深呼吸をして、感情をニュートラルな
状態に戻して、そして、次の紙の上に乗った。必要であれば、
紙の上から下りて、もう一度、その上に乗って、
伝わってくる自分の感情を確認した。


彼が僕に伝えたコメントを簡単に書くと以下の通り。


1. 良い気分じゃない。壊れやすい感じ。悪くはないけど、エネルギーを感じない。
2. 下半身は安定していて、上半身は自由に揺れる感じがする。遊び心があって楽しい。
3. 力強さを感じる。自分がとても大きくなった感じがする。でも、息をするのが苦しい。
4. 高くそびえているように感じる。静かで安定している。良い感じだが、堅苦しい。
5. 弱さを感じる。不安定だけど柔軟性はある。でも、良い感じがしない。


僕も彼も、裏返しにされた紙に何が書かれているかわからないので、一枚ずつ、
めくりながら、僕が写し取ったメモと照らし合わせて行った。


Helgeは僕が世界旅行に出ようとしていることを知っている。
それに情熱を持っていることを知っている。


だから、僕もHelgeも、1に対して、Helgeがもっともネガティブなバイブレーションを
感じたことに驚いた。


僕たちは、このことについて話し合った。


強いて、Helgeの印象を是として、この選択肢のネガティブな面を考えてみた。


例えば、僕は、おそらく旅先で出会う人たちにも、CIISやPacific Instituteで
体験しているような深い会話を期待している。でも、普通に考えてみて、
旅先で出会う人々に、同じような深さを期待するのは無理だろう。
僕がいま、サンフランシスコで生きている世界は、ある意味、特殊なのだ。


あるいは、“キャリア”を考える選択肢としては、
世界一周は不適切だったのかもしれない。


でもそれ以上に、大きな気付きがあった。


僕は、この年齢までに留学、この年齢までに世界一周、と人生を区切って
プランニングをしてきた。


留学と世界一周は、僕が自分の人間形成の為にする人生の2大目標だった。
そして、それが終わったら、社会に、仕事に、家庭に全力で向き合おうと
考えていた。


でも、その人生を区切って考える思考方法自体が、
僕の人生観を制約していたかもしれないことに気がついた。


僕は、留学後、そして、世界一周後の人生を考えると、
何となく、その後の人生の空気が薄くなるような、息苦しさを感じていた。


社会に、仕事に、家庭に向き合う。
それはとても素敵なことなのだろうけど、ただ負うべき責任のみが存在しているような
イメージを持っていた。


そういうものなのだと、無意識に思いこんでいた。


安定と自由を同時に手に入れ、且つ、その両方を楽しむという視点とバランス感覚を、
人生からまったく消し去ってしまっていた。


仕事をしても、家庭を持っても、仲間と家族と一緒に自由を楽しんだらいい。
人生の可能性を探究したらいい。そして、頑張ったらいい。


人生を計画によって分断する必要はない。自分のままに続けていいのだ。
人生とはプロセスなのだから。


そういう意味で、Helgeが、経済的な安定と“世界”を感じ続けることが出来る
選択肢2に対して、安定と自由と楽しさのバイブレーションを感じたことは
とても理にかなっていて面白いと思った。


あっという間に、50分が過ぎた。


最後に、Helgeが笑いながら言った。


「このワーク、実は、クライアントとのセッションでは
数えるほどしかやっていないんだ。だって、頭がおかしいと
思われるかもしれないだろう? 


でも、TJは、Family Constellationを何度も経験しているし、
色々な可能性にオープンだから、試してみたいと思ったんだ」


今日、何か結論が出たわけじゃない。
僕の人生を考える、新たな視点と材料が提示されただけだ。


Helgeとのセラピーセッションは、僕のサンフランシスコデイズの
大切な一部になっている。

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心のサンクチュアリを探る瞑想

いろいろと整理がついて、心が軽くなった状態で、いつもの水曜日、
Helgeとのセラピーセッションを迎えた。


さて、今日は何を話そうか…、良いテーマが思い浮かばなかった。


それを話すと、Helgeはこう言った。


「もし興味があれば、“心のサンクチュアリを探す瞑想”をしてみるのはどうかな」


正直言うと、その瞬間はあまり乗り気がしなかった。


「いや…、せっかくだけど、何か話したいことがありそうな気がする。
そう言えば、前回のセッションで、僕にとって人生の成功とは何か、
について話をしたいと言ったことを思い出した」


