CIIS/Graduate School life

引き出す、について

クライアントの主体性を謳っているのがコーチングなのだけど、


「毎回のコーチングでは、いかに『引き出せるか』、これをミッションにしています」


と、以前、会社の後輩が言うのを聞いて、違和感を覚えたことがあった。
理由は良くわからなかったので、その時は何も言わなかった。


もう3年以上も前のことなので、そのことはずっと忘れていたのだけど、
河合隼雄の「『老いる』とはどういうことか(講談社+α文庫)」を読んでいて、
ふと思いだした。


なぜ違和感を覚えたのか。


言葉のあやかもしれないけど、「引き出す」と言った時に、
その主体は、コーチ側にあるのか、それともクライアント側にあるのか。


「教える」と一緒で、実は「引き出す」も、その関係性の主体はコーチ側に
あるんじゃないか。


だって、その時、クライアントは、「教えられる」のだし、「引き出される」のだろう。
いずれにせよ、受け身だ。


もし、教えるでもない、引き出すでもないとして、
本当にクライアントが主体になれる関係があるとしたら、
それはいったい何だろう、そんなことを考えた。


ちなみに、


その「老いるとはどういうことか」の中で僕の目を引いたのは、こんな文章だ。


壮年の大人は「オレについてこい」とばかり子供たちを引っ張り上げようとするのに
対して老人はそんなにせっかちにならず、むしろ、子どもの魂から流れてくるものに
沿いながら、それを導くことを考える。


クライアントの魂から流れてくるものに沿う。


それって一体、何を、どうすることだろう…。
もちろんコーチングとセラピーとでは違うのだろうけど。


というわけで、今からサーシャとアンナとアリゾナに行ってきます。
このブログ、一週間ほど休みます。


みなさま、素敵な週末を!

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友だちのドイツ人カップルにカウンセリングをする

このブログでも何度か登場しているドイツ人のサーシャが、一昨日、5か月ぶりに
ハンブルグからサンフランシスコにやってきた。


僕は早速昨日、アンナの家に呼ばれて、ディナーを御馳走になった。
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サーシャは料理がとても得意だ。
サラダ、マグロのカルパッチョ、パスタの順で出てきた。


いつもながらの彼らのスタイルで、一皿作って、食べて、また一皿作って、食べて…、
時間をかけて、会話と食事を楽しむ。
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現在、スタンフォードのメディカルスクールで研究をしているアンナは、
来年の2月に契約が終了し、ドイツに帰国する予定だ。もしかしたら、
今回がサーシャの最後のサンフランシスコ滞在になるかもしれない。


というわけで、僕たち3人は、今週の金曜日から、1週間かけてアリゾナ方面に
キャンプに行くことに決めた。僕は、明日から一週間、クラス(とブログ)を
休むことになる。


当たり前のことと言えば当たり前なのだが、僕はとてもクラスに真面目に
出席している。こういう決断をする時には、スペインのカタルーニャ出身の
クラスメートがよく僕にしてくれるアドバイスが頭に浮かぶ。


「TJ、クラスももちろん大事よ。でもね、例えば、今日クラスで読んだ
リーディングの内容を3年後も覚えているかって言ったら、どう?
TJは自分が3年前に読んだ本の内容って覚えてる?

でも、仲間と素敵な経験をしたり、一緒にどこかに行って過ごした楽しい時間は
3年経っても、昨日のことのようにちゃんと覚えているじゃない?

どっちが人生にとって価値のあることかと考えたら、言うまでもないことだと
思うわ!」


…。


僕は、彼女には感化されすぎないように気をつけている。


さて、


実は、今セメスターに履修しているMarriage & Couples Couselingの
ファイナルペーパーの一つに、自分がしたセッションを録音して分析をする、
というのが課せられている。


基本は、クラスメートに演じてもらうのを録音するのだが、
せっかくなので、僕はサーシャとアンナにセッションをさせてほしいとお願いをしてみた。


二人は快諾してくれた。


というわけで、ディナーのあとに35分ほどセッションをさせてもらった。


日本人の僕が、サンフランシスコで、ドイツ人のカップルをセラピーする。
それも全員、ほんのちょっとだけワインの入った状態で…。
あまり、ありそうにもない組み合わせだと思った。


ちなみに、この課題では、生徒はセラピストとして、
セッション中に次の4つを試すようにとインストラクターから言われている。


1. Slow down(興奮しがちな会話を落ち着ける)
2. Somatic(言葉だけでなく、身ぶりや表情の変化に注意を払う)
3. Naming(二人が陥っている会話の無意識なパターンを指摘する)
4. Affirmation(二人を、それぞれを肯定する)



二人からのフィードバックの時間に25分、セッションと合わせて合計1時間。
僕はとても有意義な経験をさせてもらった。


実は、セッション前に一枚、セッション後に一枚、写真を撮らせてもらった。


それを見たサーシャは、
「あれ?TJ、僕たち、セッション前の方がいい表情をしているじゃないか?
TJ、もしこの写真をブログに使うんだったら、順番を変えた方がいいぞ。
うん、誰もわからないんだから、そうしなよ」


意地悪そうに笑った。


セッション前
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セッション後
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病院でのインターンとクラスメートの成長

CIISに来てから2年が経とうとしている。
僕がもしMBAを学びに来ている学生だったら、もう卒業ということになる。


僕はCIISで日々を過ごすうちに、ここではカンセリングサイコロジーを学ぶのではなく、
カウンセリングサイコロジーを通して自分自身を学ぶのだ、と思うようになった。
CIISの人たちは、それをJourneyと呼ぶのだけど。


自分自身を学ぶのに、2年はとても短い。
僕はプラクティカムも含めて3年の予定でCIISに来ているけど、それでも短いのだろう。


僕はあれから…、どのぐらい変われたのだろうか。
少しは成長できているのだろうか。


今日の昼下がり、CIIS近くのサンドイッチ屋に行く途中、
そんなことを考えながら、ゆっくりと深く息を吸いながら、
この貴重な時間を噛みしめてみた。


さて、昨日、今セメスターからプラクティカムを始めているクラスメートと
久しぶりに会って話しをした。彼女は台湾からの留学生だ。


彼女はプラクティカム先にInstitute for Health and Healingという
Fillmore Streetの近くにある大きな病院を選んだ。Fillmoreは、
たくさんのオシャレなカフェやブティックが並んでいるStreetだ。


その病院には、12名のインターンがいて、そのうち2名がCIISからの
生徒ということだった。


彼女がこんなことを言っていた。


「他大学からのインターンと話をしたり、彼らの反応を見たりしているうちに、
CIISで学ぶって、とてもアドバンデージがあるんだなって実感したの」


僕は、とても興味深く耳を傾けた。


「他の大学では、自分を深めるプロセスをほとんどやらないのね。
だから、グループスーパービジョンで少しでも感情的な場面に出会うと、
みんな動揺してしまうの。

でもほら、CIISって、クラスではそんなことの連続じゃない。

だから、みんながIntenseだ…、と動揺する中で、
私は、それほどでもないんじゃないかしらと、冷静に自分とグループに
起こっていることを観ていられるの。」


彼女の病院には、末期がんの患者もたくさんいる。
打ちひしがれている患者さんの心の悲しみをいかに和らげることができるか、
それが彼女たちの仕事の一つになる。


でも、それがなかなか難しい。


患者のリアルな人生と向き合うことで、自分の無力さを知る。


落ち込みながら病院の外に出て、Fillmore Streetを歩く。
そこはきらびやかな通りだ。人生を謳歌している人びとで溢れている。


そこで彼女は、暗闇から一気に光の中に飛び出たときのような目まいを覚える。
なんて違う世界が隣り合わせになっているんだろう…。


この2ヶ月間のインターン生活を語る彼女は、
ずいぶんと成長しているように思えた。

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変わっていくものと、変わっていかないものと…。

CIISでは、セメスターが変わり、クラスが重ならなくなると、
どんなに仲が良くなってもなかなか会えなってしまう友だちが出てくる。
プラクティカムが始まったCohortとは、特にそうだ。


僕にとって、Stephanieがその一人だ。


去年は、クラスだけでなく、ホームパーティやクリスマスパーティに
呼んでもらったり、Lake Tahoにも一緒に行ったりして、とても
仲良くさせてもらっていたんだけど。


今週の火曜日、10か月ぶりぐらいに彼女に会うことができた。
彼女のパートナーJimの母親Ellenの87歳の誕生日に呼ばれたのだ。Dsc01965_2












僕は、JimにもEllenにも何度かあったことがあって、とても親しくさせてもらっていた。


僕はCIISからEmbarcaderoに向かい、Ferry Buildingから、
Larkspur行きのフェリーに乗った。


Ferry Buildingから見た、夕方17時40分のFinancial District。
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Ellenはとてもパワフルで、夜の12時近くまで、冴え渡る頭で、
機関銃のようなトークを繰り広げた。


僕は、そのトークに耳も頭も蜂の巣のようにされながらも、
Ellenのこよなく愛するJazzをバックミュージックに、美味しい料理とケーキと、
素敵な時間を楽しんだ。
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でも…、変化もあった。


去年は一緒に住んでいたJimとStephanieは、つい最近、別居を始めていた。
今回のEllenのバースデーは、その一人暮らしを始めたStephanieの家で初めて
Ellenを招いて催されたパーティだった。


「別居はしても、私たちはいい友人なの」と、Stephanieは言った。


そして…、


Jimは、今年の8月に仕事を失っていた。


Ellenの明るい振る舞いは、それらのことも意識してのことだったのだろうか…。


時間は流れている。
去年から確実に変わってないな、と確信したのは、僕の英語力ぐらいなものだ。


僕は、87歳のEllenに、CIISのBook Storeで買った、
CIISロゴ入りTシャツをプレゼントした。

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どちらの側面を信じるのか

プラクティカムの発表があった日の午後から翌日にかけて、
「誰がどこに受かった、どこに行った」という情報が生徒間に飛び交った。


学校では、同じセンターに行くことになった生徒同士がハグをしたり、
既にそこのセンターでプラクティカムをしている生徒と情報交換を
する姿がたくさん見られた。


今回の応募者の中では、唯一、CIISの外部に行くことを選んだ僕には、
少しうらやましい風景だった。


「TJと一緒のセンターになることを楽しみにしていのに…、とっても残念だよ」
でも、I am happy for you.」


一緒に応募をした何人もの仲間たちから、そう言われた。


思えば…、


以前、このブログでも触れたように、ファカルティメンバーの一人から英語力を
不安視され、出鼻をくじかれてスタートした僕のプラクティカムサイト探しだった。


でも、その視点を変えてくれたのが、CIISのプレースメントオフィス(就職課)
スタッフのBeckyとUrslaだ。彼女たちには、レジュメやカバーレターを
添削してもらったり、面接の模擬を3回もしてもらった。


そのプロセスで気づかせてもらったこと。


英語が第二言語ということは…、


英語以外に他の言語を話すことができるということ。


留学生であるということは…、


異文化体験の現在進行形のバックグランドと、異文化理解の素地を
持っているということ。


男性であるということは…、


女性がマジョリティを占めるこの世界においては、アピールポイントになるということ。


「第一希望はPacific Instituteだから、CIISのカウンセリングセンターの面接には、
何だかこう、モチベーションが上がらない感じがしないでもないんだけど…」


僕がこう言うと、


「あら、だったら、気楽にのびのび自分を表現できるということね。
面接に臨むにあたっては、とても理想の状態よ」


という答えが返ってきた。


事実は、一つだ。それをどちらの方向から照らすかによって、強みにも弱みにも
表現できる。あとは、僕がどちらの側面を強く信じるか、ということだ。


僕の合格を一番喜んでくれたのは、彼女たちだった。

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自分をまた一つ確認する

朝9時にTop Listの5名に3つのカウンセリングセンターから一斉に合格の連絡が行く。
それらの結果を踏まえて、2時間後に第二候補者へ連絡が行く。


昨日の火曜日がその日だった。


僕は、朝9時05分にChurch Counseling Centerから。
続いて、9時10分にGolden Gate Counseling CenterからOfferの連絡をもらった。


応募者が多かった今セメスターのCIIS Integral Counseling Centerのプラクティカム。
2つから合格通知をもらったということは、自分で言うのもなんだが…、
なかなかだ。


どちらも、とても魅力的なCenterだったので、とても迷ったのだけど、
結局、僕は2つとも断った。


断りのお詫びをした瞬間、電話の向こうの担当者から、一瞬の溜息が聞こえた。
そして、「ぜひ別の場所でも頑張ってほしい」という励ましのエールが続いた。


本当に僕に来てほしいと思ってくれていたんだなという思いが伝わってきた。
だから、なおさら辛い決断だった…。


これで、僕のプラクティカムサイト探しの一連のアクティビティが
すべて終了したことになる。


CIIS Integral Counseling Centerへの応募を軸にした約2か月間の長丁場だった。


僕は、CIISの外のセンターに行くことを選んだけど、
この2ヶ月間を振り返ってみると、それは自分を掘り下げ自分を知る、
その掘り下げた自分に対する周囲からのフィードバックによって客観的に自分を知る、
質の高い自己探求のプロセスだったように思う。


僕がこれらの一連のプロセスから確認できたことは何だったろう。


不遜に聞こえるかもしれないけど、それは…、


言葉や文化の違いを超えて自分が放つ、“存在感”。


人としての密度が醸し出す雰囲気、とでも言うのだろうか。


それは、異文化の中で、日本とは違う文脈の中で、いろいろな社会的なものを
剥ぎ取られた中で確認した、素の自分。


僕は、今回のプロセスを通して、自分のこれまでの“人間としての歩み”を
全肯定されたような気がした。大げさかもしれないけど…、ここ、アメリカに。


僕は、少しの自信と、新しいスタートラインを手に入れた。

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Jessicaとの面談

昨日、Golden Gate Counseling Centerの個人面談があった。
3つ受けたCIIS Integral Counseling Centerの最後の面談だ。


Golden gate Counseling Centerは、CIISから徒歩で15分の距離にある。
僕は16時に責任者のJessicaと30分間の面談に臨んだ。


Jessicaは、セラピストとしてはもちろん、人間としてもとても魅力的だ。
彼女に惹かれてGolden Gate Counseling Centerを希望する生徒も多い。


面接ルームに通されると、僕はソファに腰かけるように勧められた。
彼女はひと呼吸おいてから、僕に尋ねた。


「いまどんな気持ちかしら?」


「緊張しています」


僕がそう答えると、彼女は静かに微笑みながら、
深呼吸をしましょうと言った。


彼女の呼吸に合わせて僕は深く呼吸をした。


ほんのしばらく沈黙が続いた。


不思議なのだけど、その沈黙の間に、体温と同じ温度の肌理の
細やかなきれいな水が、さらさらと部屋全体に満ちていくような感じがした。


とても鮮明で、不思議な体験だった。


彼女は言った。


「この時間は、短いけど、お互いをより良く知るための時間なの。
私もひとつ質問を用意しているけど、あなたの質問から始めてもいい。
あなたが一番リラックスできるやりかたで始めましょう」


僕は、最初に質問してもらえた方が嬉しい、と言った。


彼女からの質問は、


「来年から始まるGolden gate Counseling Centerでのプラクティカムに、
何を期待しているか、何を不安に思っているか」


というものだった。


南の海にぷかぷか浮かびながら満点の星空を眺めているようにリラックスした僕は、
のびのびと自由に話すことができた。


僕がCIISで感じた日本とアメリカのコミュニケーションスタイルの違い、
アメリカ人と日本人の共感の表現の仕方の違い、
場やコミュニティに関する捉え方の違い、それらの違いから僕が何を学んでいるか、
ついでに、英語についてどのぐらい通用するのか不安も持っていると伝えた。


すべて、このブログで触れてきたことだ。


彼女はとても興味を持って聞いてくれた。
そして、こう言った。


「あなたが、いま話してくれたこと、実は私もとても興味を持っているの。
私自身、自分の中に、アメリカ人としての“枠”を感じることがあるから。


それから…、


あなたは、英語のアクセントを気にしなくてもいいわ。
あなたの世界をそのままセッションに持ち込めたら、それだけで、
充分に素晴らしいセラピストとして通じると思うから」


まだまだ話したいと思ったけど、時間はあっという間に過ぎた。
一級のセラピストがホールディングする場や空間と言うのは、
こういうものなんだなと深く実感した30分間だった。


インタビューの終わりに、彼女はこう言った。


「そうそう、あなたはとてもいいユーモアセンスを持っているのね。
前回のグループインタビューで、あなたの発言にみんながあれだけ大笑いをした。
驚いたわ…。異なる文化を持つ人の中に入ってユーモアを発揮するのは
とても難しいことだから。その点、あなたは特別なようね」


「ええ、その点に関しては僕はあまり苦労しないみたいです」


僕が正直にそう言うと、


「感謝しないとね」


と彼女は笑った。

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Daylight Saving Timeが終わる

11月1日の深夜2時、アメリカのDaylight Saving Timeが終了した。
つまり、サマータイムが終わり、今日から1時間、時間が後ろにずれた。


この制度、時間を有効に使いましょう、というアメリカ的合理的精神の現れか。


昨日、10月30日、CIISで僕と同じプログラムを学ぶ、日本人女性のMsさんの家に
いつものメンバーで食事に招かれた。頭の回転の速い、ユーモア精神と
ホスピタリティ精神に溢れるアメリカ人の彼氏が一緒に歓待してくれた。


彼女たちの住まいは、CIIS近くの高層ビルディングにある。
そこからCity Hall(市庁舎)を見下ろす眺めは最高だ。
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手造りピザ、野菜サラダ、ポテトサラダ、アップルケーキ…、美味しい食事に囲まれ、
リラックスした時間を過ごしながら、僕は彼女とDaylight Saving Timeについて
話していて気づかされたことがある。


「アメリカ人の合理的な考え方もいいのだけど、時間を変更せずに、
『日が短くなったね』、『日が延びたね』っていう会話を交わして、
移ろう季節の情緒を味わう余裕も、社会には大事じゃないかって思うの」


なるほど…、


Daylight Saving Timeは、季節の移ろいという情緒を僕たちから
奪っているかもしれないのか…。


もしかしたら僕たちは、他にも、人間らしい、何か大切なものを
失っているのかもしれない。合理性を追求することによって、
いろいろ、気づかないうちに…。


一日が一日だけ25時間になった今日、日曜日の夕方。
CIISからの帰りに通ったOcean Beachには、紫色の時間がゆっくり流れていた。Dsc01890

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ひとつ決まる

金曜日、Pacific Instituteから採用の通知が来た。
「Gerontology(老年学)」の普及を目的とし、非常に革新的なプログラムを
提供しているInstituteだ。非常に評判が高い。


通常は、8月から始まるプラクティカムなのだが、僕は、特別に来年1月からの
スタートが認められた。


ありがたいことだ。


自分の未来の方向性と、Pacific Instituteでの経験がどのように交わるのか…。


実は未だよく見えていないところもあるのだけど、僕は、何か惹かれるものを
感じている。


なぜだろう…。


僕は日本でそれなりのエグゼクティブコーチとして、クライアントのビジョンを描く
お手伝いをしてきた。


夢を持つ。ビジョンを描く。それに向けて目標を立てる。計画に落とし込む。
そして、コミットする。とても大事だ。


でも…、何かこう、それだけだと、
本質的な何かが欠けているように思うのは気のせいだろうか。


例えば、あなたが描いた5年後のビジョンの先には何があるのだろう。
さらに5年後には?そのさらに5年後には?


来る日も来る日もイメージし続ける、あるいは達成し続ける5年後のビジョンの先に
待っているものは何だろう。


それは…、


死だ。


残念だけど、とーっても残念だけど、
あなたのビジョンのもっと先には、確実に、死が待っている。


その死を意識しない文脈に描かれたビジョンは、
下書き、あるいはお絵かきの域を出ないんじゃないか。


感受性を研ぎ澄ませる。遠くに死を直感する。
その時、気づくかもしれない。


夢を持つ、ビジョンを実現する…は、方便だ。


大事なのは、


自分の外側に設定した何かの実現ではなく、そこを目指す本気のプロセスの中でしか
見えてこない、内なる自分、納得のいく自分を手に入れることの方だろう。


描いたものなんて、どうでもいい。


個人的に、死を前に、自分を支えてくれるものは、
自分が納得した自分と、その納得した自分が繋がってきた人たちとの想い出…、
結局、この二つなんじゃないか、なんて想像している。
富や名誉にも興味ないわけじゃないんだけど…。


だから、


ビジョンを持つことは大事だ。でも、それは、「実現」することにではなく、
その中を、瞬間、瞬間、生きることに本質的な意味がある。


でも、これは頭で理解するものじゃない。直感するしかない。


…。


どうやったら、ビジョンを“生きる”ことができるのだろう。


もしかしたら、


現在(いま)という時間を洞察することが、何かのヒントになるかもしれない。


「過去も未来も、現在(いま)という時間にしか存在していない」


この言葉を、100回ぐらい反芻してみる。
すると、何かがほんのちょっとにじみ出てくるかもしれない。


過去も未来も、現在(いま)この瞬間のあなたが、頭の中で想い描いている
ファンタジーに過ぎない。


だから、過去も未来も現在(いま)にしか存在しないのだ。


これを突き詰めると…、


ビジョンを生きる人とは、真に現在(いま)を生きる人と、ほとんど同義だろう。


ビジョンとは、現在(いま)のことなのかもしれない。


…。


ここに書いたこと、僕はすべてを実感できているわけじゃない。
Pacific Instituteで過ごす日々が、そこで出会うであろう出来事が、
おそらく、僕にこのようないろいろな洞察を与えてくれるんじゃないか、
そう直感しているだけです。


来週月曜日に、3つあるCIIS Integral Counseling Centerの最後のインタビューが
終わる。翌日の火曜日には、すべての結果が出る。


おそらく、それで僕のプラクティカムサイト探しのプロセスは、いったん終了になる。
今週末、どの方向を選ぶのか、いろいろ考えなくては。

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インタビュープロセス

CIIS Integral Counseling Centerのインタビュープロセスが続いている。


1.Open House、2.Group Interview、3.Individual Interviewと続くので、
約一ヵ月間にわたるプロセスになる。


ものすごく丁寧とも言えるし、かなりの負担になる、とも言える。


いま感じているのは、このプロセス自体が自分を深めるいい機会になっている
ということ。ある意味、とてもCIISらしい。


さて、CIISに限らず、プラクティカムのIndividual Interviewには、
それなりの服装で行く必要がある。


Tシャツ+ジーンズのあまりにもカジュアルな服装か、
日本から持ってきて一度も着ていないお堅いスーツしか持っていない僕は、
ドレッシーとカジュアルの間にある襟付きシャツを買いに行くことになる。


CIISの近くに、Rolo Garageというセレクトショップがある。
そこで“Acne”というブランドのシャツを1着だけ買った。
半額のセールスだったけど、税込みで$108。意外に高かった。


ネクタイはせず、スーツのジャケットも着用しない。
ややスタイリッシュなカジュアルさがポイントだ。


さて、昨日はChurch Street Counseling Centerのグループインタビューがあった。


12名の申込者が二つのグループに分けられた。
一方のグループは2Fに、もう一方のグループは1Fに。


そこで、既にプラクティカムをスタートさせている生徒たちに囲まれながら、
僕たちはインタビュアーのする4つの質問に答えることになる。
持ち時間は一人3分だ。


1. Church Counseling Centerの持っているあなたのポジティブファンタジーと、
ネガティブファンタジーを話してください。
2. いまこの瞬間に何を感じているか、話してください。
3. あなたは自分のAnxietyをどう扱いますか?
4. グループアクティビティに関してどういう印象を持っていますか?