と言うと、Helgeは、笑顔で応じた。


ところが、話そうとすると、考えが全然まとまらずに、
言葉が出てこなかった。


というわけで、僕は言った。


「今日は、そのタイミングじゃないみたいだ。
その瞑想を試してみる方がいいかもしれない」


するとHelgeは、


「もちろん、いいよ。そのサンクチュアリから、
TJの成功に関する問いを考えてみると違った発見があるかもしれないしね」


と言った。


僕は、深呼吸して、ソファの上に胡坐をかいた。
そして、目を閉じて、Helgeのインストラクションに従った。


「リラックスするように…。


深く深呼吸をして、その呼吸を辿って、自分の中に深く深く下りていくように…。
そして、自分の一番奥底にある、自分が一番安らげる世界をイメージしてみるように…。
その世界は過去に行った場所でもいいし、空想の場所でもいい。」


Helgeは、ゆっくり5つ数えるので、カウントするごとに、より深く、より鮮明な
イメージを探ってみるようにと言った。


一つ目で青い景色が見えたような気がした。
二つ目、それは空かなと思った。
三つ、四つと続くうちに、僕は、海の中に漂っている自分に気がついた。


そして、五つ目、僕は、真っ青な海の、水面の表面近くでもなく、あまり奥底でもなく、
光が届く辺りの海の層を漂っていた。


“Oneness(すべてはひとつ)”


僕は漂いながら、そんな無言のメッセージを体全体に感じていた。


Helgeは、しばらくの間、その世界をありありと感じてみるようにと言った。


僕はその世界に身を浸した…。


そのイメージの中にメッセンジャーを登場させるようにとの声が聞こえた。
すると、僕のイメージの中に、ウミガメが出てきた。


そのウミガメは、空を舞う鳥のように、海の中に漂う僕の周りをくるくる舞うように泳いだ。
ウミガメは、地上での動きは遅いけど、海の中での動きは俊敏だ。


その世界に身を置いたまま、そのウミガメに質問をしてみるようにとの声が聞こえた。


僕は、そのウミガメに問うてみた。


「成功とは何?」


ウミガメは何も応えてくれなかった。


ただ、僕の頭の中に、


“You know...”という言葉だけが響いたような気がした。


何度質問をしても、“You know...”とそれだけが響いた。


再び、声が聞こえた。これから5つ数えるので、ゆっくり意識を外に向けるように、
現実世界に戻ってくるようにと。


僕が目を開けると、Helgeは僕に紙とクレヨンを手渡した。
3分ぐらいで、瞑想中に思い浮かんだイメージを描いてみるようにと言った。


Pacific Instituteで表現アートセラピーのトレーニングを受けていたので、
抵抗なくスムーズに書くことが出来た。
Dsc08127

海の中に漂っていると、体が海水を媒介にして拡がっていく感じがする。
自分の体が溶けて無くなる感じた。すべてが一つだ。


この意識に立った時に僕にとって成功とは何を意味するのだろう…。


ウミガメは、ヒラリヒラリと僕の周りを泳いでいた。


ウミガメは…、


陸での動きはゆっくりだ。


もし、このウミガメが僕だとしたら、
ここで言う“陸”とは、僕が他者基準の世界で生きている時を表しているのかもしれない。
社会の柵や他者基準に、自分の存在が囚われてしまっている状態だ。


一方で、ウミガメは、海の中では自由にスピーディに、自由自在に泳ぐことが出来る。
ここで言う“海”とは、僕が真の意味で自分基準の世界で生きている時の状態を
表しているのかもしれない。


僕にとって、生き方が制約されてしまう“陸”という世界ではなくて、
自由にスピーディに生きることが出来る“海”という世界はどこなのか。


言われてみれば、確かに、僕は知っているような気がする。


その世界に飛びこむ勇気だけがあればいいのかもしれない。
自分を信じることさえできればいいのかもしれない。


もうひとつ、


一番最初に聞えたイメージ、Oneness(すべてはひとつ)。


ここから考えてみることは、僕の人生の選択肢、あるいは、人生を見る目を色々と
広げてくれるかもしれない。


もし、この瞑想をしないで、僕にとっての成功とは何か、を考えたら、
おそらく、キャリア上の成功、あるいは家族や友人など豊かな人間関係を持つと
言った成功、というように決められた枠の中、あるいは方向性で成功を考えたかも
しれない。


ビジネスの世界での“成功”と言うと、代表的なものは、
お金、キャリア、規模、地位、称賛、名声だ。いずれも、基準は外部指標だ。


でも、それを否定して、例えばCIIS的なスピリチュアルな世界での“成功”ということで、
家族、愛、スピリチュアリティ、貢献、コミュニティ、絆などを考えてみたとしても、
いまの僕にとっては、これもある意味、外部指標をスピリチュアルな世界の基準に
置き換えただけなのかもしれない。


いずれの世界も、基準が外部にあることに変わりはない。


もちろん、外部指標が基準になっていても良いのかもしれない。


そう言うことも含めて、自分が本当に深いところで何に納得するかが大事なのだろう。


本当に自分が納得できる真実に触れるには、なかなか時間がかかる。
近道に意味はない。かけた時間もその真実の大事な一部だろうから。


結果的に、自分の真実に触れることが出来なくても、
そのためにかけた時間が自分を納得させてくれたりする。


それを考えないことも、妥協することも、避けることもできるだろう。


でも、いつかは必ず直面することになる。
人生の未完了は、必ず人生の最後の最後まで付いてくる。


出来ることならば、体力と時間があるうちにしっかりと向かい合うべきだ。


これはPacific Instituteのご老人たちとの日々の交わりの中で、
僕が感じていることだ。

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自分の“感情”を味わう

月曜日、GloriaとのSupervisionで、旧インターンと新インターンとの間で
感じている感情の葛藤について触れたら、笑顔で「おめでとう」と言われた。


「あなたは、旧インターンにAttachmentを感じているわけでしょう?
それって、素敵なことじゃない?」


Attachment(愛着、執着)…。


愛着することによって、喜びや悲しみの感情の揺れ幅が大きくなる。
だから、これまで出来る限り愛着を減らして、感情の幅を一定に
保てる自分であれるように努力をしてきたはずだった。


自分の感情の揺れをコントロールできることが、
成熟した大人の条件だと思っていた。
少なくとも日本では。


でも、いま僕は愛着を感じている。


翌日の火曜日、CIISのHakomiのグループワークで、
クライアント役になった時、同じ話題をテーマにしてみた。


ワークの後に、クラスメートからこう言われた。


「インターンとコミュニティとの別れに対する、TJのGrief(悲嘆)が伝わってきたわ」


Grief(悲嘆)…。


そうか、僕はいま悲嘆しているのか…。
気づかなかった。


実は、2週間前の土日に催されたPsychological Death and Dyingのクラスでは
Greiving(深い悲しみ)をメインに扱った。


Grief体験を涙ながらにシェアするクラスメートの輪の中に
なかなか入っていけない自分を感じていた。


その理由は、僕は、自分のこれまでの人生でGriefを感じたことが
ほとんど無いからだろう、と勝手に判断していた。


でも、もしかしたら、ただ否定していただけかもしれない。
その感情を抑圧することで、Griefに浸るような“弱い自分”を
認めたくなかっただけなのかもしれない。


僕はいま悲嘆を感じている。
クラスメートのコメントを聞いて、そう思った。


月曜日のセッションの最後に、Gloriaが言った言葉を思い出した。


「あなたは、ずいぶん変わってきているのだと思うわ。
ここアメリカで暮らすことによって…」


確かに、そうなのかもしれない。
気づかないうちに、僕も、いろいろ変わってきているのかもしれない。

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Psychodynamics(サイコダイナミクス)とGestalt Therapy(ゲシュタルトセラピー)