全てが終わると、僕たちは、もう一方のグループと部屋を入れ替わった。
そこには、また別のインタビュアーとプラクティカム中の生徒が待っていた。
別の質問を4つ、同じプロセスでされた。


1. あなたのGrowing Edgeは何ですか?
2. あなたが情熱を感じているものは何ですか?
3. あなたにとって“Change”とは何ですか?
4. Transformationalな人生体験をひとつだけ話してください。


こう言っては何だが、僕はすべての質問で、大爆笑をとった。
別にそれがインタビューの目的ではないのだけれど…。


要は、そのプロセスを自分らしく楽しめたということだ。


最後に、全員が一つの部屋に集められ、一つだけ質問がされた。


「もしあなたが現存する人でも、しない人でも、空想の人でもいい。
誰かとランチをするとしたら誰としたいか、その理由も述べてください」


カウンセリング史の有名人を答える人もいれば、無くなった祖母、
あるいは、ガンジーやイエスキリストと答えた人もいた。


僕は、いろいろ頭に浮かんだけど…、


60年後の自分に会ってランチをしてみたい。
100歳になった自分に会って、「人生、どうよ?」と尋ねてみたい。


と話した。


教室に、静かな「おーっ」が沸いた。

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腕を磨く一番の方法

Marriage and Counselingのクラスも後半になり、Liveセッションが増えてきた。


実際にクラスメートが自分のパートナーをクラスに連れて来て、
インストラクターのMichaelと真剣勝負の50分のセッションを持つのだ。


すでに3組が終了し、残り3組が予定されている。
11人のクラスで、6人が自分のパートナーを連れてくるのだから、その比率はかなり高い。


毎回、結果を出すMichaelの力量に生徒が高い信頼を置いている証だろう。


今日のLiveセッションでは、クラスメートがLawyerのご主人を連れて来た。
ビジネス的にもかなりの成功を収めているやり手だ。


クラスの冒頭にセッションは始まった。


彼の単刀直入にスピーディにズバズバと話すLawyerスタイルのコミュニケーションと
Michealのゆっくりと情感をこめて、包み込むように話すCounselorスタイルの
コミュニケーションが交差する。


前半、いつもより少し手こずった感のあったMichaelだったけど、今回もきっちり、
結果を出した。


Liveセッションの後は、クライアントの二人も交えて、
質疑応答を兼ねたディスカッションタイムだ。毎回、活発なやり取りがなされる。


僕は、Michaelに「最初、懐疑的に構えていたLawyerの彼と、ラポールを築けたと思った
瞬間はいつか?」と尋ねた。


「ふむ、いい質問だ…」
いつも簡潔明瞭に答えるMichaelだが、ちょっと考え込んだ。


クラスメートからは、この時じゃないか、あの時じゃないか、ああだこうだ、
と意見が出された。


そのやりとりを踏まえて、Michaelは言った。


「クライアントとの最初の信頼をつかむために何をするのか。
どうやってそのタイミングを掴むのか。そして、何を持ってラポールを築けたと
認識するのか。自分なりの確かな感覚や方法論を修得するには経験を積むしかない。
少なくとも、10年ぐらいのね。」


「10年か…」クラスメートから溜息が洩れた。


「でも、それを短縮するいい方法がある」


クラスメートが固唾を呑んで耳を傾ける。


「自分のセッションをビデオに撮ること。
それを自分より上のレベルの人と一緒に観ること」


シンプルだけど、腕を磨くのにそれに勝る方法はないとのことだった。

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疲れたなと思った日には…。

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ああ、いろいろ疲れたな…と思った日の帰り道は、
進路をOcean Beachにとるようにしている。


CIISからGolden Gate Parkに向けて自転車のペダルを踏む。
そこを真一文字に横切ると…、Ocean Beachだ。


ちょっと遠回りになるけれど、いつも、いい感じの風景に出会える。


犬を連れて浜辺を散策しているカップル…。Dsc01838_3












向こう側から来た、同じく犬を連れた人たちと交錯する。


まず犬同士が出会い、そして…Dsc01843













全員が同じ方向に歩き出した。Dsc01847












ただ…、それだけ。


僕は、海風を体全体に感じながら深呼吸をした。


もう少し待てば、陽が沈む。
するとOcean Beachはまた違う表情を見せる。きっと奇麗だろう。


でも、今日のところはこれで充分だ。


僕は再び自転車のペダルを踏んだ。Dsc01848_2

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Gerontology(老年学)のInstitute

金曜日、CIISではない、外部にあるプラクティカムサイトの初インタビューに行ってきた。


そこは非常に革新的なプログラムと高い評判を持つ、GerontologyのInstituteだ。


Gerontologyの研究と教育を目的にすると同時に、そこには、肉体的、精神的な障害を
持つ人はもちろん、認知症の人、そして、健全だけど老齢から来る肉体の衰えを持った
ご老人たちが住んでいる。


僕は、CIISのインストラクター、Dorisの紹介でディレクターに会うことになった。


その場所はCIISからも近い。
ドアを開けると、非常に明るく、清潔で、ダイバーシティに溢れる空間が広がっていた。
世界中から、インターンが集まっている。


僕がその日紹介されただけで、アメリカはもちろん、インド、アフリカ、ドイツ、フィリピン、
といった具合だ。


ディレクターは、とても大らかで大柄で…、明るい人だった。
彼女は僕に会うやいなや、施設を案内しましょう、と言った。


僕は、いろいろな部屋に通されて、たくさんのスタッフやご老人に
“面談”されることになった。


その時間、およそ1時間半。たくさん感じるところがあった。


認知症のご老人は…、短期記憶が続かない。

「ところで、お名前は?」 

「TJです」

「そうですか、TJさんですか」

でも、僕は45秒ごとに繰り返し同じ質問をされることになる。


彼らはhere and nowを生きているのだ、そう思った。
いまこの瞬間に交わされている会話がすべてなのだ。


あるいは…、


時間の流れが違う。


例えば、helloと声をかけてから、相手を認識して反応するまでの時間が、
通常の人とは違う。僕には沈黙、あるいは空白に感じられる時間も、
彼らには違う意味がある。手の動き、眼の動き、表情の動きを見ていると
それが伝わってくる。


今の社会は、時間の流れ方が単一だ。それも、産業ペース、若者ペースだ。
そして、時代とともに、その時間の流れは加速している。


僕たちは、若い頃にはそれに加担し、年を取ってからは、
返す刀でそのスピードに斬られることになる。


でも、20年後には日本の人口の3分の一が高齢者になるのだ。
多様な時間の流れを許容する社会の構造とはどういうものだろうか…。


今日、一度にたくさんのお年寄りに出会ったことで、彼らが身近にいないことで、
僕たちが見失っているものがあるんじゃないか、なんてことも考えた。


それは、効率や生産性の外にある、優しさ、寛容さ、人間らしさ…。
彼らと触れ合うたびに、心の防衛メカニズムを解き、オープンになっていく
自分を感じた。


もしかしたら…、


僕たちはお年寄りを通して、もう一度、社会の人間性を回復していけるのかもしれない。


この文脈での紹介が適切かどうかわからないけど、
僕は開高健のNurse Logに関する文章を思い出した。とても好きな文章のひとつだ。


~「河は眠らない」より引用~

森を歩いているとよくわかるんですけれども、
斧が入ったことがない、
人が入ったことがない森、
というのがそこらじゅうにいっぱいある。

それで土が露出していないで、
シダやらなんかに覆われていますが、
草とも苔ともつかないもので森の床全部が覆われている。
それから風倒木が倒れてたおれっぱなしになっている。
これが実は無駄なように見えて実に貴重な資源なのであって、
風倒木がたおれっぱなしになっていると、
そこに苔が生える、
微生物が繁殖する、
バクテリアが繁殖する、
土を豊かにする、
小虫がやってくる。
その小虫を捕まえるためにネズミやなんかがやってくる、
そのネズミを食べるためにまたワシやなんかの鳥もやってくる、
森にお湿りを与える、
乾かない。
そのことが河を豊かにする。
ともう全てがつながりあっている。

だからあの風倒木のことを、
森を看護しているんだ、
看護婦の役割をしているんだ。
というのでナースログ(nurse-log)というんですけれども、
自然に無駄なものは何もない、
というひとつの例なんです。

そうすると人間にとってナースログとは何でしょうか?
無駄なように見えるけれども実は大変に貴重なもの、
というものも人間にはたくさんあるんじゃないか?
それぞれの人にとってのナースログとは何か?

無駄をおそれてはいけないし、
無駄を軽蔑してはいけない。
何が無駄で何が無駄でないかはわからないんだ。

ここがひとつの目の付け所ですね、これは大事なことですよ。
無駄なことしてると思うことはないんであって、
いつかどこかでまた別のかたちで甦っているのかもしれないんだ。

~引用終わり~


僕は、インタビューの最後、ディレクターに言われた。


「私はあなたをここに来るべき人だと思ったわ。
とても素敵なハートと忍耐強さを持っている。あなたが話しかけると、
お年寄りの表情が輝くわ。


でも、通常はこのプラクティカムがスタートするのは8月からなの。
あなたは来年の1月からスタートしたいのよね。そのためには、
いくつか解決すべき障害があるわ。少し時間をもらえるかしら」


さて…。

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I feelメッセージを使うことで見えてくるもの

CIISは、3つあるCounseling Centerの責任者に本当に魅力的な人物を据えている。


Pierce Counseling Centerのダン、Goldengate Counseling Centerのジェシカ、
Church Counseling Centerのルー、持ち味は違えど、深みと軽さを併せ持っている。


先週水曜日の午前11時、Pierce Counseling Centerの個人面談があった。


部屋に通され、ソファに座るように薦められた。


面談者は、ダンとトレーニングの責任者スーザンだ。


Pierce Counseling Centerはプラクティカムトレーニングの中心に
T-Groupというグループワークを据えている。


T-Groupとは、わかりやすく言うと、お互いへのフィードバックによる
グループダイナミズムによって一人ひとりの成長を図るというものだ。


これは、セラピストにとって、自分の防衛メカニズムにしっかり向き合えること、
それを扱えることが重要と考える、Pierce Counseling Centerの基本方針から来ている。


T-Groupには議題がない。
I feelセンテンスを用いた、お互いがするhere and nowのフィードバックのみによって
グループが進むのだ。


だから、メンバーは否応なしに自分の防衛メカニズムと直面することになる。


非常にインテンスな瞬間の連続だ。
弱いセルフの持ち主では、1年間耐えらない。


だから、面接は、T-Groupについてどう思うか、どういう体験と印象を持っているか、
ということが中心になる。


僕は、Non-Violent Communicationの本から以下の言葉を引用して、
自分の印象を説明をした。


"What others do may be the stimulouse of our feeling, not the cause."


この考え方は、面白いと思う。


つまり、例えば自分が相手の言動に傷つく、あるいは苛々する真の原因は、
実は、自分の中にある。他人はそれを刺激したに過ぎない、ということなのだから。


この考え方を突き詰めていくと、「自分の感情には自分で責任を持つ」という
「自責」のスタンスになる。


なぜ私は、彼、彼女の言動にイラついたのだろう。傷ついたのだろう。
そう自問するスタンスだ。


そう捉えることのできる人たちにとって、グループのダイナミズムは最高の成長剤だろう。
Pierce Counseling Centerは、そういう人たちが集まる場らしい。


話は飛ぶようだけど、昨日の土曜日、Transpersonal Psychotherapyの
一日クラスがあった。


そこには、この秋セメスターからPierce Counseling Centerでプラクティカムを始めた
クラスメートがいる。


彼女はいま、しんどいプロセスにいるようだ。


僕は聞いてみた。
「参加者全員が、純粋にI feelメッセージを使ったフィードバックをするなら、
誰も他人を傷つけることは無いんじゃないの?だって、I feelとは、
結局、自分を語ることになるんだから」


彼女は言った。


「そうなの。でもね、何というか…、I feelメッセージを使うことによって、
自分の内側の傷に気づくことが、自分を傷つけるの」


相手にフィードバックされることで傷つくのではなく、相手にフィードバックすることで
自分の心の傷に気づく。


なるほど…。


それは確かに、ハードかもしれない。


<付録>
Pierce Counseling Centerのカウンセリングセンターの1階は、教会になっている。
そこに日本語の文字が書かれている額があった。

第二次世界大戦の前まで、このあたりには日本人が多く住んでいた、と
聞いたことがある。そのなごりなのだろうか。Dsc01808

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CIIS Integral Counseling Centerのグループインタビュー

Integral Counseling Centerのインタビュープロセスが続いている。


授業と並行してインタビューの準備その他に追われるので、
まるで仕事を持ちながら転職活動をしているような忙しさになる。


先週から今週にかけては、3つあるCIISのCounseling Centerのうち、
Pierce Counseling Centerのグループインタビューと個人インタビュー、
Goldengate Counseling Centerのグループインタビューがあった。


グループインタビューは、現在、そのカウンセリングセンターでプラクティカム中の
生徒も全員参加した部屋の中で、一人4分~6分間の時間が与えられ、
僕たちは自分自身について語ることになる。


私が、なぜCIISに来たのか、そこでどういうプロセスを歩んでいるのか、
なぜこのカウンセリングセンターで学びたいのか…。


自分の心の準備は整ったと思う人が自発的に手をあげてスタートする。


毎回、とても緊張感に溢れる空間になる。
自己開示が尊ばれるCIISだけあって、涙ぐんで自分を語る人もいる。


先週水曜日、Transpersonal(自己超越) Psychotherapyをメインアプローチに
据えている、Goldengate Counseling Centerのグループインタビューがあった。


僕は、10数名いた申込者の終わりから3番目に手を挙げた。


「実は、僕はCIISに…」


重々しく、少したどたどしく、若干の間を置いてから、こう言った。


「教祖になろうと思ってやってきたんです。」


一瞬の沈黙の後、部屋に大爆笑が起こった。場の雰囲気がイッキに和らいだ。


「前回のPierceのグループインタビュー時も思ったけど、TJの話はいつも印象に残るよ」
そう複数の参加者に声をかけられた。


えっ、本当にそう思ってCIISにやって来たのかって?


アハハ、それは内緒です。


今週は、Church Counseling Centerのグループインタビューがある。
そこはGestalt Therapyをメインに据えている。だから同じ「掴み」は通用しない。


というわけで、一連のインタビュープロセス、緊張感のある日々が続いています。

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自分の“世界 ”が揺れる時

僕のCohort(同期のクラスメート)では無いけれど、今までクラスが3つ重なって、
CIISの仕事でも関わりができて、良く話すようになった友だちがいる。


彼は、素敵な家とWifeと子どもとLifeをオレゴンに残して、CIISにカウンセリングを
学びに来た。


僕よりも上背が高く、あご髭を蓄え、頭のてっぺんが少しはげ上がっている。
とてもクールでロジカルでシャープな頭脳の持ち主だ。


CIISでは、クラスの大半が女性なので、彼の意見と存在はいつも一目置かれている。


今日、彼と話をしていたら、彼は、自分はTransgenderだと言った。


僕は、そうなんだね、と即答した。


…。


その言葉と、彼が一致するのに15秒前後かかった。


(ん?Transgender?あれ?)


僕は、昨年のHuman DevelopmentやCross Cultural Counselingのクラスで、
その概念について習っていた。Transgenderの人の講演も聞いたことがあった。


でも急なことだったので、反射的にトンチンカンな質問をしてしまった。


「えっと…、女性も男性も両方好きになれるんだっけ?」


彼は笑ないがら言った。


「いや、違うよ。Transgenderっていうのはね、僕の場合、誕生時に、
Biology的には女性の肉体を持って生まれてきた、ということなんだ。
そして、今は男性なんだ。僕には妻も子供もいて…、いろいろ複雑だろう?」


一瞬、自分の中で、世界がぐるっと一回転したような気がした。


ぐるっと一回転して、元の位置に戻った世界が、
自分の中で未だ揺れているのを感じながら、僕は声を絞り出した。


「確かに…、複雑だ。」


これまた、なんとも間抜けな返答だった。


それにしても…、


男にしか見えんかったな。
まあ、彼は彼だしな。これまでと何も変わらんな。

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Time Out!

今日のMarriage & Couples Couselingのクラスで。


感情的なぶつかり合いの多いカップルに対して、
解決策としてセラピストが二人に課すチャレンジのひとつ。


それが“Time Out!”。


ルールは簡単だ。


議論が白熱し、口論になってしまったら、一方が“Time Out!”と叫ぶ。
必ずこの言葉を使う。そうしたら、両方は議論を一切やめる。

そして、クールダウンする時間をとる。脳が興奮状態から覚めるには、
通常20分から30分かかるそうだ。その間、その場を離れてもいい。

そして、“Time Out”を叫んだ方は、必ず戻って来て議論を続けること。
実は、これがとても大事。


1. Time out!
2. Time framing.
3. Coming back!


日本の「まあまあ」も、クールダウンの一つなのだろうが、それとの決定的な違いは、
衝突や議論そのものを避けるのではないということ。


こちらのセオリーでは、「議論を避ける」関係、それによって「お互いの違いに
直面することを避ける関係」は、Synbiotic(共生)と呼ばれる症状になる。


だから、お互いの違いを理解し、解決策を建設的に議論するためのクールダウン、
“Time Out!”なのだ。


ここから話しは変わるようだけど、この話を聞いて頭をよぎったのが…、


Marriege & Couples Counselingにおける「感情のクールダウン」と、
Individual(1対1) Therapyにおけるクライアントの「感情の開放(リリース)」は、
まったく違う方向性なのだけど、どこか矛盾したりしないのだろうか、ということ。


つまり、Marriege & Couples Counselingでは、セラピストはセッション中に、
二人の感情を何度もクールダウンさせる必要が出てくるのだけど、
それは、二人の感情の抑圧につながらないのだろうか、というシンプルな疑問だ。


例えば、1対1のIndividual Therapyでは、クライアントが抑圧した感情を
開放することは、とても大事なことだと習った。そのために、セラピストはクライアントが
自分と誠実に向き合うことのできる安全な環境を提供するのだ。


しかし、Marriege & Couples Counselingでは…、


セラピストは、ヒートアップする二人の感情を、クールダウンさせ、
感情の振れを一定のレンジに抑えることが必要になる。


というのも、感情がヒートアップした状態では理性の95%が機能しないから。
ヒートアップした状態では、深層にある自分の真の気持ちに気づかないから。


カップルの間にある問題が、二人に間に働くメカニズムから来るのであれば、
クールダウンした頭で、相手に対する真の気持ちを確認し、解決策を話し合う
必要がある。


カップルの間にある問題が、それぞれの過去のトラウマや傷から来るであれば、
お互いにクールダウンした頭で、相手の話に耳を傾け、相互の理解を深めていく
必要がある。


整理すると、
カップルの「関係から生じる問題」は、頭をクールダウンさせて解決策を探る必要がある、
一方、個の「内面に起因する問題」は、抑圧している感情を解放することも大切になる、
ということになる。


「“関係”から生じる問題」と「“個の内面”に起因する問題」とでは、
時に、セラピーのゴールが変わってくるということか…。


僕にはどうもまだしっくりきていないようだ。

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CIISの日本人繋がり

Dsc01813











土曜日、Mさんの家でご飯会があった。僕はいつもこの集まりを楽しみにしている。
というのも、いつも優しく前向きだから。具体的に何というわけでもないのだけど、
サポートされている感じがするから。


Mさんは、今年CIISを卒業したばかり。
一番年下ながら、一番在米経験が長く、リーダーシップを発揮して、
いつも皆が集まる機会を作ってくれる。才色兼備の、将来が楽しみな日本女性だ。