僕がスーパービジョンに通っているGloriaの専門は、
“Psychodynamics(サイコダイナミクス)”だ。


一方、


僕がセラピーに通っているHelgeの専門は
“Gestalt Therapy(ゲシュタルトセラピー)”だ。


両者の違いはと言うと、


Psychodynamicsは、クライアントの過去や無意識を深く探るアプローチで、
Gestalt Therapyは、クライアントの、いまこの場における体の感覚にフォーカスする
アプローチだ。


Psychodynamicsは、“深層意識にある過去の出来事”に焦点を当て、
Gestalt Therapyは、“今この瞬間の感覚と感情”に焦点を当てる。


だから、両者のアプローチは全く違う。
なのに、なぜ、両者が共に心に機能するのか疑問だった。


例えば…、


Psychodyanamicsのアプローチとは、
自分に影響を与えている過去の出来事を意識の深層に探っていくことだ。
そこで自分が抑圧していた何かを発見し、それを意識に上らせることによって、
深層に抑圧された記憶の影響から自由になることができる。
あるいは、それを抑圧するために費やしていた莫大な心的エネルギーを
解放させることができる。


そのプロセスで治癒が起こると考える。


一方、


Gestalt Therapyのアプローチとは、
今この瞬間の体の感覚に焦点を当て、感情を探っていくことだ。
体のどの部分に、どんな感覚を感じるか。息が詰まる感じなのか、胸が苦しいのか、
お腹の辺りに違和感があるのか。まずはその感覚をしっかり掴む。


そして、その感覚からどんなイメージが湧くか、何が連想されるか、辿っていく。
そのプロセスで、自分の中にあるいろいろな層の感情に触れることになる。
最終的に、自分の真の感情に触れることができる。


それによって治癒が起こると考える。


Gloriaとのスーパービジョンで、セラピーのような個人的なテーマを
扱うこともある。だから、月曜日のGloriaとのセッションと、続く水曜日の
Helgeとのセッションで、同じテーマを扱ったこともあった。


その経験から、セッション終了後の感覚を言うと、
両者にはこんな違いがある。


Psychodynamics(サイコダイナミクス)のGloriaとのセッションでは、
そういうことだったのかと言う、その問題に対しての視点の転換がある。
自分の“問題”に対するコントロール感、あるいは自分の“テーマ”に対する
納得感が手に入る。


Gestalt Therapy(ゲシュタルトセラピー)のHelgeとのセッションでは、
当初、問題と思っていたことが、実は問題では無かったことに気づく。
問題そのものよりも、問題に対する自分の反応パターンに気づくことで、
不思議なのだけど、問題が消えてしまう。それによって、気持ちが軽くなる。


実は、この件について、今週のセッションで、Helgeにいろいろ尋ねてみた。
上に書いたことは、その中で明確になってきたことだ。


Helgeは、こんなことも言った。


「深く探るのは、過去の出来事や意識の深層ばかりではない。
感情を深く探っていくことでもある。感情を深く探るとは、
自分が最も傷ついている部分を探ると言うことでもある」


「クライアントの意識を体の感覚に向けさせることによって、
クライアントは、思考に邪魔されずに、自分の感情にダイレクトに
アクセスできるようになる」


Psychodyanmicsは、心の底を探っていく感じがする。
底に向けて、思考を重ねていく。


Gestalt Therapyは、心の奥を探っていく感じがする。
奥に向けて、感情を辿っていく。


これらの二つのアプローチを上手に組み合わせることができたら、
心の“奥底”に効果的に迫ること出来るのかもしれない。


いや…、ちょっと単純化しすぎかもしれない。


このテーマ、引き続き、考えて行きたいと思う。

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セラピストとコンサルタント

このブログでも何度か触れてきたことだが、通常、セラピストはクライアントと
セラピールームの外で会うことはしない。ほぼ、絶対にしない。


その理由はたくさんあるのだが…、


簡単に言うと、セラピストとクライアントとの関係がセラピールームの中だけに
限定されることで、初めて可能になる種類の会話があると言うことだ。


日本でのビジネスコーチや経営コンサルタントの仕事では、僕の知る限り、
そうではなかった。仕事の場を離れてクライアントと飲食をともにすることは、
信頼関係を深めたり、情報収集をしたりする上でとても大切なことだった。


だから、最初はその違いに驚いた。


さて、


今週だけ、Gloriaとのスーパービジョンがいつもの月曜日ではなく、
火曜日の今日、あった。


そこで、セラピストがクライアントの間に引くBoundary(境界線)の話が出た。


Boundary(境界線)とは、冒頭に書いたような、プロフェッショナルとして
クライアントとの間に引く一線のことだ。


他にも、クライアントの体に触れないとか、セラピストのプライベートな情報を
不用意に開示しないとか、そういうことも含まれる。


ところが、


通常のセラピーと違って、僕がプラクティカムで対象としてる後期高齢者や、
ホスピスケアの患者、HIVや末期癌患者をクライアントにしているセラピストには、
例外がたくさんあって、Boundary(境界)をより柔軟に設定し、運用する必要がある。


例えば、僕の場合だと、クライアントとカフェでコーヒーを一緒に飲んだりするし、
スキンシップも取ったりする。あるいは、クライアントのご家族の自宅に招かれ、
食事をご一緒したこともある。通常のセラピーでは、そういうことはしない。


Gloriaの場合だと、癌と闘病中の女性クライアントから、どうしても自分の結婚式に
出てほしいと依頼されて、式にだけ参加したことがあるそうだ。


さて、このGloriaの例から、僕にとって、ちょっと興味深い話になった。


Gloriaは、その式で、自分がセラピストということは明かさずに、
控えめにその場にいたそうだけど、当然、その場でクライアントの家族と会うことになる。


それによって、クライアントとのセッションの中で、名前だけを知っていた人たちと
実際に会うことになる。すると、セッションに登場してくる人物の顔と名前が一致する。
面識を持つことで、彼らの雰囲気がわかり、相当量の新しい情報を得ることになる。


その情報を得たことが、セラピーを進めるにあたって、果たして良いことなのか、
あるいは、悪いことなのか…。


ここに考えるべきポイントがある。


Gloria曰く、それ以降のセッションでは、何かが明らかに変わったそうだ。


実際に彼女の家族に会ったことで、セッションの中でクライアントがする
家族の話題に、自分の価値判断、つまり、バイアスが働くようになった、
ということだった。


以下もGloriaの言葉だが、


セラピストの仕事は、クライアントの視点を通して、クライアントの価値判断を通して、
クライアントを取り囲んでいる風景を一緒に観ることだ。


それは、クライアントが提供する情報に基づいて、クライアントの世界を純粋に
体験しようとすることだ。


それによって、クライアントを力づけ、クライアントが自分の力で物事を
判断できるようにサポートすることだ。


ところが、


セラピストがセラピールームの外で得た情報によって、自分の価値判断を
働かせることは、クライアントの視点で純粋に風景を眺める際の邪魔にしかならない。


情報ソースを出来るだけ多様に、広範に持つことで、物事を出来るだけ
正しく客観的に捉えようとするビジネスコーチや経営コンサルタントの仕事とは、
大きな違いだと思った。

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“どういう生き方をしたいのか”

「僕は、なぜ日本に帰ると思っているのか。なぜそれを寂しく思うのか。
なぜそう思う自分に失望しているのか」


先のブログにも書いたように、僕は月曜日、Gloriaとのセッションで提起された指摘を、
水曜日のHelgeとのセッションで取り上げた。


Helgeとのセッションでは、こういう流れになった。


僕は本質的に、どういう“生き方”をしたいと望んでいるのか。


「理想を言えば、1年間にアメリカ4カ月、アジア4カ月、ヨーロッパ4カ月というように
拠点を移しながら、人にフォーカスした意義のある仕事をしていたい」


すると、Helgeは僕に確認をした。


「TJは日本に帰ると言うことについて、どういう印象を持っているの?
そう思うと、どんな感覚を体に覚える?」


僕は、少し間をおいてから、答えた。


「それは…、“普通の生活”に戻ること。
普通の生活とは、仕事をして家庭を持って…。自由と冒険とは縁遠い生活。
安定や安らぎという違った側面が手に入るのはわかるのだけど…、
息が詰まりそうな気持ちになる」