今回もいつものメンバーが集まった。もう一人のMさんとNさんと、
彼女たちの愉快なアメリカ人ボーイフレンドが3人。
そして、孔子の研究家で博士課程に在籍しているTさん。


この中では、僕が一番のCIIS新参者だ。


いつもながらの肩ひじの張らない空間の中で、
最近の気づきは何か、何に苦労しているか、お互いどのプロセスにいるか、
アメリカと日本のそれぞれ良い点、悪い点はどこか、それに対して自分は
何を思うか、将来はどうしたいのか、ビジョンは描けているか、会話は深まったり、
広がったり…、縦に横に…、途切れることなくモザイク模様に彩られて行く。


Nさんが言った。


美味しいものを食べて、みんなといろいろな話ができて、
濃い時間が過ごせるって、なんて贅沢なんだろう…。


Mさんが言った。


これまでまったく違う道を歩んできた私たちが、いまこうして集まって、
人生の時間を共有しているって、すごく貴重な事だと思うの…。
だから、それぞれの将来のビジョンを話す時間を持ちたいの。
皆がCIISを卒業して、再びそれぞれの道を歩み出す前に。


そうだ。


考えてなかったわけじゃないけど、ぼちぼち次のビジョンだ。
そう言うことを思い出させてくれる仲間に感謝だ。


最後になりましたが、ふたりのMさん、パエリアとアップルパイ、最高でした。
そして、裏方のCookpadさん、どうもありがとう。
Dsc01816

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Antidepressant(抗鬱剤)

「抗鬱剤を飲むと、ハイになるのか?ただ知りたいだけなんだけど」


今日のPsychopharmachologyのクラスで、アイダホ出身の、いつもポップな
Jeremyがした質問だ。


このクラスは11人だけの少人数なのだけど、驚いたことに、
彼がこの質問をした瞬間に、首をふったクラスメートが8人いた。


…。


この薬にお世話になっている人は、たくさんいるらしい。
CIISが特別なのだろうか。


その中のある生徒が言った。
彼女は、人生の一時期、非常に重い鬱を長期間患っていたことがあるそうだ。


「ハイになんてならないわ。あのね、鬱になるってね、
自分の人生の一切が、絶望という時間の中に止まってしまった状態なの。
ベッドから起きるとか、歩くとか、話すとか、ご飯を食べるとか…、
そういう人間の生命に関わる基本的なことが一切できなくなってしまうの。
その基本的なことを最低限できるようにするために抗鬱剤の力を借りるの」


別の経験者が続く。


「上手く表現できないけど、レコードの針が動かない状態、といったらいいかな…。
いつも同じ溝の上を動いて、そこから逃れることができないの。
抗鬱剤は、私をその溝の上から少し上に持ち上げてくれるの」


更に、別の経験者が続く。


「私は物心ついたときから、ずっと塞いでいたの。そして、抗鬱剤を
飲んだとき、生まれて初めて、普通の人の状態が分かった気がしたわ。
ああ、こういう感じなんだって」


クラスに笑い声が上がった。


笑っていなかったのは…、


僕とJeremyと、もう一人だけだった。

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少しずつ超えていく

日曜日、カップルズカウンセリングのクラスがあった。
10:00から17:30までの終日クラスだ。


午前は、クラスメートがパートナーを連れて来てのライブデモとディスカッション。
午後は、インストラクターがクライアントの許可を取って、先週の金曜日に撮影した
セッションのビデオを見て、セオリーと照らし合わせながら解説をするというものだった。


最後の1時間を使って、インストラクターへ半期を振り返ってのフィードバックの
時間があった。CIISでは恒例だ。


その時間、インストラクターは教室の外に出ている。そして、生徒が良い点、
改善点について意見を出して、板書する。それが終わったら、インストラクターを
教室に呼び、板書された内容を生徒が説明する。


彼は、非常に評判の高いインストラクターだ。
教育にとても熱心で、実力も経験も折り紙つきだ。
クライアントを週に30人も見る。ウェイティングリストもいっぱいだ。


自己研鑽も決して忘れない。


なのだが…、僕は、なぜか彼に距離を感じていた。


何だろう、この感じは…。
たぶん、文化的な距離感なのだと思うのだが…。


ちなみに、このクラス、課題が山ほど出る。
トピックスもカップルなだけに身近だ。クラスのディスカッションもすぐにヒートアップする。
ここ2回ほどのクラスで、僕はその熱い波に乗れずにいた。


クラスへの参加を負担に感じ始めている自分がいた…。


その日のフィードバックの時間、僕は、上手く言葉にまとまっていなかったのだけど、
自分の感じていることを言ってみることにした。


「彼は、皆が言うように、経験も豊富だし、熱心だし、素晴らしいインストラクターだと思う。
でも、僕は彼に距離を感じる。理由はわからない。実は今日は3回手を挙げたのに
指されなかった。英語が第二言語の生徒に慣れていないのか、それとも、
何か別に理由があるのだろうか。僕の主観の問題かもしれない。
皆は何も感じないのだろうか…」


クラスメートは、想像以上に、この問題について一緒に考えてくれた。
「確かに、そういう節はあるかもしれない」
「自分たちにできることは何か?」
「彼にTJが感じていることをどう伝えるのが良いか?」


そのやりとりの中で思った。


僕は、直接、彼に伝えるべきだろう。


僕はクラスが終わってから、すぐに彼のところに行った。


「自分は、どうもあなたにも、クラスにも距離を感じ始めている。
理由は定かではない。でも、今日も手を挙げたのに指されなかった。
ディスカッションのスピードが速すぎると感じることも多々ある。
もちろん、僕の英語の問題もあると思う。もっと頻繁に
チェックインをしてもらえないだろうか。」


ストレートに簡潔に伝えた。


彼のその時の対応は…、


まさに「セラピューティック」だった。


彼は防衛のメカニズムを一切僕に感じさせることなく、全身全霊で、
僕の一言一句に耳を傾けた。そして、僕に謝罪した。


僕は「共感される」とはこういう感じか…、なんて思いながら、
彼と向き合っていた。


インストラクターに「自分への対応を変えて欲しい」と伝えるのは、
なかなかエネルギーがいる。自分の中の「日本文化」を乗り越えるエネルギー、
とでも言うのだろうか…。


その日の夜、彼からの一通のメールが届いた。


TJ,
    It is late on Sunday night after coming home from our day long class
and going to a movie with my wife and some friends.  I want to apologize
again - I feel really bad that I lost you both today and I think
in the last class or two.It has stayed with me what you said & I very much
regret that I didn't see your hand up today. And, I really want to work on you
having a more positive experience for the rest of the semester.
I greatly appreciate your letting me know & look forward to
seeing you on Tuesday.


こういう対応はなかなかできることじゃない。
来るべき日のために、この彼のあり方を心に刻もうと思った。


というわけで、次回以降は、クラスで彼からマメなチェックインが入ることだろう。
ただでさえ負荷の高いこのクラス、僕はますます予習に手が抜けなくなってしまった。

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Diversity Trainingにて 3/何が僕のモチベーションになるのか

インストラクターのDanaは、黒人と白人のハーフの女性だ。


若いのに、ものすごく柔らかい雰囲気と、温かいハートとシャープな頭脳の持ち主で、
場をしっかりとホールディングしながら、人をとても大事に扱う、笑顔の素敵な人だった。


彼女に尋ねてみた。


「僕は日本に帰れば、マジョリティの日本人で、男性で、日本語を話して、
ヘテロセクシュアルで、高学歴で…、たくさんの『Privilege(特権)』がある。


そんな僕が、日本に帰ったとき、自分の「Privilege(特権)」に向き合う必然性って、
どこにあるんだろう。


ダイバーシティを探究するモチベーションを、どこに求めればいいんだろう」


彼女は、爽やかにこう言った。


「物事には必ず両面があるわ。だから、『Privilege(特権)』を享受することで
失っていることもあると思うの。


例えば、


『男性』というPrivilege(特権)を享受することで、あなたは何を失っているかしら?」


うーん…、僕には思いつかなかった。


「例えば、男性は、感情的に不自由かもしれないわ。女性は、自分の感情を幅広く
体験することができる。泣いたり、笑ったり、悲しんだり、喜んだり。
男性よりも自由ね。感情を幅広く味わうって、人としてとても大事なことじゃないかしら。


あるいは、男性は、本当の意味で他人と繋がることが難しいかもね。
だから、いつも孤独なのじゃないかしら。女性は、男性に比べると、相手と速やかに、
深く繋がっていけるように思うのだけど、どう?


それに、もしかしたら、自分の娘とうまくコミュニケートできない父親が多いのも、
『男性』というPrivilege(特権)を享受することによる負の側面と言えるかもしれないわね」


なるほど、そういうことも含むんだ…。


確かに、「男性」というNorm(規範)が、僕の感情の幅を狭くしている。
だって、泣けないし。


それは、今の自分の限界としてしみじみと感じていることだ。
セラピストとして、いや、それ以上に、人として。


もっと自由に、心行くまで、自分の感情を味わってみたい…。
生まれて初めて、そんなことを思った。

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Diversity Trainingにて 2/「Oppressする側」と「Oppressされる側」

自分の視点以外からものを見るのは、つくづく難しい。


例えば、「日本人留学生」という僕の立場からだと、
アメリカのダイバーシティやマイノリティの問題を、文化や言葉という視点から、
捉えがちだ。


その時、僕は「Oppress(圧迫)される側」に立ってものを見ている。


でも同時に、僕は、ヘテロセクシュアルの(ホモセクシャルではない)男性でもある。
そんな僕は、同じ参加者の黒人でレズビアンのアメリカ人女性からは、
「ヘテロな男性」というパワーを持つマジョリティ、つまり、「Oppress(圧迫)する側」
として映るのだ。


というわけで、どの問題を扱うかで、立場がくるくる変わる。
さっきまで「Oppressされる側」で意見を言っていたのだけど、
あれれ、今度は「Oppressする側」になってしまっている。


いろいろと、こんがらがってくる。


「Oppressされる側」からは、「Oppressする側」のパワーがとても良く見える、
「Oppressする側」の「Privilege(特権)」が良く見える。


でも、「Oppressする側」には、自分の持つパワーやPrivilege(特権)が見えない。
それに気づかない。だって彼らにとって、それは生まれた時から自然にある、
空気のようなものなのだから。


Privilege(特権)の定義の一つに、
「それを享受している人には意識する必要がないもの」というのがあるぐらいだ。


だから、


「ヘテロセクシュアルの男性としてあなたが享受しているPrivilege(特権)は何か?」
なんて尋ねられると、僕は上手く答えられない。あまりにもそれが普通だったから。


でも、レズビアンの黒人女性は、それについてたくさん答えることができる。
日頃、たくさんの不条理を被っているから…。


改めて、Privilege(特権)。


それは、日本に住む日本人にはなかなか掴みにくい概念かもしれない。


例えば、日本において、日本人であること、日本語を話すことなどは、
すべてPrivilege(特権)だ。


どうして、日本においてただ日本人であることがPrivilege(特権)になるの?
と思う人は、在日朝鮮人の方々や、被差別部落出身の方々や、アイヌ民族の方々や、
外国人労働者に尋ねてみるといいかもしれない。


また違う視点で、自分の生きている文脈を見れるんじゃないだろうか。


話しを戻すと、アメリカは多民族を身近に感じることができる民主主義の国だ。
だから、アメリカでマイノリティとして暮らして、こういう場に出てみると、
Privilegeの問題を肌で理解することができる。特に、白人の。


同時に、留学生として数年間過ごすだけの僕と、実際にアメリカ人として
マイノリティとしてこの国に生きる彼らとでは、この問題に対する必死度というか、
真剣度というか、直面度というか、その幅があまりにも違うように感じた。


あたかも「同じ側」にいるようにものを語っている自分に、
果たしてその資格があるのだろうか…。


そんなことを考えた。


<付録>
Oppress(圧迫する、抑圧する)=Prejudice(偏見)+Power(権力) or Privilege(特権)
という公式を教えてもらった。

ただ自分が自分であることが差別の理由になってしまう「Prejudice(偏見)」。
人の心の中には、根拠のない偏見がたくさん巣食っている。
それは、「Oppressする側」にだけではない。「Oppressされる側」にも、だ。
それはそういうものなのだ、として、刷り込まれてしまっている。

Power、あるいはPriviledgeとは、もっと社会的なものだ。
構造に支えられている。

マイノリティに対するOppressとは、人の内面に巣くう偏見と、社会構造とが
組み合わさった時に起こる。

それを解消するためには、それらの二つに対してそれぞれ違ったアプローチが
必要になるのだろう。

構造に対するアプローチはイメージしやすい。でも、人の内面に巣くう偏見を
変えるものは、何なのだろう…。

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Diversity Training 1/どこかしらマイノリティ

日本でいつもマジョリティとして生きてきた僕のような日本人が、
海外でマイノリティの立場での生活を経験してみるとは、とても価値あることだと思う。


日本では決してわからない、貴重な経験が手に入るから。


さて、金曜日から土曜日にかけて、CIISでDiversity Trainingが催された。
インストラクターは、外部から呼ばれた専門家だ。


このトレーニング、単位とは全く関係ないが、生徒は無料で参加できた。


このトレーニング、いったいどういう生徒が参加するのだろう。
アメリカ人のアングロサクソンは、こういうトレーニングに参加するのだろうか。
そんな興味もあった。


6階の607教室に行くと、15名の参加者がいた。男性が3名、女性が12名。


白人も5名いた。バランスのとれた構成だ、なんて思っていたら、
自己紹介でそのうち2名はホモセクシュアル、ほかの2名はバイレイシャル、
つまり、一人はイギリス人とギリシア人のハーフ、もう一人は、アメリカ人と
ニカラグア人のハーフ、そして、最後の一人はユダヤ系アメリカ人ということがわかった。


つまり、参加者の全員が、どこかしらマイノリティだった。
ピッカピカのアングロサクソンは一人もいなかった。


ダイバーシティに興味があるのは、マイノリティの人びと。
ダイバーシティの問題に真剣に取り組むのは、マイノリティの人びと。
パワーを持つマジョリティの人びとにとって、こういう問題はどこ吹く風か…。


ダイバーシティを謳うCIIS でも、これが現実なのかもしれない。


その国のパワーを握るマジョリティの人々が、ダイバーシティの問題に本腰で
取り組む動機には何があるのだろう…。


そんなことを考えながら参加した1日半だった。

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「からだ」というセンサーを上手く使う

こういうデータがあるそうだ。


カウンセリング効果を確認できたクライアントには共通体験がある。
それは、最初の数回のセッションうちに、自分の体に何かしらの変化を
感じている、ということ。


どうも結果を出すセラピストには、クライアントの意識を体の感覚に
繋ぐのが上手いという特徴があるらしい。自然に、そのプロセスを踏んでいるのだ。


それを体系化したのが、フォーカシングという手法だ。


今日のトランスパーソナルサイコロジーのクラスでは、そのロールプレイがあった


確かに、体はセンサーだ。
おそらくたくさんの雑音も入る不完全なセンサーなのだろうけど…、
どこかに、何かに繋がっている。


例えば、今、静かに眼を閉じてみて欲しい。
あなたは自分の呼吸をどのぐらいリアルに感じられるだろうか。
心臓の音はどうか。血液の流れる音を鼓膜の奥に感じるか。


内臓や細胞は、一時も休むことなく活動を続けている。
おそらく、僕たちの体の中はカラフルな音に溢れているに違いない。


一方、あなたの皮膚はどうだろう。
外気との接触を感じているか。この瞬間にも、あなたの体中の皮膚は服との
摩擦をどう感じているだろうか。お尻に感じる椅子の抗力はどうだろう。
靴に包まれた足の指先は何を感じているだろうか。


体の感覚に意識を向ける。その感覚を頼りに、自分の感情に触れ、
そして更に、心の奥底にある何かに触れる。


あなたは、いま、自分の体にどんな感じを抱いているだろうか…。
その感じを、自分の感情として表すと、どう表現できるだろう…。
その感情は、どこから来ているのだろう…。深く探っていけるだろうか。
あなたはその感情と、しばらく一緒にいることはできるだろうか…。


これらの体の感覚を研ぎ澄ますために、東洋の世界では瞑想やヨガなど
多様なアクティビティが編み出されてきたのだろう。


大事なのは、奥底に触れることだけで終わらせるのではなく、
そこで感じたことを右脳に吸い上げる。右脳に吸い上げたことを、
左脳で解釈する。その解釈を、再度、体に確認する。


この3つのキャッチボールを繰り返すことで、体と心のバランスが
均衡してくる。そういうことなのだろう。


心の動くスピードは速く、体の感じるスピードは遅い。
日常の慌ただしい生活の中で、心と体が乖離する。
コミュニケーションが途絶える。


このバランスの崩れた状態が、いろいろな心身の問題を引き起こす。


センサーとしての体の本来の機能を上手に取り戻す。
体の知恵を日々の生活の中に活かして、心とのバランスをとることを心がける。
心か体か、一方に偏向するということではなく。


いま、あなたの心と体の距離はどんな状態だろうか。

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オープンハウス/Church Counseling Center

昨日、CIISに3つあるカウンセリングセンターのうち、
最後のChurch Counseling Centerのオープンハウス(見学会)に参加してきた。


ここはGestalt Therapyをメインに据えている。
責任者は、Lu Grayというお婆ちゃんだ。


僕は彼女のクラスを履修したことがあるけど、本当に素晴らしいプレゼンスの持ち主だ。
包み込む雰囲気というか、温かい空気がいつも彼女の周囲に揺れている感じがする。
そして、どっしりしている。


3つのカウンセリングセンターの中で、最もアットホームな雰囲気がしたのは
彼女のスペースだからか。


今回は17名の参加者がいた。


彼女は、言った。


「クライアントとしっかり一緒にいれること。
あなた方が、将来、どのセラピーのジャンルを選ぼうと、セラピストにとって
これがもっとも肝心要の基盤と言えるわ。


このセンターで一年間経験を積んだとき、クライアントと一緒にいることが
楽しいと思える自分が手に入っている。それがこのセンターのプラクティカムのゴールね」


改めて実感したのだけど、
CIISのカウンセリングセンターは、CIISの教育プログラムの延長にある。


生まれて初めてクライアントを持つ人たちが集い、
守られた空間の中で、カウンセリングのイロハを身につけていく。


3つのカウンセリングセンターのオープンハウスに参加することで、
CIISとカウンセリングセンターの位置づけがよく見えてきた。


そして、各センターが、それぞれ「サイコダイナミクス」「トランスパーソナル」
「ゲシュタルト」を謳っているけど、そこに所属する生徒は必ずしも
その手法を使ってカウンセリングをするわけではない。


その手法をクライアントに使うのではなく、それぞれのカウンセリングセンターで学ぶ
生徒が、それぞれのセンターがメインに据えた手法を軸にしたトレーニングを
受けている、というの実際なのだと思った。


大事なのは、セラピストとしてもベースをしっかり身につけること。


各人の専門性は、卒業をして、セラピストとしての経験を積む中で、
自分の適性を見極めながら、ゆっくりと、じっくりと磨きあげていけばいい。
そういうフィロソフィーなのだろう。


ちょっと余談だけど…、


どのオープンハウスでも、そこに所属する生徒の体験談が聞ける。


その内容は、「ここには、コミュニティがある」「ここのコミュニティは最高だ」
「私は本当にここのコミュニティにサポートされている」というものがほとんどだった。
どのカウンセリングセンターでも同じシェアをたくさん聞いた。


それを僕はちょっと不思議に、且つ、面白く思った。


つまり、「自分をサポートしてくれるコミュニティがある」というのが
アメリカ人にとってアピールポイントになるということか…。


裏を返せば、アメリカ人は、日々、それだけ孤独の中で生きている
ということなのだろう。


自由と独立の国に生きるとは、心にいつも冷たい塊を感じて生きる、
ということなのかもしれない。

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日常の中にある非日常

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いま、CIISはMidtermの真っただ中。


僕の場合、時間のかかる予習と、プラクティカムの準備にも追われて、
ずっと汲々とした毎日を過ごしている。


サンフランシスコに住んでいたって、東京に住んでいたって、
ヨハネスブルグに住んでいたって、どこに住んでいたって、
汲々とした生活は落ちているのだろう。


今日、あれやこれやを終えて、夕方18時に学校を出た。
Market STをChurch方面に向けてペダルを勢いよく踏んだ。


両腕に、秋の風が冷たかった。
目線を上げると、まだきれいな青空が残っていることに気がついた。


僕は、久しぶりに進路をOcean Beachにとった。
海風に吹かれて帰ろう、と思ったから。


夕陽が沈む時間に間に合った。
僕はまっすぐに続く海沿いの道を南下した。


海と夕陽と遠くに浮かぶ船。光る波打ち際を走る海鳥。
気持ち良かった。


シャッターを押しながら思った。


「生活」が始まれば、「日常」がすべてを飲み込んでいく…。
「日常」が、「非日常」の領域を侵食していく。
感動のスペースが減ってくる。


僕には、この風景も「日常」になりつつある。


待てよ、


ということは…、
すべての「日常」は、最初は「非日常」だったということか。


「日常」の中に、「非日常」を想い出す…。
「日常」の中に、「非日常」を感じとる…。
そんな感性を大事にしたい。Dsc01801

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カップルズカウンセリングは、何がどう違うのだろう…。

今日、Couples and Marriage Counselingのクラスで、インストラクターによる
ライブセッションがあった。


クラスメートの有志が、実際に自分のパートナーを連れてきたのだ。


春のファミリーセラピーのクラスの時も思ったけど、
こういう貢献マインドとオープンさは、アメリカ人のすごいところだと思う。


このカップルズカウンセリングのクラスで、僕はインストラクターによるセッションを、
模擬セッションも含めて、すでに何度か見せて貰っている。


なのだが…、実は、まだ掴みかねている。


というのも、カップルズカウンセリングには、
ファミリーセラピーの時ほどの「構造」を感じない。


僕には、1対1セラピーのアプローチとやっていることが、
なんら変わらないように見える。


多少の違いは、


クライアンとの一方がセラピストに話している時に、もう一方のクライアントへの
配慮を忘れない。


クライアント同士がやり取りをする時、会話の交通整理をする。


一方のクライアントの想いに、セラピストとしての深い解釈を添えることで、
それを聞いているもう一方の相手の理解が促進できるようにする。
同様に、Empathyのあるフィードバックをする。


二人の会話で興奮しがちな場をクールダウンさせる。


そのぐらいしか、まだ見えてこない。
1対1には無い、システマティックなアプローチがあると言うのだけれど…。


セッション後の振り返りでは、インストラクターによる、
どういう「Intervention(介入)」があったかということに焦点があてられることが多い。


だから、そこに1対1のセッションとの大きな違いがあるのかもしれない。


でも、僕には、このクラスのインストラクターのすごいところは、「介入」ではなく、
二人にとって話しやすい「背景」となるスキル、あるいは、二人の理解が
促進される場を、二人の邪魔にならずにホールディングするスキル、
そんなところにあるように思うのだけど…。


いかんせん、言葉にしにくい領域だ。


というわけで、非常に評判の高いこのクラス、僕には雲を掴む時間が続いている。

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“現在進行形”の話

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ロドリコはブラジルからの留学生で、博士課程に在籍している。
現役バリバリのDJでもある。


立話で、彼の論文テーマが「アフガニンスタンの戦争」に関してだと
聞いたとき、72歳のグラムの顔が思い浮かんだ。


先週の話だ。


グラムは、はるか昔、アフガニスタンの国費留学生として、アメリカで学び、
博士課程を修了して、エンジニアとして世界を飛び回った。


そんな彼が最も好きな国だと言っていたのが、インドと…、そして日本だ。
その理由は、前者は混沌とした多様性の国で、後者は整然とした同一性の国。
世界の国々の中でも、対極にある個性と魅力を持っていたから、とのことだった。


彼は、旧ソ連のアフガニスタン侵攻を機に、アメリカに移住してきた。
現在はリタイアし、悠々自適の生活だ。学ぶのは何歳になっても楽しいと、
週一回、聴講生としてCIISに来ている。


僕とは去年の春、クラスが一つ重なった。
以来、ずっと気にかけてもらっている。


さて、ロドリコにグラムのことを話すと、ぜひ会って話を聞きたいという。


早速、今日、二人を引き合わせることができた。


挨拶もそこそこに、グラムがロドリコに尋ねた。
「アフガニスタンの、どの戦争をテーマにしているのかな。
アフガニスタンには、たくさんの戦争があったから…」


ロドリコが言う。
「現在のものです」


(ん?現在のもの?)