Helgeは続けた。


「例えば、アメリカに残ったら、その窒息感、閉塞感からは逃れることができる、
“普通じゃない生活”を送ることができる、という風にTJは考えている、
という理解でいいかな?」


そう聞かれて、僕は考えた。


アメリカに残ったら、僕は、窒息感や閉塞感から解放されるのだろうか。
自由、変化、成長、冒険、刺激、非日常、達成感、そんなことを日々感じながら、
刺激的な毎日を過ごすことが出来るのか。


いや…、違うだろう。


すると、僕が感じていることの問題は、住むエリアにあるんじゃない。


いま感じていることは、アメリカに住んでも、ヨーロッパに住んでも、
アジアのどこかの国に住んでもおそらくは、いずれ感じることだろう。


どこにいても繰り返す。どこに住んでも繰り返すのだ。


では、僕に窒息感と閉塞感を与えているものは、いったい何だろう…。


“誇りを持って仕事に打ち込み、結婚して、幸せな家庭を築き、子供を育み、
親孝行をする”といった一連の日本人としての価値観か。


既に、これまでの人生で充分にその路線からは外れているように感じていたけど、
それらの文化的な価値基準は、僕の頭蓋骨の底にべったりとくっついているらしい。


自由の国アメリカに住んでいても、結局、日本人としての自分からは逃れることは
出来ない。日本人としての価値基準は、巧妙な形で僕の思考に絡みついている。
僕のパーソナリティの一部になっている。


結局、それを受け入れたうえで、僕は前に進むしかない。


改めて、


問われているのは、僕はどういう生き方をしたいのか、ということだ。
日本に帰る、アメリカに残る、というのは表層の選択肢に過ぎない。


この結論は、新しくはないし、ありきたりかもしれない。
でも、僕の中では、月曜日のGloriaとのセッションから少し進展したように思った。


最後、Helgeはこんなことに言った。


「TJの高い自己基準は、いつもTJ自身をジャッジして苦しめる。
英語に関しては、これまで何回か採り上げたけど、代表的なものだ。


でも、TJ、しっかりと覚えておくといいよ。


今、自分がどれだけレベルの高い世界で英語を使っているのかと言うことを。
カウンセリングやセラピーの場で使われる英語のレベルは、立場がセラピストでも
クライアントとしても、ものすごく高いものが求められているということを。


そして、TJはそれを立派にやっている。
そのことを、TJはいつも忘れがちだ」


ちなみに、Helgeは在米経験が長いドイツ人だ。
ドイツで、ビジネスコンサルタントしてのキャリアを積んだ。
そして、CIISに来て僕と同じ修士課程で学び、博士号まで修得した。


僕と少しバックグランドが重なるところがある。


もしかしたら、かつて、Helgeも僕と同じことを感じながら、人生を前に推し進め、
そして、いまに至っているのかもしれない。


そんなことを思った。

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本当の理由は何か

この夏に履修している、“Psychological Research and Assessmentクラスの
プレゼンテーション準備やFinal Reportの準備、新しいクラスが始まったりで、
ブログの更新間隔が空いてしまった。


そうは言っても、日々、いろいろなことが起こっている。


先週は、ちょっと印象深い一週間だった。


Pacific Instituteでは、僕以外のすべてのインターンが7月いっぱいで1年間の
プラクティカム期間を終えて卒業をする。そして、8月から新しいインターンが入ってくる。


だから、節目にありがちな、悲しさと楽しさの入り混じった気持ちが
僕も含めてインターン全員の中に交錯しているのがPacific Instituteの今日この頃だ。


CIISの夏セメスターも終わりに近づいている。


最近は、CIISでも友人からよく尋ねられるようになった。


「TJの卒業はいつ?」


僕のCIISライフも残り6カ月を切った。


そんなことが相まって、節目と言うものを実感しながら、“アメリカの後”の人生を
考えていると、一抹の寂しさの中にいる自分に気がついた。


…。


CIIS卒業後の進路として、「日本に帰る」「アメリカに残る」の二つがあるとしたら、
僕のイメージしている人生の文脈の中で、僕が選ぶのは…、


明らかに前者だ。


そのことをすごく寂しく思ったのだ。


アメリカに来る前、在米経験のある色々な人に言われた。


「TJは、アメリカの水がとても合うよ。戻って来たくなくなるんじゃないかな」


「アメリカ生活も3年を過ぎる頃、だいたい多くの人は気づくみたいだよ。


“自分はやっぱり日本人だ。日本がいい”と思うか、
“やっぱりアメリカは素晴らしい。もう日本には戻りたくない”と思うか、
自分はどのどちらのタイプなのか、ということを。


TJがどう思うか楽しみだね」


僕は、自分のことを、アメリカに残ることを望むタイプだろうと思っていた。
でも、実際には違うらしい。


サンフランシスコも、アメリカのことも、とても好きだ。もちろん日本のことも大好きだ。
日本とアメリカ、少なくとも感情的には同等の価値がある。


では、なぜ僕は日本に戻ることを考えているのだろう…。
そして、なぜそのことを寂しく感じているのだろう…。


最初に頭に思い浮かんだのが、言葉の壁だ。


日本語と同じパフォーマンスを英語でも発揮できるかと言われたら…、
残念ながら、僕にとって、答えは明らかにNOだ。


だから、僕が思い描く人生の成功イメージをアメリカで達成することは難しい。


それに直面することを避けるために日本に帰るのだとしたら…、


そう思うと、僕は自分にとても失望してしまう。


もし僕が20代前半だったら、また違った考えをしていたかもしれない。
僕の今の年齢になるまでに、20年間を使うことができるから。


でも、僕はもう20代には戻れない。異国での人生をゼロからスタートさせるために、
これからの20年間を使うこともできない。だったら、日本で何かを目指す方が、
いろいろなことが速いし、早いだろうと考えてしまう。


…。


僕はアメリカに“残らない”では無く、“残れない自分”に失望している。
いや、僕は、物理的にアメリカに残ろうと思えば、おそらく高い確率で残ることが出来る。
でも、内面的には“残れない”のだ。


こう思うことは、何かの後悔の現れなのだろうか…。


先週の月曜日、GloriaとのIndividual Supervisionの時間に、
そんな文脈の話になった。


彼女のセラピーの理論的背景は、“Psychodynamics”だ。
転移と逆転移を扱いながら、クライアントの内面を探っていくアプローチだ。
だから、セラピストによる“介入”もあって面白いのだが…。


その彼女が僕にこんなことを言った。
以来、この1週間、僕は彼女の言葉に関する僕の真実について、
考え続けることになった。


「ねえ、TJ、英語の壁、と言うのは…、


日本に戻るための良い理由にできるわ。


あなたは、無意識に、最初から日本に帰ることを前提にアメリカに
来ていたとは考えられないかしら。


無意識にいつも日本に帰りたいと思っているから、
無意識にいつも日本に帰る理由を探しているの。


英語は、その良い理由になる。


帰ることを前提にしていたら、英語を上達させる理由も無くなるものね。


あなたは、日本に帰るための理由が欲しいの。


あなたは、とてもスマートよ。それはわかるわ。


でも、なぜ英語の上達だけが思うようにならないのか…、と言うあなたの問題意識が
もし本当だとしたら、私には、それが一番すっきりする理由に思えたわ」

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なぜTherapyなのか 1

悩みごとなんて、セラピーに行かずに友人に話せばいいじゃないか。
その通りだ。


あなたが自分自身のことについてだけ話しても、興味関心を持ってじっと聞いてくれる。
何でも話すことが出来て、あなたが自由に自己探求できるように配慮してくれる。


もし、あなたがそんな友人を持っているのであれば、最高に素晴らしいことだと思う。


ただ、知っておいても良いかもしれないのは…、


人間には、アドバイスでは解決できない問題も多いということだ。


あるいは、


あなたが“何でも話すことが出来る”と言うとき、その“何でも”とは、
よく考えてみると、条件付きだったりすることも多いということだ。
本当に、“何でも”とはどういうことだろう…。