恥ずかしながら、横に立って聞いていた僕の反応だ。


そう、September 11thから始まり、アメリカと同盟国から空爆を受け、
たった今も続いている「戦争」。


現在進行形の話だ。


僕には、なぜだかそう言う認識がすっぽり抜けていた。


自分の、のんびりした感性を「ちっ」と思った。


世界は、いつもそこにある。
自己の内面の探求も大事だけど、目の前の世界にもっと鋭く自分を同期させておきたい。

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裾野と頂き

大学時代の恩師の言葉。
「富士山はなぜ美しいのか…。それは冠雪した頂きのせいだけではない。
富士山のゆるやかな裾野の広さがその美しさを支えている。
裾野を広げることを忘れることなく、頂きを極めなさい」


今回のプラクティカムサイト探しでいろいろな人がサポートしてくれている。
本当にありがたいことだ。感謝している。


先のブログでも紹介した、今年JFKを卒業した日本人のTさんは、
あれからもたくさんのプラクティカムのインフォメーションを
僕に送って来てくれている。


一足先にマリンにあるプラクティカムサイトで実習をスタートさせた
クラスメートのステファニーは、「私には友だちがたくさんいるからTJが
受けるところの評判を全部調べてあげるわ」と言ってくれている。


スタンフォード大学メディカルセンターで研究をしているドイツ人の友だちアンナは、
5000人ぐらいが登録しているスタンフォードのmlがあるから、
そこで情報を聞いてあげるわ、と言ってくれている。


先日、履修しているProfessional Law & EthicsのインストラクターDorisに
何気なく相談したら、彼女が関係しているInstituteの責任者をいきなり
紹介してくれた。僕は、そのInstituteを知らなかったのだけど、CIISの
プレースメントサービスで担当者に尋ねたら、Gerotology(老年学)の分野では
全米でも有名で、セラピストとしてのトレーニングシステムも、働いている人たちも
素晴らしい、とのことだった。


僕はその分野に、特に興味があるわけはなかったし、将来はビジネスの世界に
戻るつもりなので、プラクティカムサイト選びは、少しでもそれに関連しそうな
分野がいいのかな、なんて思っていた。


でも、昨日、これまたいつもサポートしてくれている人から
「せっかくなのだから、コーチングに関連する分野ではなく、
興味の持てそうな、全然違う分野のことをやった方が面白いんじゃない?」


と言われて、ハッとした。


実は最近、少し考えていたことなのだけど…、


経営学では、戦略の基本は「選択と集中」だ。
競合他社に負けないように、戦う土俵を絞って、そこに資源を集中的に
投下する。


以前、何かに書いてあったのを思い出した。
「選択と集中」の対極にある経営戦略は、「多角化」だと。


それは、いろいろな分野に進出をしてリスクを分散させる、あるいは可能性を
広げるという戦略だ。バルブ崩壊前の日本企業が好んで採用していた。


でも、バブル崩壊とともに、望ましい経営戦略は「選択と集中」の一色に
なってしまった。


企業戦略だけではない。ビジネスにおけるキャリア形成も、
今は「選択と集中」が王道だ。一つの道を、狭く狭く、深く深く、高く高くだ。


でも、セラピストとしてはどうだろう。
あるいは、人生としては…。


僕のこれまでの人生は、どうだったか。


個人的には、ずいぶん、いろいろ「寄り道」な人生を送っていると思う。
それを格好良く言うと、「経験の多角化を志向してきた」というようになるのかもしれない。


人生の裾野を出来るだけ広げながら、それぞれの異なる経験の重なりを
自分なりに見つける、そして積み上げる。


もしかしたら、CIISに来たこともその一つかもしれない。
個人的には、ここに「学問を深めに来た」というより、
「人生経験を積みにきた」という感覚の方が強いように思うから。


裾野を広げながら努力を積み重ねてきて、ふと気が付いたら、頂きが輝いていた。
そんな風になれば素敵だ。時間がかかってもいいから。


で、今回のプラクティカムサイト探しだ。


自分らしく選んでみようと思う。

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オープンハウス/Golden Counseling Center

先週のPierce Streetのカウンセリングセンターに続いて、
今週水曜日、Golden Gate Street Counseling Centerの
オープンハウス(見学会)に参加してきた。


それはCivic Centerの少し先にあって、CIISからは歩いて行ける距離だ。


このセンターは、トランスパーソナルサイコセラピーを軸に据えている。
3つあるCIISのカウンセリングセンターの中では、最も新しく、大きな施設を持っている。
恵まれた環境のセンターだと思う。


僕より1セメスター先輩で、日本人のMさんがそこに所属している。
親切な彼女から、いろいろセンターの良い部分、苦労している部分を
教えてもらっていた。


前回のPierceの時と同じ、19名の参加者がいた。


センターのトップは若いけど、実力のあるとても魅力的な女性だ。
その日、朝からずっとリーディングをしていたせいで、僕の目が疲れていたせいも
あるのだろうけど、アンジェリーナ・ジョリーにちょっと似ているかなと思った。


そのセンターに所属している生徒たちも、満面の笑顔で僕たちを歓待してくれた。


トランスパーソナルは、とても広い概念だ。
これをやる!ということが明確に決まっているわけではない。


したがって、このカウンセリングセンターでは、いろいろなことにチャレンジできる。
トランスパーソナルの概念を一緒に作って行きましょう、というのが、
基本的なチャームポイントなんだなと思った。僕の勝手な印象だけど。


CIISの2つのカウンセリングセンターのオープンハウスに参加して見えてきたことがある。


両センターとも、トレーニングの充実度と、コミュニティの素晴らしさを強調していた。
それは僕には、カウンセリングセンターは、あくまでもCIISの延長にあり、
守られた温かい空間なのだ、と聞こえた。


それは良くもあり、悪くもあるのだろう。


プラクティカムで、CIISの3つのカウンセリングセンターを選ぶ人は、
毎セメスター合計15人前後。他は、CIISの外のプラクティカムサイトに行く。
そこは波の穏やかな内洋ではなく、広々とした、時に荒々しい外洋だ。


不思議なのだけど、これまでの1年半で、クラスを通して知り合った、
僕が面白いな、興味が湧くな、親しみを感じるなと思った人は
(そう多くはないけど)、全員、CIISの外のプラクティカムサイトを選んでいる。


確かに、セラピーが盛んなベイエリアには素晴らしいサイトがたくさんあるから、
それも、もっともなことなのかもしれない。


プラクティカムでは、1年間で150時間のセラピストとしての経験を積む必要がある。
でも、1年間はとても短い。


僕としては、1年間を振り返った時に、一つでいいから、
「これをやり遂げた」と自信を持って言える自分でいたい。


CIISのカウンセリングセンターでは、いろいろなベーシックを学べそうだ。
でも、そういう自分が手に入りそうか、今のところ、まだ見えてきていない。


来週は、3つ目のChurch Counsering Centerのオープンハウスだ。
そこで、自分の一つの方向性が見えてくると思う。

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異文化へのSensitivity-2

文化の違いについて、アメリカ人のクラスメートと話していると、
どうも、彼らは「人はそれぞれ違う」という「個の違い」の範疇を出ることが
苦手なように感じることが多い。


「文化の違い」にまで、想像力が働かないとはどういうことだろう…。


この話題については、以前もこのブログで触れたことがあった。
以来、なぜそうなのかとずっと考えていたのだけど、これまた、今週、CIISで
Closs Cultural Counselingを教えている、アントニオという先生と立話をしていて
少しクリアになった。


「アメリカ人は、個人も文化の影響を受けているという視点が欠けがちなんだ」


多様な人種から構成されるアメリカ人が、「アメリカ文化」から受けている影響…。


確かに。


言われてみれば、アメリカ人には、「アメリカ文化とは何か」という視点が
乏しいかもしれない。


「アメリカは多民族国家だ。多様なカルチャーがミックスしている」


そこで終わってしまって、それを包含したアメリカ全体としてのカルチャーとは
何なんだという視点がない。


例えば、僕がアメリカのカルチャーについて言及すると、
「そうは言っても、カリフォルニアと東海岸とではまったく違うからね」と、
アメリカ国内での比較の域を出ない議論になってしまう。


同じ理屈なら、日本でも言えるだろう。
国内だけの視点で比べたら、東京と大阪は明らかに違う。
そこに、東北や沖縄を加えたら…、日本はとても多様性に溢れている国だ。
日本は一概に語れない、となってしまう。


でも、例えば、西海岸出身のアメリカ人と、東海岸出身のアメリカ人が、
アジアのどこかの国で出会ったら、それが白人と黒人だったとしても
お互いに「アメリカ人」という共通の何かを感じるはずだ。


確かに、アメリカは人種も文化も多様性に溢れている豊かな国だ。
それは疑いのないことだ。


でも、その過剰な自信が、彼らの意識の広がりをアメリカ国内に留まらせ、
他国の文化を尊重する、異文化に興味を持つという視点を
曇らせてしまっているように感じるのは…、僕だけか。


さて、日本はどうだろう。

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異文化へのSensitivity-1

白人が多数を占めるCIISでも、特にその割合が高いのが僕の学んでいる
Integral Counseling Psychologyだ。


Marriage and Couples Counselingのクラスでも、
有色人種で、留学生は僕一人だけだ。あとは全員白人のアメリカ人。


今週のクラスで、カウンセリングには、Multiculturalなアプローチが
重要だという文献を踏まえての、グループディスカッションがあった。


グループメンバーは4人。


異なる文化を尊重するというテーマなのだが、他の3人は、まるでポップコーンが
はじける時のように、早口にその重要性についてまくしたてる。
一切、「間」のないディスカッション。こちらでは普通にあることだ。


英語が第二外国語の僕には、なかなか入り込める隙間がない。


ディスカッションの最後に、一人がTJの意見も聞きたいわ、
と遅ればせながら尋ねてくれたので、僕は、多少、皮肉も込めて言った。


「たぶん、今ここで話していることは、君たちにはできないんじゃないかな。
頭で理解していたとしてもね。現に、このディスカッションの場にだって、
異文化に対する配慮があったようには思わなかったから」


最近は、こういうこともなるべく言うようにしている。


もちろん、一般化はできないのだけど…、という条件付きで、
アメリカのCaucasian(白人)と話していて僕はよく感じることがある。


彼らは、人間の「個の違い」に対しては、寛容度も意識も高くて常々見習いたいと
思っているのだけど…、「文化の違い」に対する感度は低いんじゃないだろうか。


「人はそれぞれ違う」という視点のみで、世界を眺めている感じがする。


もっと極論すると、


文化の違いなんて考慮する必要はない。だって、そもそも人間は
一人ひとり違うんだから。そんな匂いを感じる。


もちろん、僕の気のせいかもしれない。


でも、もし僕の感じていることが多少なりとも的を射ているのだとすると、
何が起こるのか。


人がそれぞれ違うのは当たり前なのだから、文化の違いから来る何かに対しての
配慮は特に払わない。


誰に対してでも、権利は“平等”に保障されているのだから、
後は個人次第だ、となる。


確かに、それは素晴らしいことだ。


ところが、話を少し広げるけど、


アメリカという国は、政治的にも経済的にも軍事的にも大国だ。
だから、アメリカ人のポジションにはたくさんの特権がある。
英語というグローバル言語に対してもそうだ。


で、そのポジションから彼らは「人間は平等だ」と、異なる文化を持つ人々に
対して振舞う。


その位置から、平等、平等と叫びながら彼らのパワーを押し付ける。


話しを戻すと、


留学生の僕と、ネイティブの君は、個人としては対等だ。
素晴らしい。意見を言うことは自由だし、その権利は保障されている。


でも…、何かが見逃されていないだろうか?


そうした彼らの平等を尊ぶスタンスから、僕は、静かな暴力の匂いを
感じてしまうのはなぜだろう。


アメリカ人の「人はそれぞれ。人間はみんな平等」というスタンスには、
ポジティブな側面だけでなく、どこかネガティブな側面もあるように思う。

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英語のチュータリング

Simonに発音のチューターをしてもらっている。2回目が終わった。


日本人に、Th、F、V、 LとR の発音が難しいことぐらい以前から知っていた。
だから、自分は気をつけて話しているんだろうな、と思っていたのだが…、
大いなる勘違いだった。


知識として持っていることと実際は、それを意識していても大違いだ。


みなさんも既によくご存じのことだと思うのだけど…、


Thは、日本語では音と認識していない、空気が抜ける音をしっかり発音する
必要がある。


Fは、吐き出す空気が、下唇の上を強く鋭く滑る感じだ。
日本人の感覚だと、相手に失礼に思われちゃうんじゃないか、
と心配になるぐらいがちょうどいい。


Vは、発音する時に、かすかにでも音がバイブレートしている必要がある。
その震動がないと、どんなに下唇をかんで発音しても、相手にはBに聞こえてしまう。
前歯が、下唇を下からすり上げる感じで発音するといいみたいだ。
僕は、反対に、上からかぶせる感じで発音しようとしていた。


LもRも、日本語の「ら行」を発音する時から、舌の位置をそれぞれ
前と後ろに5cm動かしてやろう、というぐらいの気構えが必要だ。


さらに指摘されたのが i だ。イと発音してはいけない。
例えば、Shipを日本語的に「シップ」と言ってはいけない。シェップだ。
これは、シとプの間にあるェッが、その前にあるシと同時に発音される必要がある。


さあ、みなさんもご一緒に…、シェップ!


反対に、Sheepは、シーープと、シとプの間にある「ーー」が、
日本語のイを発音する時よりも、口を横に開いて、くっきりと明確に
発音する必要がある。


ここまで、書いて思ったけど、発音を書くのは難しい。
「百文(ぶん)は一聞(ぶん)に如かず」だ。


でも、それでけで終わらない。


それらを意識しつつ、文章の中で発音する時には、単語と単語の間の発音の
リンケージを意識し、頬をリラックスさせ、まるでジャガイモが口の中に入っているかの
ようにしながら、日本語ではないリズム、つまり英語のリズムで話すのだ。


改めて、日本語のリズムから逃げるのは本当に難しいと実感している。


それは、長年慣れ親しんだ盆踊りのテンポを、ヒップホップのリズムに
変えるぐらいに難しい。


ICレコーダーを持ち込みながらの1時間のレッスン。
かなりの目眩を覚えながらも…、楽しんでいる。

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白い紙のエクササイズ

カップルズセラピーに来たクライアントに、白紙の紙を一枚だけ渡す。


セラピストは二人に説明をする。


「この紙は、一枚しかありません。そして、それぞれが重要に思う、それぞれが
必要としている紙です。これから差し上げる5分間で、この紙を破ったり、
裂いたりすることなく、二人のうちどちらがこの紙を所有することにするか、
決めてください。」


あるカップルの会話。

男性:「これは君にとっても、僕にとっても大事な紙だ。二人にとって、
とても大事な紙なのだと思う。僕たちの関係のようなものかもしれない。
君はどう思う?」

女性:「そうね…。二人で一つ。本当にそう思うわ」

男性:「君がこの紙を持ったからと言って、僕がそれを失うことにはならない。
その逆も然りだと思うんだけど」

女性:「ええ、一方が持ったからと言って、もう一方が二度とその紙を見れなくなる
ということじゃないということね。」

男性:「そう」

女性:「どう決めるのが良いのかしら…」

男性:「君が持ったらどうだろう?」

女性:「もしあなたがそれでいいなら…。でも、もし私がそれにふさわしくないと
思ったらいつでも言って。あなたに渡すから」

男性:「うん、わかったよ」


これは、Marriage and Couples Counselingのテキストに載っていた会話の要約だ。


僕はこれを見た時、お互いに譲り合って、理想の形じゃないか!なんて思った。
日本人の視点で。


でも、アメリカ人の視点では、このカップルは、
「お互いの違い」が表面化することを恐れ、自分の正直な意見や感情を
言えていない二人、となる。


このカップルは、それに気づいていない。だから、お互いが言いたいことを言えず、
窒息状態になってしまっている。


現に、女性は、自分にとってのこの「白い紙の意味」を定義することを避けている。
男性も、二人にとっての定義はしているけど、自分にとっての定義をしていない。


この二人にとって、「違い」は「別れ」を意味してしまう。
だから、違いが表面がすることを恐れて、意識的にも無意識的にも議論を避ける。


でも、違いは悪いことじゃない。
違っていても、繋がることができる。
違っていても、違ったままで良好な関係を保てる。
人間関係には、そういう奥行きがあるということを二人は知らない。


実は、この症状は、
Symbiotic-Symbiotic(共生)と呼ばれる。


これは、
Symbiotic-Differentiation
Differentiation-Differentiationなど、6段階あるカップルの症状の一つだ。


僕はそれをいろいろ学んでいくことになる。


カップルに限らず、
議論が起こると、「まあまあ…」でそれを避け、落とし所を探ろうとする。
あるいは、今回はこちらが全面的に譲るから、次回はそちらが全面的に譲る。
貸し借りによって築かれる長期的な信用によって関係を良好に保つ。
とても日本的だ。


でも、こちらの感覚で言えば、不健全なのだろう。


そう言えば、思い出したことがある。


はるか昔、銀行に勤めていた時、営業の引き継ぎの心構えとして、
上司から言われたことがある。


「そのお客さまと我々が、これまで、そして、いまどんな恩義の貸しと借りの状況に
あるのか、ちゃんと前任者から引き継いで、頭に入れておきなさい。」


関係維持のために預金協力をしたり、資金の借り入れをしたりする。
言いたいことを抑えて、来るべき時の便宜を期待して。
悪く言えば、癒着だし、良く言えば、お互いさまだ。


もちろん、いまはだいぶ変わっているのだろうけど…。


関係の作り方は、文化だ。
どれがいい、どれが悪いということはないのだろう。


大事なのは、どれだけ多様な視点で関係を見れるかだ。


その違う視点を手に入れることが、勉強になる。

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イスラエル人のコミュニケーションスタイル

「アメリカ人のコミュニケーションスタイルは、
イスラエル人の目からは、非常に曖昧で、わかりにくいと映る」


日本人の僕の目からは、アメリカ人のコミュニケーションは充分に
ダイレクトに映っていたのだが…。


先日、イスラエルとアメリカの文化に違いに関するワークショップ
参加してから、イスラエル人のコミュニケーションスタイルにとても
興味を覚えている。


確かに、僕は以前から、CIISで知り合ったイスラエル人留学生には、
独特の雰囲気があると感じていた。そう、彼らはとてもオープンで、
飾らない、ダイレクトなコミュニケーションをとる。


良く言えば、ズバズバだし、悪く言えば、ズケズケだ。


彼らは、よく自分たちのことをarrogant(横柄な、傲慢)な
コミュニケーションスタイルなんだ、と笑いながら言うけど、僕は好感を持っていた。
日本人の僕には学ぶべき点がたくさんあるように思えて。