人生には言葉にならない悩みも多い。


自分の外側に原因がある問題、特定できる問題は、誰かに相談できるかもしれない。
有益なアドバイスをもらえるかもしれない。


でも、自分の内面にある問題、形にならない問題は、そうはいかないことも多い。


さらに、誰もが自分の心を防衛している。
その防衛の向こうにいる“真のあなた”は、とても傷つきやすいし、
何と言っても、そこに匿われているあなたは、あなたが決して認めたくない
“自分自身”だったりするのだ…。


だから、僕がカウンセリングサイコロジーを学び、
セラピストの立場で、あるいはクライアントの立場で、日々感じているのは、
セラピーセッションでは、クライアントは必ずしも何かを“相談する”
わけではないということ。


セラピーでは、クライアントは、自分自身をテーマにする。
そこで、クライアントは自分の内面を扱う、心を掘り下げる、
自分自身を理解する。


そこで行われるのは、“相談すること”とは、少し質が違う会話だ。


あなたが“あなた自身”と向き合う機会のことをセラピーと言うとき、
あなたは誰かに相談するというのとはまた違ったクオリティの会話を
創り出す必要がある。


だから、僕は、少しずつ思うようになった。


セラピストの仕事とは、クライアントが自分の防衛メカニズムを潜り抜けて
自己探求できる“場”を提供すること。


シンプルに場を提供すること、それが基本なのかもしれないと。


もちろん、この考えは、今後もどんどん変わっていくだろう。


…。


もう一度、なぜセラピーなのか。


クライアントは、セラピーの場では自己防衛を潜り抜けることができるから、
自己探求のプロセスが速くなる。


自分自身を知るという永遠のテーマについて、通常は20年かかる地点を、
5年、あるいは2年で通過することができるかもしれない。


ここで言う自己探求、あるいは探究のプロセスとは、
自分を知ると言うことに加えて、自分という領域の「枠」を広げてたり、
自分自身を深めたり、自分を成長、あるいは成熟させたり、自分が囚われている
モノの見方を離れて、これまでの人生を、これまでとは違う見方で眺めることが
出来るようになったり、自分が無意識に避けていた遠い過去と直面して
それを一つに統合したり、心の壁を乗り越えたり、心の傷に向き合いながら
それを癒したり克服したり…、いろいろなことが含まれる。


その目的は、より豊かに自分自身を生きると言うことだ。


もしセラピストの仕事が、そのクライアントが安心して自己探求のプロセスを
体験できる場を提供することにあるのだとすると、


その目的が達成されるのであれば、セラピストが利用できるリソースは
ずっと大きくなる。工夫すべきことはずっと多くなる。


一般的に日本で思われている、「共感」「傾聴」「質問」などは、
限りなく限定されたカウンセリングスキル、それもその一部を述べているにすぎない。


でも、セラピーとは場を提供することなのだとすると、
部屋の雰囲気、オブジェ、家具、観葉植物、花、絵、色調、天井の高さ、照明の明るさ、
それらのバランス。あるいは、セラピストの世界観、人間観、性格、知識、雰囲気、
服装、髪型、姿勢、全部含まれる。


そう考えると、セラピーとは、まるで茶道に近い世界だ。
セラピーは、もっと総合的なイメージで捉えられる必要があるのかもしれない。


いや…、


逆かもしれない。


セラピストは、一切、何もしなくてもいいのかもしれない。
“茶の心”を尊ぶことが一番のように、真の人として相手と向き合うことができれば、
クライアントは自然に探究を始めるのかもしれない。


自己探求のプロセスは、その場の空間の中でどんどん進むだろう。


これは理想に過ぎるだろうか。


セラピーが、“関係性のアート”と言われる所以を思った。

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