繰り返して述べるけど、彼らのコミュニケーションスタイルは、
日本人の一般的なコミュニケーションスタイルの対極にあるように思える。


どのようにして彼らはそういうコミュニケーションスタイルを持つに至ったのだろうか…。
とても興味を持った。


そのワークショップ以来、僕はCIISで学ぶイスラエルからの留学生、
あるいはユダヤ系アメリカ人にその理由を尋ね回っている。


彼らからのいろいろな回答を僕なりにまとめると、こんな感じに分類できそうだ。


一つは、イスラエルという国家の置かれている環境。
歴史的に、そして、今も、常に戦争の緊張感の中にある。
その国に生きる彼らは、いましっかりと目の前の相手にメッセージを
伝えておかないと、明日は、相手も自分もどうなっているかわからない。
その場でしっかりと意思疎通を完了させておく必要がある。
死を身近に感じる緊張感が、ダイレクトなコミュニケーションを育んだというもの。


二つ目は、国家としては歴史の浅い、多民族国家であるということ。
その歴史は60年ぐらいだ。つまり、多様な文化をもった民族が、
国家建国の理想のもと一同に会した。それも非常に狭い土地に。
お互い異なる文化的バックグランドを持つ者同士が、高い人口密度の場所で
生活をする。そこでは、阿吽の"常識"は通用しない。
“常識の通じない相手”に正しく意図を伝えようとすると、コミュニケーションは
ダイレクトにならざるを得ない。


三つ目は、移民の多くがドイツや旧ソビエトからやってきた。
そもそもこれらの国々の人たちは、ダイレクトなコミュニケーションをとる
文化圏に生きていた人たちだ。そのスタイルが引き継がれた。


四つ目は、徴兵制だ。イスラエルでは、男性は3年間、女性は2年間の
兵役義務がある。ゴールを最短距離で、もっとも効果的に達成するには、
意図や命令を最短距離で伝えるコミュニケーションスタイルが必要になる。


もちろん、他にも、ユダヤ教や、乾燥地帯の気候も何らかの影響を
及ぼしているのかもしれない。


話しが飛躍するようだけど、僕の知る限り、
ビジネスの世界では、ダイレクトなコミュニケーションが求められる。


なぜなら、そこは競争を善とし、国境を超えたグローバル化が
前提の世界だから。


また、経営学で使う言葉には、軍事用語から転用されているものも多い。


ビジネス世界が、常に「競争」と「異文化の緊張感」に晒される環境なのだとすると、
そこでは、今後、ますます合理的で、ダイレクトなコミュニケーションが要求される
ようになるのだろうか。


イスラエルが辿ってきた道のように…。

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Couples CounselingのTheory

「1対1のIndividual Therapyと、2人を相手にするCouples Therapyは全く別物。
確固とした方法論を身につける必要がある実感したわ!」


先日のMarriege and Couples Counselingのクラスで、ロールプレイの後にクラスメートが
したシェアだ。


Couples Therapyでは、1対1のセッションに比べて、セラピストのIntervention
(介入・仲裁)が圧倒的に多い。


だから、僕たちはセオリーを学ぶ必要がある。正しい、効果的な介入をするために。


特徴的なのは、個人に働きかけるのではなく、
その個人をそのように追いやってしまっている「関係」や「パターン」、
「システム」や「ダイナミズム」に働きかけるというアプローチだ。


例えば、Coupleは、明らかに陥りがちな会話のパターンを持っている。


相手がそう言う反応をするから、こっちもこういう反応をしたくなる。
しかし、その瞬間に、相手も同じことを思っている。


お互いが、相手の刺激ボタンをひたすら押しまくる。
まるで早押しクイズ番組みたいに。


でも、本人たちは自分たちのしていることが見えていない。
会話のパターンに飲み込まれてしまっている…。


ちなみに、人は、頭に血が上っているとき、理性の95%が機能していない、
とのデータがどこかにあるそうだ。


だから、カップルセラピストがまず最初にする基本的なアプローチは、
興奮しがちになるカップルの会話をクールダウンさせ、会話のパターンに
気づかせること。


自分たちの会話のメカニズムに気づき、理解ができたら、
次はそのメカニズムに陥らないようにするために何ができるか。
ここからはカップルが採る具体的な行動のレベルの話になってくる。


更に、なぜお互いがそのような刺激のパターンを持つようになったのか、
その根源を探っていくようなアプローチをとると、お互いの幼少時の
家族関係の話にもつながってくる。


ここからまで進むと、1対1のIndividual Therapyの領域にもかなり近くなってくる。


アメリカでも、Couples TherapyやFamily Therapyは新興のジャンルだ。
専門家はさほど多くはないらしい。


しかし、この領域でもたくさんのセオリーが生まれている。
そこで生まれている叡智を、うまく組織経営や上司部下の人間関係にも
当てはめることができないだろうか…。


そんなことを考えている。

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オープンハウス/Pierce Counseling Center

Dsc01773











水曜日、CIISのカウンセリングセンターのオープンハウスに参加してきた。
オープンハウスとは、プラクティカム希望者に対する見学説明会のことだ。


毎セメスターに一回だけカウンセリングセンターの募集が行われるので、
それに合わせてオープンハウスが開かれる。


今回は、CIISに3つあるカウンセリングセンターのうち、
Pierce Street Counseling Centerのオープンハウス。


ここはCIISで最も古いカウンセリングセンターの一つで、
Psychodynamicsのアプローチをメインに据えている。


19人の参加者がいた。


ピザとコーラが用意されていて、カウンセリングセンターの
二人の責任者を囲んで、座談会がメインだった。


責任者のDanは、とてもゆっくりとソフトに、深く話すタイプだ。
年齢は、50代後半だろうか。参加者は、彼の言葉を一言も逃さないようにと
耳を傾けている。


Pierceは、プラクティカムのトレーニングを、T-Groupという
Sensitivity Training Groupをメインに据えて行うのが特徴だ。


それは、とてもインテンシブな場になることが多いので、敬遠する人も多い。


ちなみに、このオープンハウスに出席することが、受験条件の一つになっている。
だから、今日ここに集まった人たちはみんなライバルになる。


例年、5人しか採用しないらしい。
アピールも兼ねて、みんな質問をする。


トレーニング方法、クライアントのアサイン方法、採用の基準と面接の方法…。


一通り、それらの質問がで終わった後、僕も、質問をしてみた。


「毎セメスターごとに開かれている過去のオープンハウスの雰囲気と比べて、
今回の僕たちのこの場や雰囲気に対して、どういう印象をもったのか教えてほしい」


その瞬間、参加していたほとんどの生徒から、「Great Question!」と声が上がった。


Danは、ちょっと間を置いてから、笑いながら説明をしてくれた。
場が一気にほぐれた。


そして僕に逆質問をしてきた。


「君が、その質問をした意図を聞かせてほしいのだが」


僕は、日本で、組織にいかに人が育つ「場」をつくることができるか、
活力にあふれる「場」を作ることができるか、お互いにエネルギーと情報を自由に
やり取りできる場を作ることができるか、そんなことをテーマに仕事に取り組んできた。


人が集まる場をどう捉えるかは、僕のライフテーマだ。


そんな回答をした。


本当は、


「Dan、あなたをちょっと試したかった」


それだけなのだが。

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1941年と2007年

CIISのメインビルディングは6階建てだが、その5階にはCIIS以外の団体も入っている。


Greeterの仕事をするようになって知り合ったのが、その5階にある会社で
働いている、Fredだ。


眼光の鋭い、只者ではない雰囲気のお爺さんだ。


Greeterの仕事をして挨拶をかわすようになったある日、何がきっかけだったか、


「自分がスタンフォード大学に通っていた頃、第二次世界大戦が始まって徴兵をされた。
そしてヨーロッパ戦線に送られたんだ」


という話をしてくれた。


「実は僕は日本人だから、なんだか申し訳なく思う」と言うと、
彼はニヤリと笑って、それから何となく仲良くなった。
と言っても、挨拶をするだけだったけど。


金曜日、Fredが珍しくCIISのカフェに座っていた。
コーヒーを飲みながら、彼はウォールストリートジャーナルを読んでいた。
僕は話しかけてみた。


こうやって話すのは初めてだった。
彼は現在86才で、5階にある貿易会社のオーナーなのだとか。


しかし、昨今の経済環境の悪化と、自分と経営陣の高齢化もあって、
今月、会社を閉めることに決めたのだそうだ。


彼は、問わず語りに話しだした。


「1941年12月、自分の人生を変えたことが起こった。それが何だか知っているね」


(うん、あれだ) 僕はうなずいた。


「2007年以降、アメリカでのビジネスは何かが変わってしまったよ」


(はて、何があったっけ) 僕はうなずいた。


彼は、約60間年、会社を経営してきたそうだ。
現在、子どもたちはみんな自立して、ビジネスの第一線で活躍していると。
戦争の後、大学には戻らなかったけど、それはそれで楽しい人生だったと
彼は言った。


僕は家に帰ってから、2007年をGoogleで調べてみた。
それは、アメリカの住宅バブル崩壊をきっかけに世界金融危機が
起こった年だった。


思えば、CIISに来てから、ずいぶん経済的な世界から離れてるような気がする。

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余裕のない日々

良いスタートを切ったはずのFall Semesterだったのだけど、
ブログの更新がままならないぐらい慌ただしく、余裕のない日々になってしまった。


端を発したのはプラクティカムの一件かもしれない。
なんだかペースを崩した感がある。


その後、風邪をこじらせて微熱な日々を過ごしているせいもあるのだけど。


人間の心理は、面白いなと思う。


外部環境は大して変わっていないはずなのに、
心理状態のちょっとした変化で、そこは可能性に溢れる大海原のようにも映るし、
冷たい風の吹きすさぶ荒野のようにも映る。


今の僕は、大量のリーディングに追われ、プラクティカムサイト探しの準備に焦り、
英語力という古くて新しい問題に頭を悩ませている状況だ。


おまけに風邪が長引いているし、ブログが更新できていないのも
プレッシャーに感じたりしている。


CIISのクラスメートと話していて、よく感じることなのだけど、
自分で自分の人生を妙に複雑にしてしまう人って、なんて多いのだろう…。
もちろん、それは僕のバイアスなのだろうけど。


だから、僕の今も、別のある人から見たら、自分の置かれている状況を勝手に複雑に
捉えているだけなのかもしれない…。


ちなみに、たったいま書いていて思った。


僕のストレスは、リーディングとプラクティカムと英語の3つか。


ふーん、そうか、たったの3つか…。


何だか落ち着いてきた。


こうやって書き出してみるって、大事かもしれない。

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対等な関係と師弟関係

トランスパーソナルサイコロジーは、西洋のCounseling Psychologyの知見と、
東洋のSpiritualityの知見の融合を目指している。


言い変えると、


“自己”に注目して、人の意識について詳細な地図を手に入れた西洋の科学的知見と、
通常の意識の状態を超えた、つまり自己を超えた悟りの境地や覚者への道のりを
探究してきた東洋の宗教的知見との融合だ。


昨日、トランスパーソナルサイコロジーのクラスがあった。
インストラクターはBrant。とても温厚な紳士だ。


彼には著作もある。Psychotherapy and SpiritIntegral Psychology
僕はクラスの課題として読んだ。


僕はクラスで、いつもBrantの右隣に座っているのだが、
クラスが始まる前に聞いてみた。


「こういう本を書く人には、何か悟りのような経験が必要なのか?」


Brantは笑いながら言った。


「とても残念なことだけど、僕にはそういう経験は全くないよ。
だから、その経験の必要性もまったくないと思うよ」


その場ではそれ以上突っ込まなかったのだけど、
家に帰って来てから、ふと考えた。


セラピストとは、
クライアントが自分自身を深く探っていけるよう、安心できる安全な空間を提供し、
共感を示しながらクライアントと同じ目線で対話を重ねる存在だ。


だから、セラピストは先生でもない、ましてや師やグルでもない。
これが、西洋の知見から生まれたスタンスだ。


更に、セラピストは、人のプライバシーを知ることになるために、
モラルコードが厳格に定められている。人のプライバシーを知ることは、
ある意味、その人に対するパワーを持つことになるのから、当然のことだ。


ところが、一方で、


東洋のスピリチュアリティのスタンスは、セラピストとはまた違う。
多くの場合、師やグルと呼ばれる人につく。その人はパワーを持っている。


僕の限られた経験だと、修行する、道場に通う、お稽古ごとを習う。
どこにも、必ずそういう存在がいたように思う。


そして、僕たちは自分を越えるために、その人に全人格を委ねて、あるいは、
“自己”をいったん脇において、自身の脱皮を目指す。自分を越えるためには、
自分にしがみついていてはできない、という知見なのだろう。


そこに、僕が不思議に思うことがある。


西と東の二つの世界の融合を目指すトランスパーソナルサイコロジーなのだけど、
カウンセリングルームという、お互いの対等性を重んじる場で、セラピストが
師やグルという立場をとらず、クライアントのスピリチュアリティをサポートすることが
果たして可能なのだろうか。そこに、どこか矛盾や限界が生まれたりしないのだろうか、
ということだ。


自分を振り返ってみる。


僕が日本で携わっていた、コーチやコンサルタント、という仕事では
どうだっただろうか…。あるいは、僕自身は…。


対等の関係ではなく、
誰かを崇め、誰かににすがることで自己超越を実現したいと思うメンタリティは、
スピリチュアリティの分野だけでなく、ビジネス書の売れ筋を見ても、
東洋にどっぷりと浸っている日本人に、幅広く、深く根付いているのかもしれない、
と思う。

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英語力向上に向けて

僕のEnglish Speakingのチューターをしてくれると
手を挙げてくれたのがSimonだ。


Internatinal Studentの窓口をしているJodyに問い合わせて、
彼を紹介してもらった。


木曜日、CIISのカフェで初めて顔合わせをした。


彼は身長が200cmぐらいありそうな、ヒョロッとしたカナダ人だ。
トロントの出身だとか。今セメスターから、僕と同じICPで学んでいる。


とてもゆっくり話す。
もしかして、僕に合わせているのかと聞いたら、
それが自然のスピードなのだとか。


CIISに来る前は、JETというプログラムで、
日本の兵庫県丹波市で小中学生を相手に英語を教えていたそうだ。


フィーは1時間20ドル。今回は顔合わせとアウトラインの確認だけ。


僕からは、通じる発音と、自分なりの表現を手に入れたい、
この二つをリクエストした。


毎回テーマを決めて、それについて僕が彼に説明をして、その後、
彼が僕の表現と発音を矯正する。そんな基本の流れになりそうだ。


いよいよ来週から始まる。


他にも、英語力向上に関して考えていることがある。
早急に動こうと思っている。


上記とは関係ないけど、


学校で友だちからHow's going?と挨拶されたとき、普段はFine, thanks !と流して
答えていたのを、最近は「いやあ、トラブル続きでさ」と応えるようにしている。


すると、相手は、リズムが崩されたみたいにギョッとした感じで立ち止まる。


「プラクティカムサイト探しで英語がネックになりそうなんだ」


なんて話し出すと、何人かは、自分で良かったら練習相手になるよ、
と言ってくれる。


ありがたいことだ。


でも、先日参加したイスラエルとアメリカの文化の違いのワークショップによると、
イスラエル人の彼曰く、イスラエル人がそういう時は、本当に言葉のまま
受け取っていいらしいのだが、アメリカ人の場合は、ほとんどが社交辞令だ、
本音で話してくれないのでわかりにくい、と嘆いていた。自身の体験から。


さて…、今回のケースではどうだろう。

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自分が苦労したからこそ…

このブログがきっかけとなって知り合った日本人のTさんがいる。


知り合った当時は、同じベイエリアにある
John.F.Kennedy university(JFK)で僕と同じカウンセリングサイコロジーを学んでいた。


僕のブログを見て、同じ苦労をくぐり抜けてきた先輩として、
たくさんの応援メッセージを書き込んでくれた。


僕はそのメッセージにとても助けられた。


彼は現在、JFKを卒業して、プラクティカムも終え、就職先(インターン)を探している。


ずっとWEB上だけの知り合いだったのだけど、そのTさんに、
火曜日、ようやく会うことができた。


ぜひ会いましょう!と約束してから、1年以上の月日が経っていた。


僕よりちょうど10才年下の彼は、とても温和で、謙虚で、
目の前の人としっかり空間と時間を共有しようという意思を持った
好青年だった。


彼は、僕に会うためにわざわざオークランドからサンフランシスコにある
CIISまで足を運んでくれた。そして、「僕もとても苦労したんですよ…」と
笑顔で体験談を話してくれた。とてもありがたかった。


朴訥な彼を見ていて、ふと思った。


自分がとても苦労したからこそ、
他人に優しくなれる人と、


自分がとても苦労したからこそ、
他人も同じ経験をして当然と、無関心を装う人がいる。


分かりにくい区別かもしれないけど、案外、よくあることじゃないかと思う。


同じ経験をしても、そこから生まれる行動は180度違う。
Tさんは明らかに前者の人だった。


何がその違いを生むのだろう…。


僕は、どっちの人だろう…。


何だか、反省をしてしまった。


そのTさんがこんなことを言った。
「日本人は、他のアジア人に比べて横のつながりが薄いと思うんですよね…。
僕の周りは台湾人が多かったですが、彼らは互いに助け合う強い横のネットワークを
持っているんです。それに比べると日本人は…、やっぱりタテ社会ということ
なのでしょうか…」

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あれも、これも…

実は、Faculty MeetingにおけるPracticumの一件があって以来、
「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」に追われている。


夜は眠りが浅く、昼は焦っている。そして、どれも手がつかない。
山のようにあるリーディングと課題、それにもかかわらず、
Practicum Cite探しの準備をしなくてはいけない、
そして、それに向けた英語のブラッシュアップも…。


あまりにも落ち着かないので、今朝、リーディングの時間を割愛して、
学校に行く前に、ベッドの上で20分ほど座禅をした。


今にも溢れんばかりに揺れ動くコップの中の水が、
だんだん静かに落ち着いていくような感覚を、自分の中に覚えた。


そして、ここ数日を振り返って見た。


先週の金曜日の夕方、僕はOcean Beachまで散歩に行った。
奇麗な夕日だった。写真に写っている犬が、この後、僕の足元に寄ってきて、
挨拶をしてくれた。飼い主が呼んでも戻らず…、とても人懐っこい犬だった。
Dsc01743











翌日の土曜日、アメリカ人のクラスメート、Julesが久しぶりに晩ご飯を
食べようと誘ってくれた。Missionにあるベジタリアンレストランでいろいろ互いの
近況を話した。その帰り、Dolores Parkから見た夜景が奇麗だった。
Dsc01726











先週から玄関のGreeterデスクが新しくなった。
日曜日のシフトで、そのデスクに座った。快適だった。Dsc01737 












その日の夕方から、サンフランシスコは珍しく大雨になった。
僕は、「the raindrops keep falling on my head」のメロディを口ずさみながら、
自転車でずぶ濡れになりながら帰った。



うん。いろいろありながらも、僕は楽しめているようだ。
大丈夫だ、そう思えた。

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心境の変化

「もしかして、クラスが楽しいかもしれない…」


このFall Semester、
CIISに来て1年半、初めてそんな風に感じている自分に気づいた。


これまでの1年半は、おそらくただ必死で、
個人的な感情を味わう余裕がまったく無かった、ということなのだと思う。


そう感じれるようになった一番の理由を考えていたのだけど…、


やはり、自分の英語に関して周囲をあまり気にしなくなったことが大きい。


だから、クラスでも積極的に発言ができるようになった。
相変わらずのひどい英語にも関わらず。


では、なぜそういう心境の変化が訪れたのだろう…。


僕は3年間の予定でCIISに学びに来ている。


最初の頃は、
「僕は日本からの留学生です。いろいろご迷惑をおかけすると思いますが、
これから3年間、みなさん、どうぞ仲良くしてください。よろしくお願いします」


こんな遜(へりくだ)った気持ちがあった。
この気持ち、根が深くて、なかなか拭い去ることができなかった。
それが僕の気持ちを必要以上に内向きにさせていた。


でも、1年半経った現在(いま)、こんな風に思っている。


「どうせ、あと1年半だ。どう思われたって知ったことかっ!」


…。


なんてひどい心境の変化だろう。
書いていて、自分でそう思った。


アハハ。

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イスラエルとアメリカの文化の違い/“in TREATMENT”を通して

以前にもこのブログで紹介したことのある、セラピーセッションをドラマ化した
アメリカのテレビドラマ “in TREATMENT”。
僕は大のファンだ。



金曜日、CIISで、その“in TREATMENT”を題材にしてCultural Diversityを考える、
というワークショップがあるというので参加をしてみた。


でも、“in TREATMENT”では、Cultural Diversityを扱ったセッションは
無かったように記憶している。さて、今回のテーマといったいどういう繋がりが
あるのだろうと思っていた。


実際に参加してみて驚いた。
こういうアングルで考えるのか、と思った。


実は、CIISにもファンの多いこの“in TREATMENT”、
もともとはイスラエルで2003年に大ヒットしたドラマを、アメリカのHBOが買って、
アメリカ人の役者を使って作りなおしたのだそうだ。
ストーリーもセリフも、ほとんど変えずに。


ところが!


当然のことながら、いくつか修正せざるを得なかった箇所がある。


なぜなら、セラピーはコミュニケーションによって行われる。
そのコミュニケーションは文化と切っても切り離せない関係にある。


つまり、イスラエル版からアメリカ版に作り直す際に、言葉だけでなく
“文化”の翻訳作業も必要になってくる。


これは、ドラマの物理的な舞台セッティングにしても同じことが言える。
カウンセラーとクライアントの椅子の並べ方だったり、部屋の装飾だったり、
部屋の出入り口の数だったり…。そこに文化が現れる。


このアメリカ版は、アメリカ人スタッフが実際にイスラエルに行って、
文化の違いを学び、イスラエル側のスタッフと議論を重ね、
それらのプロセスを踏んだ上で誕生したのだそうだ。


今回のワークショップは、イスラエル版からアメリカ版に作りかえられる時に
変更された、そのほんの少しの箇所に注目し、それがなぜそのように変更される
必要があったのかを文化的な見地から考えてみる、そういう内容だった。


主催者はイスラエル人で、自身のアメリカでの体験を交えながらのワークショップ。


イスラエル人がアメリカ人に感じる違和感、つまりアメリカでの異文化体験を
日本人の僕が聞く…。


頭の中が立体的になる感じがした。


<付録>
アメリカ版に比べて、イスラエル版の“in TREATMENT”では、

・セラピストとクライアントの心理的な“距離”が近い
セラピスト-クライアントという立場の関係ではなく、あなた-わたし、という関係で
セラピーが進む。イスラエルでは、人間関係において、職業や立場によって生じる
ヒエラルキーをアメリカ人ほど感じないのだそうだ。

・ダイレクトなコミュニケーション
アメリカ以上に単刀直入なやりとりがなされる。またそれが評価される。
僕の基準だとアメリカ人は十分にダイレクトなのだが…、
イスラエル人の基準ではアメリカ人はダイレクトではない、と映るらしい。
当然のことながら、プライバシーの垣根もとても低い。アメリカの基準では、
かなりお互いの“Boundary”に触れることでも、イスラエル版ではそれをオープンに
話している。

・抑制された感情表現とボディランゲージ
アメリカ版は、感情的にドラマチックだ。身ぶり手ぶりも、上半身の動きも声の抑揚も
大きい。それを例えるなら、フットワーク軽やかに上半身を揺らせてお互いのパンチを
かわしながらのボクシングだ。一方、イスラエル版には、派手さもなく静かだけど、
至近距離でノーガードの殴り合いをしているような迫力を感じた。

・カウンセリングルームのシンプルな装飾
アメリカ版のカウンセリングルームの立派な装飾は、セラピストの成功の証、
優秀さのアピールなのかもしれない。でも、イスラエル版にはそれがない。

もし、日本でこのシリーズが同様に日本人の手で行われるとしたら、
いったいどういう修正が加えられる必要があるのだろう…。
とても興味深く思った。

ちなみに、イスラエルにおける調査では、このテレビシリーズを5週以上見た人の
セラピーに関する印象は大いにプラスに転じたそうです。

以下がイスラエル版“in TREATMENT”のTrailerです。宜しかったら、どうぞ。

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無我、夢中で霧中

もしかしたら、ご心配をおかけしています。
二つ前のブログの続きです。


木曜日、Facultyメンバーでもあり、プラクティカムプログラムの
責任者でもあるBrantとミーティングをすることになった。


たまたま「NONVIOLENT COMMUNICATION」を事前に読んでいたせいもあり、
自分のニーズは明確にして行こうと思っていた。


僕の基本的なニーズは、以下の二つ。


一つは、僕が考える英語力向上について合意する。
iBT TOEFLのスピーキングテストは、客観的な基準ではあるかもしれないけど、
僕に求められているスピーキング力の向上という点で本質的なアプローチではない
ような気がした。


もう一つは、僕がプラクティカムサイトを受ける時にどのような制約条件がつくのか、
もしついているのならそれは何か。それを明確化する。


僕は、限られた時間の中で、英語力向上に対して僕が取り得る対応策、
並びにそのコストを、事前にA4用紙に箇条書きにまとめて、持って行った。

英語学校、チューター、教材、独習、ボランティア…。

例えば、僕は、事前にCIISの留学生担当者に問い合わせて、スピーキングの
チューターをしてくれる生徒の有無を確認していた。1時間20ドルで
担当してくれるとの合意を得ていた。

また、昨年、半年間通っていた英語学校の先生にも問い合わせて、
各学校の評判、1クラスの生徒数、コストなどの情報をもらっていた。


さて、当日、オフィスに出向くとBrantは笑顔で迎えてくれて、
とてもリラックスした雰囲気のミーティングになった。


基本の内容は、前回立ち話をした時とは変わらない。


彼はこう言った。

「情報があいまいで申し訳なかったね。意図としてはこうだったんだ。
CIISのカウンセリングセンターでは、しばしば、所定のHourを稼げずに
苦しむ留学生がいる。

だから、TJには、より多様性に溢れるクライアントを抱えるプラクティカムサイトを
探すことを勧めるのがいいだろうと。もちろん、カウンセリングセンターを受けることに
問題はない。そして、僕はTJの英語はよく理解できるし、iBTに対するTJの考えも
よく分かったよ」


というわけで、結論としては、僕がイメージしていた通りの結果を手に入れた。


でも、英語力を向上させねならないことには変わりない。
それがプラクティカムサイト探しの問題になったり、
プラクティカムがスタートしてからの問題になったりするからだ。


おかげで、火がついた


明日、僕は、CIISにのプラクティカムサイトのサポートオフィスに
情報収集のために会うアポイントを入れている。


リーディングも山ほどあるのに、バタバタしている。


いま僕は、無我夢中なのか、それとも無我霧中なのか…。



<付録>
今回、Judyeのメールをもらった時点で複数の仲の良いクラスメートに相談をした。

揃いも揃って、そのメールの内容おかしい、断然、抗議すべきだと。
TJは何を素直に受け入れているのだと。まるで自分のことのように怒りを
交えて熱く語るので少し驚いた。

言葉だけがセラピーのクオリティを決めるのではない。
TJにはすべてが高いレベルで揃っている。英語にだってもっと自信を持っていい。

学校として、そこをサポートすることなくして、プラクティカムサイト探しに
制約をかけようとすることは、教育機関としての責任を放棄していることに
なるのではないか。

なるほど…。

彼らの逞しさ、もう少し見習いたいと思った。

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NONVIOLENT COMMUNICATION

「NONVIOLENT COMMUNICATION A Language of Life


すごく良い本だ。CIISに来て読まされた本の中でベストだと思う。
Couples and Marriege Counselingの課題図書だ。


たくさん線を引いた。その中からほんの少しだけ。


全てのコミュニケーションの背後には、ニーズがある。


ニーズとは、そのコミュニケーションによって、本人が相手に真に伝えたい、
それによって真に手に入れたいと思っていることだ。


それは、うまく表現されていることもあるし、表現されていないこともある。
いや、うまく表現されていないことの方が多い。


そこに諍いの種が生まれていたりする。


例えば、相手が僕を非難する。
僕は、その文字づらに反応するのではなく、その非難を通してこの人が
僕に真に伝えたいものに意識を向ける。そこに共感を向ける。なぜなら、
そこには、その人の満たされなかったニーズがあるはずだから。


そんなこと言っても、非難されながらそんなことを思うのは難しいと思う人も
いるかもしれない。でも、そう思う人とこの本では、立っている前提が違う。


この本は、こんなことを言っている。


誰もあなたを傷つける原因にはなれない。
他人は、「刺激を与えてくれた」に過ぎない。


ここの区別が重要だ。


つまり、もしあなたが傷ついたのなら、それは、あなたの中にある何かが、
他人によって、ただ刺激されただけ、ということ。


だから、自分が傷ついた真の原因は、実はあなたの中にある。
そこには、あなたの満たされなかったニーズがあるはず。


これは日常を振り返っても、同じ言動に対して、傷つく人もいれば、
まったく気にしない人もいることからも、想像できる。


そこをしっかりと観察する。分けて考えてみる。
つまり自分の感情に責任をとれるのは、自分だけなのだと理解する。


そして、自分を観察して、もし明確になった自分の真のニーズに気づいたのなら、
それを相手に伝える。


それがREQUESTになる。


話を進めると、
この本では、DEMANDとREQUESTを区別しなさいと言っている。


DEMANDには強制が伴う。REQUESTには強制が伴わない。
だから、DEMANDは相手に防衛のメカニズムを引き起こす。


REQUESTの出し手は、自分のニーズを意識しつつも、
その瞬間に、実は相手にもニーズがあることを忘れてはいない。
そこに共感し、相手を尊重することを忘れていない。


そこがDEMANDとREQUESTの大きな違いだ。
僕は、こういう分け方で考えたことがなかった。


ちなみに、この本は、相手を“説得する”ことが悪いとは言っていない。
もし必要であれば、充分に相手のニーズに共感をした上でそれをなさい、と言っている。


ちなみに、まだ読んだのは3分の2だけだ。
残りの3分の1は次のクラスまでに読むことになっている。


それでもこの本について書きたいことが山ほどある。
でも、本の解説をしたいわけじゃないから、このあたりで。


ではまた!

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五里夢中、か

Dsc01702











毎セメスター、本当にいろいろなことが起こる。


先の日曜日の早朝、Greeterのシフトのために7:15分に家を出た。


霧が、海からどんどん押し寄せて、坂を上って来る。その動きが見える。


僕は、その霧の中を、もしかしたら、お肌にいいんじゃなかろうか、
なんて思いながら自転車のペダルを踏んだ。
半袖の両腕に、みるみる細かい水滴がついた。


その日の夕方、僕のアカデミックアドバイザーのJudyeから
「プラクティカムサイト探しをスタートして良い」という許可のメールが来た。


CIISでは、プラクティカム(実習)に出るために、必要科目を履修し終わっている
必要がある。更に、その上でFaculty Meetingで審査があり、それに通って初めて
プラクティカムサイト探しをスタートできるいうシステムになっている。


でも、Judyeのメールには、但し…、と変なメッセージが付いていた。


「但し…、Faculty MeetingではTJの英語力を不安視する声が出たので、
我々としては、以下をTJに薦める…」


そこに書いてあったのは大きく二つだ。


一つは、CIISのカウンセリングセンターに応募しようと思うのなら、
英語力が著しく向上したという証拠を見せよ。


もう一つは、さもなくば英語以外に日本語でもセラピーセッションが出来る
別のプラクティカムサイトを探せ。


…。


実は、プラクティカムの問題は、僕の卒業にもかかってくるから、
けっこう深刻な問題だ。朝の濃霧が目の前に浮かんだ。


実は、僕はJudyeにメールをもらう二日前に、
僕が学んでいるIntegral Counseling PsychologyのプログラムスタッフのNasanと、
Puracticum Program責任者であるBrantから、おめでとうと、
直接、声をかけてもらって結果を知っていた。


今回のメールのトーンは、その時の二人の雰囲気とずいぶん違う。


僕は、現在、Brantのクラスを履修していることもあって、彼を知っている。
週明けに学校に行って直接聞いてみた。


どうも、こういうことらしい。


CIISのカウンセリングセンターでも、もちろん留学生を受け入れている。
ところが、今、何が起こっているのかというと、クライアントが英語が堪能でない
留学生のセラピストを望まない、あるいは、割り振ってもセッションが
継続しないという問題が生じている。留学生が所定のセラピーセッション時間を
稼げない問題が起こっているので、それを考慮しての提言だったんだよ、
ということだった。


そして、BrantとJudyeの間でも、どうも今回の件で、
見解の相違があるらしいことがわかった。


というわけで、そのすり合わせのために、明日、彼らと僕の3者面談があります。


どういう結果になるのか…、僕の卒業はどうなるのか…。


サンフランシスコでは、朝に霧の出た日は、だいたい晴れるというのが定番です。

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モラルジレンマ

Professional Ethics & Lawのクラス。


それは、木曜日の15時から始まるTranspersonal Psychologyのクラスが
18時に終了後、その15分後に始まる。


インストラクターのDorisは、CIISには珍しい、スペイン語なまりの英語を早口に
話す、元気の良い中年女性だ。


今回も、いくつかのモラルジレンマに関する短いケーススダディがあった。


例えば、その一つを簡単に言うと、こんな内容だ。

「あなたは看護師で、ヘルスセンターに勤務している。
担当している患者の一人はHIV保持者だ。あなたは守秘義務契約のもとに、
そのことを知っている。

ある日、その患者から緊急コールがあった。駆けつけると、その患者が額から血を
流して倒れている。あなたがその場に到着したとき、偶然、非番でその場にいた同僚が、
その患者のケアをしていた。

その彼女の手には、その患者の額から流れた血が付いている。患者は、自分が
HIV保持者であることを彼女に伝えないで欲しいと言っている。
守秘義務契約もある。あなたならどうするか?」


なぜ、セラピストにとってモラルジレンマの話が重要なのか。


かつて、カリフォルニア州で実際に起きた事件がある。

あるクライアントがセラピーセッション中にこんなことを話した。

「自分をふった彼女が憎い。殺してしまいたい」

セラピストは、守秘義務契約のもとに、そのことについて、
その彼女にも、その家族にも、誰にも話さなかった。

そして…、

ある日、彼はそれを実行した。


我々は、その時のセラピストの判断をどう考えるのだろう。
あなたがそう考える時、その基準はいったい何なのだろう。


あるいは、こんな話もある。
セラピストは、クライアントが児童虐待をしている恐れがあると感じたら、
それを速やかに報告し、保護する法的義務がある。守秘義務契約をしていてもだ。


セラピストはそれを報告すべきか、否か。


報告すれば、正直にそれを話したクライアントとの信頼関係を損なうことになる。
しかし、報告しなければ子供の命にも関わることになるかもしれない。


更に、もっと複雑なことに、


親元を離され、保護のために施設に入れられた子供は、
親元にいる時よりも精神的に悪い状況に置かれていまうことが多い、
というデータもある。


さて、あなたはどうすべきなのか。


法に明文化されていることがある。そこに定められている内容に対して、
あなたの倫理、価値観、感情、経験、そして知識などからくるジレンマを
どう乗り越えるのか。


もちろん、正解はない。
一人一人が、自分の向き合うことで、より正しい意思決定をしていくしかない。


そのために「研ぎ澄まされたコンパスを持たなくてはいけない」というのが
このクラスの目的だ。


僕は質問してみた。


このクラスで、各自が研ぎ澄まされたコンパスを持てるようになったとする。
その時、例えば、Dorisのコンパスが差す北と、僕のコンパスが差す北は、
方向が違うかもしれない。それでも良いのか?と。


Doris曰く、


それで良いのだと。
何がRightで、何がWrongかは、自分で決めるしかないのだと。


自分が行きたい所に行けるようにするのがコンパスの役割だ。
そのコンパスが雲っていると、自分が行きたいところに行けない。


自分の判断に、どこかしっくりこない。
判断の後に、寝付きや寝覚めがわるかったりするのは、
自分の行きたい方向に行けていない証拠だ。


だから、僕たちは、判断のベースとなる自分の価値基準を知り、
他の価値基準も知る必要がある。前回のブログで書いたように。


Dorisは、最後にこんなフレーズを提示した。


Self-Regulation VS Code-Regulation...or both?


大事なのは、自分自身のIntegrityだ。



<付録>
自分を振り返ってみる。

ビジネススクールで学んだことや、現実のビジネスにおいて、
僕の知っている限り、意識決定の大きな判断基準…、

それは、Benefitだった。

短期的な利益を目指すのか、長期的な利益を目指すのかによって、
多少の内容の違いは出てくるけど、判断基準はいたってシンプルだったように思う。

語弊があるかもしれないけど、ビジネスにおいては、
利益の前に、一人ひとりのモラルや倫理、価値観は問われなかった。
それらは、いつも遠くに霞んでしまっていた。
モラルに反すると疑問を呈するのは、甘ちょろいということだった。

だから、ほとんどモラルを飛ばした意志決定をしてきた、と言えるかもしれない。

いま、CIISの必修科目で、それも2度目のLaw & Ethicsを履修していて
改めて思う。

セラピー、あるいはビジネスetc、どの世界で生きるにしても、
これからは、一人ひとり、もっともっと自分のモラルや倫理、価値観との
Integlityを意識した生き方をすべきなのかもしれない。

その方が、フェアで豊かになれそうな気がする。
個人はもちろん、企業も社会も。

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“ネガティブ”を通して…

このFall Semesterのささやかな目標は、
より積極的にクラスの議論に関わるということだ。


昨日の木曜日、Transpersonal Psychologyのクラスがあった。
このブログでも触れてきた、僕が疑問に思ってきたことを投げかけてみた。


例えば、
西洋的に、ネガティブな感情は抑圧せずに発散すべきだ、という視点と、
東洋的に、ネガティブな表現はその場にも、自分にも影響するので
慎むべきだという視点がある。


矛盾しているように見えるこれらの視点に関して、
トランスパーソナルサイコロジーではどう捉えているのだろうか。


インストラクターのBrant曰く、


「ネガティブな感情表現は慎むべきだという考えは、東洋に限らず、
実は西洋の世界でもまったく同じなんだよ。ここアメリカでもね。
まず、そこの認識を君と合わせる必要があるかな。

その上で、例えば、こんな話がある。

自分が以前担当したグループダイナミクスのクラスでこんなことがあった。
ある男子生徒が、こう言ったんだ。

『自分はネガティブな感情を表現したくない。相手に対する
ネガティブなフィードバックも口にしたくない。
それは誰かを傷つけることになるだろうし、良い結果を導かないように思うから』

それに対して、他のクラスメートからこういう意見が出されたんだ。

『あなたはそう思うのかもしれないけど、あなたのネガティブな感情は、
直接的にじゃなくても、あなたのクラスへの参加姿勢だったり、ちょっと
皮肉がかった意見だったり、普段の態度に十分に表れていると思うわ…』

そのフィードバックを機に、その男子生徒はずいぶん変わったんだ。

押さえているつもりでも、表現していないつもりでも、その抑圧された
感情はどこかで表現されている。もっと歪んだ形で。

感情を抑圧せずに直接表現する、伝えることで、
手に入れることができる自分、あるいは関係というものがあるかもしれないのだけど、
それについてはどう思うかな?」


それがきっかけとなって、クラスの議論が盛り上がった。


その中で、僕の印象に残ったある生徒の意見がある。


「例えば、“怒り”という感情表現自体には、本来は、ポジティブな意味も、
ネガティブな意味も無いと思うの。

そう意味づけているのは、私たちの理性であり、頭。
体にとっては、感じた怒りを表現することはとても自然なこと。

私たちが気を付けないといけないのは、“体”が望んだ表現に対して、
私たちの“頭”がする意味付け。そこを分けて捉える必要があると思うの」


最後に、Brant曰く、


「私たちがこれまでの歴史の中で忌避してきた内面の“ネガティブ”な部分に
向き合うことが、私たちを本当に大切なところに到達させてくれるのかもしれない。」


とのことだった。

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スピリチュアリティとカウンセリングサイコロジー

臨床心理学の歴史は、せいぜい100年だ。
そして思うに、心の病気の歴史はもっと長い。


ということは、100年より前の人々は、
心の病気に対してどう対処してきたのだろう…。


僕の問題意識の一つだった。


昨日のTranspersonal Psychologyのクラスで少し明確になったのが、
その答えの一つにスピリチュアリティがあったと言うことだ。


例えば、宗教とスピリチュアリティの厳密な違いはさておいて、


東洋の宗教には、スピリチュアリティなワークを取り入れているものが多い。
たくさんあるヨガや瞑想法、呼吸法…、座禅もそうだ。


その目的は、
それによって心を落ち着ける、自分を取り戻す、精神的成長を図る、
バランスを回復する、個を超えた世界につながることで安寧を手に入れるetc、
いろいろだろう。


つまり、現代におけるカウンセリングサイコロジーの役割とちょっと重なるのだ。


フロイトが無意識の存在を発見し、力動精神モデルを提唱してから、
西洋では、セルフを中心にした“意識の構造”に関する詳細なマップを持つに至った。


東洋には、ヒンズー教や仏教にあるように、スピリチュアルな世界の豊かなマップを
持っている。そこに描かれているのは、個としてのセルフを超えた世界だ。


もし、この二つの世界に重なりがあるのだとしたら、
一つながりで捉える事が出来るとしたら、それはいったいどういう世界なのか。


あるいは、サイコロジーの知見と、スピリチュアリティのワークは、
どう融合できるのだろうか。


これまで、あまり関係を考えたことのないリンクだった。
そして、それを扱うのがTranspaersonal Psychology、ということなのだろう。


僕の限られた経験だと、
創業経営者には目に見えない世界を信じている人が多かった。


それは、企業経営という修羅場を潜り抜けていく中で、自分の力を超えた
何かによって助けられ、そして生かされてきた、という実感があるからだろうか。


あるいは、


経営者とはあまりにも孤独な存在で、何かにすがらないとやっていけないから
だったのだろうか…。


いぜれにせよ、


いつの時代にも、そういう境地で、何かを求めている人たちがいる。
占いや新興宗教、カルトセミナーなどの“サービス”が廃れないことから見ても、たぶん。


そういうニーズを、もう少し科学的で健全な(?)、
カンセリングサイコロジーの世界に繋いであげることができないだろうか、
というのも、僕がCIISで学ぶ目的の一つだ。

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Marriage & Couples Counselingのクラス

こちらでは、夫婦やカップルが、二人一緒にセラピストのもとに通って、
二人の問題を共に話し合いながら解決しようとするセラピーも盛んだ。


そのセオリーや方法論を学ぶのが、Marriage & Couples Counselingのクラスだ。


春のファミリーセラピーのクラスでも感じたことだけど、
家族や夫婦、カップルの“内輪の問題”に、第三者を交えて解決を話し合うとは、
日本人の僕には、馴染みが少ない分野の一つだ。


昨日の火曜日が第一回目のクラスだった。
途中で日程変更があったこともあり、この科目としては珍しく、
9名の少人数のクラスとなった。ラッキーだ。


アジア系、且つ、有色人種は僕一人だけだったが、もうその環境には慣れた。


インストラクターはCIISでも非常に評価の高い、経験豊富なカウンセラーだ。
彼は、1on1の個人対象でもなく、グループ対象でもなく、カップルを対象とする
カウンセリングを自身の専門にしている。


カップルカウンセリングは、セッション中に、カップルの怒鳴り合いになったり、
ヒステリックな罵り合いになったり、侃々諤々の議論になることが多い。
つまり、修羅場に出会うことが多いセラピーだ。


それを避けて、別のジャンルを選ぶ人もいる。
しかし、インストラクター曰く、だからこそ、うまく行った時の変化には
他のセラピーでは体験できない深さとダイナミズムがあるのだそうだ。


今日のクラスでは、いくつか簡単なディスカッションがあった。


そのうちの一つが、
「カップルの関係を難しくする要因には何があるか?」というものだった。
ランダムに意見を出していったのだが、ホワイトボードがすぐにキーワードで
埋め尽くされた。Dsc01662_2












インストラクター曰く、カップルカウンセリングの現場における3大テーマは、
「Money」「Sex」そして、「Time」だそうだ。


次に、「では、関係をうまく行かせるものは?」というテーマで、同じく、
意見を出した。


それにしても、人はみな違うというのが大前提のお国柄だからなのか、
たくさんの見解があるのに驚いた。


これだけ多様な考え方の持ち主同士が、個人主義と自由を標榜する国で
くっつくのだから、口論も離婚も絶えないのが良く分かる。


アメリカでは、上手くいっているカップルはまさに奇跡と呼べるのかもしれない。


では…、


そのような国において、カップルカウンセリングが目指す「解決」とは、
いったいどういうものなのだろう。


インストラクター曰く、
「解決」の方向性は大きく二つある、とのこと。


それは、“Differentiation”と“Attachment”。


“Differentiation”とは、
それはお互いの違いを認めること。お互いが本当の自分を相手に伝える。
自分の想いや感情を正直に伝えることで相互の信頼を取り戻す。


“Attachmentとは、
それは、お互いの愛着に気づくこと。互いの愛を再確認し、譲り合ったり、
相手を許すことよって関係の修復を図る。


この話を聞きながら、いろいろなことを思った。


日本には、「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という諺がある。

その古い感覚だと、その犬も食わないテーマを扱うのが、
Marriage & Couples のセラピスト、ということになるのだろう。


ところが、これだけ価値観が多様で、男女共に生き方の選択肢も多いアメリカでは、
自然に仲直りという解決がなかなか難しいのかもしれない。
もしかしたら、現代の日本もそうなりつつあるのかもしれないけど…。


いずれにしても、このクラスでは、身近な経験も含めていろいろ探求していくことになる。
楽しみだ。


<付録>
今日のサンフランシスコは、快晴だった。

でも僕は、一日中、部屋でリーディングに追われていた。
だからどこにも行けない。

いよいよCIISデイズが始まったんだなと、思った。
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Psychopharmachology(神経薬理学)のクラス

今日が第一回目のクラス。
朝8時30分から始まったこのクラスは、生徒が7人だけの小さいクラスだった。
通常は20人前後なので、アットホームで、お得感があって、イイ感じだ。


このクラスの目的は、抗鬱剤などの薬物の知識や、それが機能する仕組みを
知ることによって、精神疾患に対する薬物の意義と限界を知る、
というものだった。


インストラクターの専門は神経生物学。
外部環境ではなく、体の内部環境が我々にどういう影響を与えているのかに
興味を持ったのが、この道に進むきっかけだったとのこと。


今日は、脳やニューロン、神経の仕組みについて簡単な説明があった。


我々の脳は、外部環境から受け取る全ての情報を電気信号に変えて受け取っている。
そして、その電気信号が、脳にケミカルを分泌させる。


つまり、脳の内部環境だけの視点で見ると、
電気信号によるケミカルが、僕たちの「Perception」を司っていることになる。

そして、その「Perception」によって、僕たちの“心のあれこれ”が生じている。

だから、“心のあれこれ”を引き起こしているケミカルに直接働きかけようとするのが
「薬物」の投与ということになる。


初回のクラスが終わっただけだから、
まだ突っ込んだことが何も書けないのが残念だけど…、


それにしても、脳内物質と心の関係は興味深い。


つまり、今日のクラスでも触れられたことだが、
心の問題を、脳内物質のバランスが崩れていることが原因と捉えるなら、
そのバランスをとるために薬物を使用する、というのは説得力がある。


セラピーに行って、単に話すだけでどんな治療効果があるのだ、
と疑問を持つ人に対しても、サイエンスな感じがして理解を得やすいだろう。


しかし、それに対する反論(?)というのではないが、インストラクターは
こういう視点も紹介してくれた。


心の病に対して薬物を使用するのは、「痛み止め」を使うことに似ているかもしれない。
心の痛みは失せるかもしれないが、その痛みを引き起こした原因の解決には
至らない…。


すると、


セラピーセッションとは、
コミュニケーションを通して、心の問題が発生している原因を探っていくことが目的、
ということになる。

セラピストのサポートを得ながら、クライアントはその原因を探るチャレンジをする。

そのチャレンジが上手くいけば、クライアントはそれまでとは違う「Perception」を
手に入れることができるかもしれない。

それによって、おそらくはそれまでとは違う脳神経のネットワークが形成され、
脳内物質の流れにも何か変化が起こる、ということなのだろう。


だから、


言うまでもなく、セラピストとは、ただ単にクライアントの話を聞く人ではない。


しっかりとした理論と方法論とモラルに則って、クライアントが心に向き合うことを
支援するプロフェッショナル、ということになるのだろう。
クライアントが今の自分を乗り越えていけるように。


今日、もう一つあったクラスを終えてCIISからの帰り、
Ocean Beach沿いを自転車で走っていると、大きなタンカーが海に
浮かんでいるのが見えた。

海風が心地よく吹く中を、ゆっくりとゆっくりと、横切って行った…。

僕にとって、二度目のFall Semester。
どうやら、良いスタートが切れているようです。
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画鋲とサイクリングショップ

日曜日は、昨日までとは打って変わって、霧が立ち込め、肌寒くなった。


その早朝、僕はGreeterの仕事のためにCIISに向かって自転車のペダルを踏んでいた。


Market St.に出て、Octavia St.を過ぎたあたりで、前輪が小さく変な音を立て出した。
カシャー、カシャー、カシャーと、テンポよく。


ここはずっと緩い下り坂になっていて、
本来なら、腰を浮かせて、風を全身で感じながら、VAN NESSの交差点まで
イッキに降りるはずだったのだが…、


何か踏んだか?と思って自転車を止めると、


画鋲が三か所、タイヤに刺さっていた。赤と黄色と茶色、
とてもカラフルだった。


一つずつ抜くと、その都度、律儀にプシューッ、プシューッ、プシューッと
空気の抜ける音がした。


さて、困った…。


そのまま何とかCIISまで行き、駐輪場に自転車を止めた。


案の定、そのまま空気は漏れ続け、走行不能になった。


午後、仕事が終わってから、CIIS近くのサイクリングショップに行って、
修理をしてもらった。


日曜日だけどショップが開いていたのはラッキーだった。


担当してくれた人が、
「今朝、やはり同じ原因でパンクをした人の自転車を修理したよ、
場所はあの辺りかい?」と聞いてきた。


同じ場所だった。


意図的に撒いた奴がいるに違いない!ひどい奴がいるもんだ!
なんて話で盛り上がった。


修理はやけに早かった。穴をふさぐのではなく、チューブを丸ごと交換した。
アメリカ的だ。


税込みで、16ドル56セントの出費だった。


というわけで、
新しいチューブが前輪に入った自転車に乗って、家に戻った。
今度は、路面の小さな異物にも慎重になりながら。


いま、このブログを書いていて、ふと思い出したことがある。


昔、アメリカのドラマ「頑張れベアーズ」をテレビで観ていた時に、
洗車のアルバイトをすることになった子供たちが、洗車場の近くを通りかかる車に
泥をぶつけて客を呼び込む、というシーンがあったことを思い出した。


うむ…、


そう言えば、
修理してくれた人の顔には、やけに大きな笑みがこぼれていたような気がする…。


アハハ。


そうそう、日本も“CHANGEの秋”ですね。
ではまた!
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僕のSpiritual History

先週、Transpersonal Psychologyの第一回目のクラスがあった。
3時間のクラスの前半は、理論の大まかな説明、そして、後半は、
一人ひとりが自分のこれまでの人生におけるSpiritual Historyをシェアする、
という内容だった。


CIISに通う多くの生徒は、何かしら“それらしい”経験を持っていて、
それに導かれてCIISに来ている、ようだ。


アルコールや薬物の中毒体験だったり、神秘体験だったり、
重い事故や病気の克服だったり、グルとの衝撃的な出会いだったり、
小さい頃に“見えないもの”が見えたり、ファミリーのダイナミクスだったり、
ジェンダーの葛藤だったり…、そんな直接体験を持つ人が多い。


果て…、困った。僕にはいったい何があるのだろうと思案していたのだが…、


みんな長々と話したので、僕の手前でクラスが終了した。
ホッとしたものの、来週も続くらしい。


僕のSpiritual History、か。


さて…。


というわけで、この場を借りて少し考えてみたい。


僕は千葉県の九十九里浜の近く、田んぼと自然に囲まれた環境で育った。
幼少時はもちろん、人生においてSpiritualな体験などは、ほとんどなかった、
と思う。


いや、僕が2歳か3歳の時に高熱を出して、その時、「ミシンの後に怪獣がいる!」
と騒いで周囲を慌てさせたことがある、と親から聞いたことがある。
いや、本当にいたのかもしれない…。


その両親は、何か特別な信仰を持っているわけでもない。
こちらでは、宗教がないというという無神論者のように聞こえてしまうので、
僕の家庭環境には特定の信仰は無かったけど、仏教と神道的に影響を受けた
カルチャーの中で育った来た、と説明をしている。


僕のSpiritual History…。


高校までは何もなかったけど、大学生の時に、ある異業種交流会に2年ほど
参加をした。Uさんという女性が主催していた会だったのだが、人格者が
たくさん集っていて、そこで知り合った方々は、信仰を持っているか、
あるいは、人生について信仰に近い哲学を持っている人が多かった。

最年少だった僕は、みんなに可愛がられた。

人との繋がりを大切にしなさい、目に見えないものを大事にしなさい、
いつもいい縁に恵まれるよう笑顔でいなさい…、

今、振り返ればそんなことを教えて貰ったような気がする。


僕のSpiritual History…。


社会人1年目、僕は九州の福岡市に配属となった。
初夏の頃、博多にある臨済宗東福寺派の承天寺というお寺をふらりと訪れると、
草むしりをしていた執事のおじさんが、なぜか老師を紹介してくれた。

それがきっかけとなって、翌日から毎朝、出社前にその寺に座禅に通うようになった。

しばらくすると、老師は、いつでも好きな時に座禅に来るといい、と言ってくれた。
僕は自分の家の様にそのお寺を訪れ、好きなだけ座禅をした。更にしばらしくしてから、
その老師は、京都に本山を置く臨済宗東福寺派のNo.2の偉いお坊さんだと知った。

僕は結局、福岡市に滞在していた3年間、土日も休まず毎日座禅に通った。


僕のSpiritual History…。


ビジネススクールに通うために、福岡から東京に戻った。
僕は、これまた、ふとしたこときっかけで、高知県の四万十川の近くにある
幡多郡三原村の、浄土宗の住職と知り合いになった。

その年の夏休み、そのお寺を訪れ、2ヶ月間ほど滞在した。
その和尚さんは定年退職後、大学に入り直して住職になられた方だった。
お盆の時期、方々でお経を上げなくてはいけない和尚さんのドライバーになって、
村中のいろいろな家を訪れた。たくさんの人にお世話になった。


僕のSpiritual History…。


ビジネススクールを卒業してからの1年半は、いま思えば、葛藤と模索の時期だった。
ほとんど、プ―太郎に近い状態だった。働くことの意味、自分の本当にやりたいこと、
自分が何者なのか、自分の人生の意味は何か、いろいろ考えた。

そんな状態だったにもかかわらず、この時期にもたくさんの出会いに恵まれた。

これまた、あるきっかけで知り合った異業種交流会を通して、
普通では、まずお目にかかれない人たちとたくさん知り合った。

そこは、政治家、経営者、ビジネスパーソン、能楽師、弁護士や会計士などの
プロフェッショナル、学者、武道家、宗教家、ヒーラー、霊能力者、自称宇宙人、
主婦などなど、数百名からなる会だった。

僕は、会の主催者の計らいもあって、そう人たちとどんどん繋がっていった。


その会をきっかけにして、良くも悪くもカルトっぽいセミナーの存在を知り、
神道系の新興宗教の本山にも足を踏み入れた。別に、何かを信じているわけでも
求めていたわけでもなくて、ただ好奇心があった。


霊能力者やヒーラーと呼ばれる人たちの“生態”も身近に知った。
僕の理解を超えていることも多々あったけど、みんな、僕に良くしてくれた。


この時期、ヴィパッサナー瞑想のワークショップにも行ったし、
インドの聖者、アマチが東京に来た際にはハグもしてもらった。
京都では天台宗の大阿闍梨にもお目にかかった。


この1年半は、凝縮してたくさんの“スピリチュアル”な存在に出会っていたように思う。
いろいろ揺れていた時期だったけど、その方向に僕の目指す何かがあるようにも
思えなかった。


30歳になった時、これらの世界とは距離を置こうと思った。
僕の20代の生き方は中途半端だったし、もっと向き合わなくてはいけないものが
あると思った。そして、ビジネスの世界に大きく人生の舵を切った。
もう迷わなかった。


僕のSpiritual History…。


こういう経験なら他にもあるし、一つ一つについて書き出したら、
いくらでも書けそうな気がする。いつか小説にでもまとめてみたいと思っているぐらいだ。


では、ここに書いたこれらの経験がスピリチュアルなのかというと…、
ちょっと違う気もする。


ビジネスの世界に舵を切った30代の10年間を終えて、40歳。僕はいまCIISにいる。
だからと言って、スピリチュアリティの世界に惹かれているわけではない。
別にそれを否定もしていないけど。


いま僕が思うのは、
死ねば誰でもスピリチュアルな存在ななるんじゃないか、ということ。


だから、生きているうちに、死んでからの状態に近い存在になることを目指さなくても
良いんじゃないか、なんて考えている。


僕はいま肉体を持っている。死んだら肉体がなくなる。
いつかスピリチュアルな存在になった時、逆に肉体を懐かしく、恋しく思うのかもしれない。
映画「ゴースト/ニューヨークの幻」のように。


だから、肉体を通して、五感を通して、「生きている」を味わうことが、
生きている意味なんじゃないか、酸いも甘いも、苦いも辛いも、すべてを。


すっかり長文になってしまいました。
課題のReadingに戻らなくちゃいけない。全然進んでいないから。


続きは、「波」を感じた時にでも。


ではまた。

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価値判断のセンサーを磨く

いよいよFall Semesterが始まった。今日は、2クラス連続、6時間の長丁場だった。


そのうちの一つが、Professiojnal Ethics & Law。
理由(わけ)あって、この秋、違うインストラクターで再履修することになった科目だ。


同じ科目を、別のインストラクターで学べる貴重な機会になった。


興味深かったのは、二人のインストラクションスタイルは勿論、使用する教材も違う、
科目の捉え方も違う、何を重要と考えるかも違う、すべてがまったく違うということだ。


日本であるように、提供するサービスの同じクオリティを担保するために、
同じ教材を使い、共通のベースとなるマニュアルがあって…、というのでは一切ない。


自分のスタイルで、自分の切り口で、自分の哲学を持って教えるんだなと思った。


ちなみに、今日のクラスでインストラクターが何度も口にしていたのは、
このクラスの目的は、「自身の持つ価値判断のセンサーを鋭敏にすること」。


インストラクター曰く、


結局、法律に書かれていることが完璧に明確ならば、弁護士はいらないと
いうことになる。だって、定められている通りに判断すればいいのだから。


でもそうではない。仲介者として、解釈してくれる人として、弁護士が必要になる。


つまり、物事を白黒はっきりさせるはずの法律は、実は、白と黒ではなく、
別の色、つまり、緑色だったり、橙色だったり…、まさに灰色に書かれていたり
するわけだ。


法律とは結局は“解釈”の世界なのだというスタンスに立つと、
最後の判断の拠り所は、本人の価値観になる。


だから、価値判断のセンサーを常に研ぎ澄ませておく必要がある、ということだった。


ところが、その価値判断が、思い込みだったり、独りよがりの主観だったり
してはいけない。我々は、自分の価値観について、その成り立ちについて、
深く知っておく必要がある。


自分が物事を判断する時に、そのような価値基準を使っているのか。


今日のクラスでは、人が多かれ少なかれ判断する際に使っている6つの基準が
提示された。


1.「経験」  自分はそれを見た、体験した。だからこう判断する。
2.「論理」  こうだからこう、ならばこう判断せざるを得ない。
3.「感情」  なんだか正しくない気がする。だからこう判断する。
4.「直感」  理由はないけど、この判断しかないと確信した。
5.「権威」  それは法に反する、○○がこう言っている、皆もそう、だからこう判断する。
6.「サイエンス」  それは証明されている。だからこう判断する。


絶対的な判断基準などは存在しない。


価値判断のセンサーを鋭敏にするとは、判断を下すときに、どれか一つの視点に
偏るのではなく、常にこの6つの視点をバランスよく意識すること、ということだった。


これは、人生全般に当てはまることかもしれない。


最後、インストラクターはこんな言葉を紹介した。
「セラピストの倫理とは、各人の自問する能力に依存している」


つまり、それは、


「待てよ、これは正しいのだろうか?」と自分に問う力だ。


他の職業に比べて、セラピストという職業には、
人の内面世界や、心の傷に触れることになる分、モラルコードがより厳格に適応される。


クライアントとの関係において、何が正しくて、何が正しくないかの判断は、
最終的には、その時々においてセラピストが意識的に自問していく努力に
かかっているということだった。


<付録>
あの人とは話しが合う、話しが合わない、というのも、
もしかしたら、使用している6つの価値基準の違いなのかもしれない。

インストラクターの言うように、

ある価値基準が他の価値基準より優れていることはない、ということなら、
自分の価値基準を知り、広げていくことで、もう少し他人に優しくなれるのかもしれない。


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「偶然の波」を意識する

CIISはプライべートスクールなので、アメリカ、とくにカリフォルニア州の
財政難にはさほど影響を受けていない。

でも、サンフランシスコ州立大学に通うルームメートが、今年の秋は、
去年の秋に比べて、全体のクラス数が400も減ったと言っていた。

大学と景気がリンクする。
必要なクラスが履修出来ないと、卒業に響いてくるから深刻だ。


今朝、僕がこのFall Semesterに履修予定だったChild Therapyのクラスが、
申込者の最低人数を下回ったため、開講が見送られたとメールが来た。
2ユニットのクラスだ。


さて…。


というわけで、早速、CIISの事務局に行って、残り4セメスターで何ユニット
履修する必要があるのか計算をしてもらった。


その結果、更に1ユニット減らすことにして、最終的に、この秋に履修するのは
4クラス10ユニットになった。少し気が楽になった。


うまく表現できないのだけど…、


最近、上手に「偶然の波」に乗りたいと思っている。


「偶然の波」というのは、これまたうまく説明できないのだけど、
例えば、今日、どこどこのレストランに行こうとする。すると、妙に信号にひっかかる。
実際に行ってみると休みだった。ああ…、もしかしたら、そのシグナルだったのかな、
みたいなやつだ。


アハハ、怪しい?すみません…。


でも、誰もがそれなりに、日々、偶然の波に洗われている。
ただ意識するかしないか、それだけの違いなんじゃないかと思うんだけど…、どうだろう。


小さな波に上手に乗っていくと、いずれ大きな波の来る場所に運んでもらえる。
僕はそんな風に自分に都合良く考えている。もちろん、確信しているわけじゃないけど、
そんな気がする。


今回、クラスがキャンセルされたことで僕は他のクラスを履修することも
出来たのだろうけど、それをしなかった。


僕にとって、その方向に偶然の波が来ているのだろうと思ったから。
より自然な方に、自分という船の舵を切ってみた。


ちなみに、これまでいろいろな歴史小説を読んでの僕のささやかな感想は、
「みんな、動くべきでない時に動いて失敗しているんだな」ということだ。


焦って、動く。焦ると人間は動かざるを得なくなるみたいだ。


動くべき時に動くことも大事だけど、動くべきでない時に動かないでいることも大事だ。


それを僕なりに表現すると、「偶然の波」をしっかり観る、感じるということだ。
そのためには、いつも自分の状態を客観的に見れる目を養っておかないといけない。


だって、人は、自分の恐れや衝動に、つい呑み込まれがちだから。


何とも大げさな例え話でした。失礼しました。


明日からFall Semesterが始まります。
積極的に自分を出していくことが、最低限の目標です。

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Fall Semesterが始まります

あと2日でFall Semesterが始まる。


アメリカの大学は秋入学がメインだから、たくさんの新しい顔がGreeterデスクの
前を通り過ぎる。彼らの表情は、不安と期待が綯い交ぜになった高揚感に
溢れている。キラキラして、とても素敵だ。


僕は、と言うと…、


とても憂鬱だ。


どのぐらい憂鬱かというと、
昨日、CIISの瞑想室に瞑想をしに行ってしまったぐらいに憂鬱だ。


Fall Semesterは履修科目も多いし、プラクティカムサイトも
探し始めないといけないし…。


もちろん、目をつむったからと言って、何も解決するわけじゃない。


Greeterデスクに座っていて、目の前を、高エネルギーな新入生が
横切る度に、自分との秋に向けたエネルギーのギャップを感じる。


ふう。


英語は相変わらずいまいちだ。
リーディングをしていても、いま一つ意味が良くとれないセンテンスが多々ある。


自分が読み取れないセンテンスの傾向を把握しようと、Fall semesterが始まる前に、
前学長のMichael Kahnの書いた“Between Therapist and Client”と、
その邦訳書「セラピストとクライエント(誠信書房)」を読み較べている。


生徒からの評判も良い素晴らしい本だ。
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クライアントとの中立性を重んじるフロイトの精神分析の流れと、
クライアントとの温かい関係性を重んじるロジャースの共感の流れ。
それらを統合する存在として、ギルとコフートを位置づけ、
その新しい展開を探るという内容だ。


僕はこの本をCIISに来る前に日本で手に入れて、日本にいる時に一度、熟読していた。
こちらに来てから、夏休みの最中に、もう一度読んだ。
二度目に読んだとき、一度目に読んだ時には気づかなかった重要な部分に線を引いた。
CIISに来ていろいろ学んでいるから、読む視点も異なってきたのだろうと思った。


読書において、年齢や、時間の経過とともに興味の引かれる場所が異なる。
こういうことはよくあることだと思う。


でも、今、原書を読んでいて、また違う発見がある。
日本語で二回読んだ時には、気にも留めなかったところに線を引いている自分がいる。


へえ、と思う。


そういえば、去年、立命館大学から交換留学生でCIISに来ていた
Yukaがそんなことを言っていたのを思い出した。


英語と日本語、つまり、

言語によって、文章によって運ばれてくる意味の脳への届き方が
違ってくるのだろうか。


そう言えば、ポーランドからの移民で、在米20年になる博士課程の友だちが
こんなことを言っていた。

「外国語で学ぶとね、学んだことを母国語でうまく説明できないんだよ」


そういうものか…。


僕がいまCIISで学んでいる知識も、日本語では引き出せない箇所にある
脳の抽斗にしまわれているのかもしれない。


うーん…。


それにしても、憂鬱だ。

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僕はなぜ苛々したのだろう?

今日、CIISに来て初めてかもしれないけど、あるアメリカ人生徒にキレかけた。
彼女は別にクラスメートというわけでもなく、博士過程に長く在籍している中年女性で、
どこかのアシュラムに住んでいると言っていた。


僕がGreeterの仕事をしてから5回ぐらい会話を交わすようになっただけだ。


今日、休憩時間にパソコンを見ながらランチを食べていると、
隣に座って声をかけてきた。


「パソコンを観ながらご飯を食べるって、食べ物への感謝の気持ちが
無いってことじゃないかしら」


「そうだね、本来はいけないことだね。僕も日本では、農作物や
それを作ってくれた人に対する感謝を忘れちゃいけないって、教わったし。」


僕はパソコンを閉じた。
半ば冗談で始まった、何のことはない会話だったんだけど…。


「日本ではお米の中に7人の神様がいるって教わったんだ」


「そう、それは物事は大切にしないといけないってことね。
そう言えば、水の結晶が人の気持ちを反映するって、日本人の講演を
聞いたことがあるけど、知っている?」


「うん、知っているよ。僕は別に信じてもいないけど、とくに否定もしないよ」


「私はね、人は必ず物事に影響を与えているって事だと理解しているの。
人間は自分の与えた影響に責任をとらないといけないと思うのだけど。
環境とか、戦争とかね」


んんん?そっちの方向に話がいくのか???


その後の会話は、あっという間に、第二次世界大戦の話になり、
日本が韓国と中国にしたことに対して、個人として、いかに「Take responsibility」を
するかについて彼女は語り始めた。


僕は、ちょっと話題を和らげようと思って、


「ここ100年ぐらいのスパンで時間を切ると、第二次世界大戦が
クローズアップされるけど、1000年、2000年のスパンで区切ると、
中国、韓国、日本の間には他にもいろいろあったんだよね。」


と言うと、


「だからと言って、その責任からは逃れられないわ」


とまた戻る。


僕は、
「どうしてこの場で、それを話題したいの」と尋ねた。


彼女は、
「別に、話しの流れよ」と応えた。


「僕はそうは思わないんだけど。どんな話題をしても、みんなそっちに持って
いかれそうに感じるよ。あなたは、それについて僕に何か話したいことが
あるんじゃないの?」


いくつか雲行きの怪しいやりとりを重ねた後、


私は責任を取っている、と主張する彼女に尋ねてみた。


「ねえねえ、じゃあ例えば、あなたは長崎と広島に対してどういう責任を取っているの?」


「私はベンジャミンの講演会に人を誘っているわ。あなたにも先日、声をかけたでしょう」


ベンジャミン…、クレーム?そう言えば、チラシをもらったことがあった。


「僕は勉強不足でその人を知らないけど、その人の講演に誘うことが責任を
取っていることになるとは僕には思えないよ。それに、なんだか、あなたからは
宗教の勧誘にも似たものを感じるよ」


「ええ…、そうかもしれないわ」


会話は、一気に収束に向かった。


「いずれにしても、僕は不愉快だよ。もう戻らなくちゃいけない」


そう言って、僕は席を立った。


さて…、


そもそも僕は何に苛々したのだろう。
久しぶりのことでもあって、Greeterデスクに座りながら、ちょっと考えてみた。


この問題についてアメリカ人につべこべ言われたくないと思ったのか。
複雑な問題をシンプルにして、自分たちの論理で解決しようとする
“アメリカ的なもの”を感じて憤ったのか。

単に、僕自身がFall Semesterが始まる前で機嫌が良くなかったのか。
つまり、話しかけられるタイミングが悪かっただけなのか。

人道的に正しいと思われることに対しては本来は何か行動を起こすべき
なのだろうけど、そういう問題に蓋をしてやり過ごそうとしてる自分に
どこか欺瞞を感じたからか。

この話題に興味関心が薄い自分を恥ずかしく思ったのか。
それに対する僕の心理的防衛メカニズムが働いたのか。

彼女に宗教やカルトの勧誘のような匂いを感じたからか。
自分を絶対に正しいと思う人たちと話をする時に感じる
非寛容性に、僕の中の何かが刺激されたのか。

あるいは、彼女の責任を取っていると断言する独善性が鼻についたのか…。


そもそも、

国に起こった過去の出来事や、地球の問題に対して、
個人が責任をとるってどういうことなのだろう。


あるいは、

もしこれらの一つ一つが僕の苛々した原因だとしたら、それらはいったい僕のどこから
来ているのだろう。


ふーむ、

こう考えること自体、とってもCIIS的だ。


帰り際、彼女を図書館で見つけたので、一言お詫びをしておいた。


こちらの態度は…、

日本人的、か?


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システムと歯車

英語の勉強にと、去年、買っておいてずっと観ていないDVDがいくつかある。
学校が始まる前に観なくては、と思っていて、昨日、ようやくそのうちの二つを観た。


MATRIXシリーズ」と「DEAD POET SOCIETY(今を生きる)」だ。
撮られた時代も違うし、まったく関係がなさそうな二つ。
でも、連続で見てみると、僕の中では共通点があって、それが興味深かった。


コンピュータによってプログラムされた仮想空間で、
自分もプログラムされた存在であることを知らずに生きている人々。

社会に有為な人材を輩出するために、大人がプログラミングする、
学校というシステムで生きる若者たち。


二つに共通しているのは、
知らないうちに“何か”にプログラミングされた生き方をしている大多数と、
ある触媒によって、そのことに気づいた一握りの人たちだ。


自分がプログラミングされた歯車であったことを知り、
それまで知らなかったものの見方や生き方を手に入れることによって、
一つの映画では救世主が誕生し、最後は消えた。もう一つの映画では、
一人は自らの手で命を絶り、二人がそのシステムを去った。


どちらも、とても良い映画なのだけど、その後、残された人たちがどうなったのか、
どういう生き方をしたのかはわからない…。


人は、何かの歯車となることから、真に自由であることは可能なのだろうか。
そんなことを考えた。


企業で働くことだけを「歯車」と例えるのではなく、
そもそも人間社会の中で何かを営むこと自体が、社会と接点を持つこと自体が、
そのシステムの一部としての何らかの歯車となることを意味するんじゃないだろうか。


歯車という言葉に内包されている意味はネガティブかもしれないけど、
社会に貢献したい、何かの役に立ちたちたいというのは、
何らかの形で社会の歯車となって、それを前進させることに参画したい、
役立つ歯車として認められたいということと同義だと思うのだけど。


だから、夢を持ちなさい、ビジョンを持ちなさいと言われるけど、それらを社会や
組織との関係の中で描く以上、結局の落とし所は、なるべく大きな歯車になりなさい、
あなたらしい歯車になりなさい、自分が心からなりたいと思う歯車になりなさい、
ということになってしまうのかもしれない。


ちなみに、


この社会に、自発的に、あるいは自らのペースで回っている歯車なんてあるのだろうか。


大きな歯車になればゆっくり回るし、小さな歯車だと忙しく回る。
でも、それぞれの回転スピードは、全体によって決められてしまう。


大統領や首相、CEOや起業家、あるいは、教祖になれば、
歯車ではなく、それを回す側になれるのかというと、おそらくそんなことはない。
どこに行ったってシステムの中で生きていかなくちゃいけない。


サンフランシスコに住んでいると、浮浪者だって、システムの中で
生きているんだなって感じるし。


社会と接点を持つ以上、歯車になることは避けられない。


で、思う。


コーチング、特にビジネスコーチングやエグゼクティブコーチングとは、
人々がシステムの中で、より上手く、効果的に、より重要な位置で
回っていける歯車となることを支援する仕事であり、


セラピーとは、それらのシステムから溢れてしまった、
あるいは適応が困難になってしまった人を、再びシステムの中で、
歯車として回っていけるように支援する仕事なのかもしれない。


そういう視点で見ると、どっちもいまひとつ救いのない仕事に思える…。


だから、見方を変えてみる。


コーチング、特にエグゼクティブコーチングとは、
人間にとってより良いシステムを創造しようとする人々、それを担おうとする人々、
それにより良い影響を与えたいと思う人びとを支援する仕事であり、


セラピーとは、システムからの影響を離れて、人々が本当の自分を見つけるための
支援をする仕事である。


両方を目指せるといい感じだ。
そうすれば、長い目で見て、歯車の背後にあるシステムを変えていく
きっかけにはなるかもしれない。


<付録>
世の中には、全てを知りながら自らの意思で歯車であることを選んだ人、
歯車であることを受け入れた人、選択肢がない状態にも関わらず
自らの意思の力でそうであると決定しなおした人はいるかもしれない。
それは人間の持つ究極の“自由意思”のなせる業だ。
それについては、また別の機会に考えてみたい。

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言霊と脳シナプスとカウンセリングサイコロジー

僕の中で、いま一つしっくりきていないことがある。


日本で、“偉い人”の本だったり、いろいろな自己啓発の本を読むと、
ネガティブなことは口に出さないのが大事で、その代りに、ありがとう、とか、
感謝の気持ちとか、良い言葉を発する習慣を持つことが、良い運を呼び込む、
良い巡り合わせをつくる、とある。どの本もまるで判で押したように。


ポジティブシンキングの薦めも、そんなところだろう。
事実は一つ。でも、それをどうどう解釈するかは人それぞれ。
物事のプラスの面にフォーカスする思考習慣を身につけることで
人生を好転させていくというものだ。


あるいは、言霊もそうかもしれない。
口から発した言葉には力が宿るという古来の考え方だ。
だから、ネガティブなこと、不吉なことを発すると、それが現実に反映されてしまう。
逆もまた然りということだろうと思うけど。だから、発する言葉には
気をつけなさいというものだ。


以前、脳科学のこんな話を聞いた。

ネガティブな思考は、脳内でネガティブなシナプスの繋がり方を促進する。
だから、ネガティブな思考を繰り返すたびに、そのシナプスは太くなる。
それはまるで、車の通行量が増えるにつれて、名もなき道が、市道に、
県道に、国道に、そして高速道路となるように、時を経るに連れて道路は
どんどん整備され、どんどん大きくなっていく。
やがて、あなたの思考は意識せずともいつもその道路を選んで通るようになる。
ネガティブ思考が習慣になる。


ところが、だ。


カウンセリングサイコロジーの世界では、ネガティブな思考・感情は抑圧せずに、
どんどん話しなさいという立場をとる。


それによって、抑圧することに使われるエネルギーを解放する。
同時に、その何かを無意識から意識に上らせることで、それを意識の
コントロール下に置き、その影響から自由になりましょう、と説く。


でも、例えカウンセリングルームの中であったとしても、
ネガティブなことを話していたら、言霊が宿るんじゃないか。
脳のシナプスがその方向に太くなるんじゃないか。
ネガティブなオーラを纏うことになるんじゃないか。


クラスで、レポートで、何か心の葛藤を、ネガティブなことを話せ書けと言われる度に、
僕にはそんな葛藤が頭をよぎるのだけど…、どうだろう。
別に、信心深いタイプでもないんだけど。


もちろん、だからと言って、ネガティブな想いを抱え込んで、
誰も聴いてくれない、理解してくれない辛さは僕にだって分かる、と思う。


これらの二つの考え方の接点はどこにあるのだろう、というのが
興味あることなのだ。


いや、ちょっと考えてみると、人は同じエネルギーを持つ人に惹かれあう。
ポジティブな前向きエネルギーを持つ人の周りには、そういう人たちが集う。
いつもネガティブな後向きエネルギーを発している人の周りには、そういう人が集まる。
周囲に集まる人たちのエネルギーの質があなたの人生の質を決める。
だから、あなたの周囲に集まるエネルギーをコントロールするために、
前向きな発言をしましょう、ポジティブに振舞いましょう、それを習慣にしましょう、
ということになるのだろうか。


そして、人というものが本来、それほど強くない生きものとすれば、
自分が決めた人に対してだけは、つまり、気の置けない仲間、よき理解者、
パートナー、あるいは神様の前、時にカウンセラーなどに対してネガティブなことを
話すぐらいは“必要悪”として認めましょう。あなたの心の健全さを保つために。
そんなところに落ち着くのだろうか。


いま一つしっくりきていないけど。

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トランパーソナルサイコセラピー

この秋から始まるセメスターで履修する予定のクラスの一つだ。


統合的なアプローチを謳うCIISだが、同時に、ここはトランスパーソナル
サイコロジーの拠点とも言われている。


実は、このことは以前から知っていたのだけど、僕自身、特に興味を
持っていたわけではなく、トランスパーソナルとは、何となく、ニューエイジで、
“Beyond”なイメージがあるぐらいだった。


おまけに、その拠点という割には、CIISのこれまで履修したクラスには、
あまりその趣を感じなかったし、あるクラスで、クラスメートが
「トランスパーソナルサイコセラピー」とは、いったいどういうアプローチなのか、
と質問をした時に、インストラクターもちょっと困った様子で、その回答も曖昧だった。


「セッションに、瞑想やヨガなど、東洋的なアプローチを採り入れた
アプローチで…」


???


単に、通常の西洋的なカウンセリングアプローチに、東洋のエクササイズを
寄せ集めただけなのだろうか。


であれば、さして興味が湧くはずもなく…。


いやいや、もちろんそれだけではなかろう。


こんな偏見のままクラスになだれ込むのもいま一つかなと思い、
予備知識を吸収するために、1冊、日本語で書かれた概説本を読んで見た。


というわけで、浅はかな僕の今のところの理解だと、


トランスパーソナルセラピーの理論的支柱となるトランスパーソナルサイコロジーでは、
人間の心の状態を、“病的”な状態から、“普通“の状態、個を確立した状態、
最後は、個を超えた一種の“悟り”の状態まで、一連の発展段階と捉える。


つまり、すべてがすべてというわけでもないけど、例えば精神の異常を、
人が各ステージに移る前段階に起こる“混乱”のようなもの、と捉える。


その世界観のもとに、セラピーをクライアントの「精神的成長を促す場」と捉え、
東洋的な精神修行のアプローチがセラピーセッションの中に採り入れていく。


どうも、そんな感じなのかもしれない。


もう一つ。


トランスパーソナルサイコセラピーのポイントは、他の多くの欧米カウンセリングと違って、
“個や自我の強化、再構築”にあるではなく、「“個”や“自我”を超えた状態を目指す旅路」
というスタンスにあるらしい。


それは、富も名誉もすべてを手に入れて、自己実現欲求を完璧に
満たしたように見えた人が、より高次の欲求に気づいて、
個を超えた精神世界に興味を向けたり、より大きな社会的使命に
注力していくこととも何か関係しているようだ。


悟りに至るまでの精神のステージを、西洋的なアプローチで段階的に
明確化し、それに沿ったアプローチを試みようとしている点が興味深い。


でも、この分野、まだ端緒についたばかりで、臨床的なデータも少なく、
まだまだ如何わしい印象があるのも事実。


さて、秋から始まるクラスはどういう感じなのだろう。

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セラピストとフィッシング

今週、終了したClinical Relationshipのクラスで感じたことがある。
今も考えているのだけど…。


セラピストとしてではなく、エグゼクティブコーチとしてセッションに臨むとき、
短時間で、クライアント自身にとっても混沌とした状態の中から何が問題なのかを
明らかにすることは、時間やお金といったリソースを有効活用する上で、
とても大切なことだった。


この感覚は、自分の中に深く身に付いている。


でも、セラピーでは、そのような思考方法やアプローチが
必ずしも正しいとは言えない。


先々週のClinical Relationshipのクラスで、3人組のロールプレイがあった。


僕がセラピスト役の時に、クライアント役になったのは、
ちょっと物憂げで、でも気の強い、考えをはっきりと表現する女性だった。
彼女はそのイメージのままにこんなことを僕に話した。


「この夏休み、彼の家族のところに遊びに行くところになっているのだけど、
そのことについて気分がすごく重いの。なぜかしら…。

確かに、彼の家族は、いろいろな所に行くのが好きなの。
でも私の家族は、一か所にじっくり滞在するのがスタイルだったから、
そういう違いもプレッシャーになっているのかもしれないわ…」

そして、しばらく沈黙があった。


それだけが理由に思えなかった僕は、彼女に尋ねてみた。


「彼のことについては、実際のところ、パートナーとしてどう思っているの?」


実は、この質問、タイミングが早過ぎたらしい。


彼女からは、


「どうしてその質問をするの?わからないわ。
それに、私が通っているセラピストは、そんな風に、問題を特定するような
尋ね方はしないわ!」


と、多少、色をなして言われた。


まあ、セッションは、普通に終わったのだけど、
はて…、そんなに気に障る質問だったのだろうか、多少気になっていた僕は、
クラスが終わってから彼女に個別に聞いてみた。


彼女曰く、


実は、自分の問題の本質はそこにある。それはわかっているのだけど、
今はそこに触れて欲しくない、触れられると心が痛むのだ、ということだった。


もし、“解決する”、というアプローチ方法が正しいのであれば、問題を明確化して、
そこに焦点を当てて対策を考えればいい。でも、もしそれが適切でないのだとしたら…、
解決せずにその問題を扱うとは、いったいどういうことなのだろうか。


心の問題は、僕が思っていた以上に複雑で、深い。


別の信頼できるクラスメートに、そういうクライアントの気持ちが理解できるか
尋ねてみた。


彼女は、かつて食事が喉を一切通らなくなってしまった時の体験を語ってくれた。

セラピストから、あなたは拒食症なのと診断されるのがすごく嫌だった。
私にそう言ったセラピストのところには、二度と行かなかった。

食べないということは、自分をゆっくりとした自殺に追いやっているのよ。
あなたを思う家族の気持ちを考えてごらんなさい。
友だちがどれだけ心配しているか…、想像できる?

こういうセラピストからの投げかけが、どれだけ私を傷つけたか。
私は馬鹿じゃない、言われなくたってそんなこと自分が一番分かっている。
分かっているのに食べれないから苦しいの。

それを克服して何年も経つ今でさえも、そう振り返りながら話す彼女に、
ちょっと辛そうに見える瞬間があった。


わかっているのだけど、触れられると本当に苦しい、心に激痛が走る、
そういう何か…。


「TJにはそういう感覚が薄そうよね。たぶん、私が話したことも、本当の意味では
理解できてないんじゃないかしら。でも…、今、理解できなくてもいいわ。
TJが素晴らしいセラピストの資質に恵まれていることは疑いないから。
焦る必要ないわ」


そうフォローされた。


そんな一連の出来事を振り返りながら、今日、Clinical Relationshipの課題図書であり、
CIISの前学長が書いた「セラピストとクライエント」(誠信書房)という本をパラパラと
めくっていたら、こんな記述を見つけた。

セラピストとは、非常に弱い釣り糸で、クライアントの悩みという
大きな魚を釣ろうとしてる釣り人のようなものなのだ。

リールを急いで巻けば、糸は切れて魚を逃がしてしまうであろうし、
リールを巻かなければ、釣り上げることはできない。

セラピストには、釣針にかかったものが何であるかを注意深く感じながら、
少しそのままにしておく、そんな姿勢も、時にとても大事であると。


ふむ…、釣りと一緒か。


そう言えば、僕にとって釣り師といえば、作家の開高 健だ。
名前が閃いたついでに、彼の作品をちょっと読んでみるか。
何かつかめるかもしれない。


そうそう、日本はお盆ですね。
休暇を取られる方、素敵な夏休みをお過ごしくださいませ。

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強さで繋がるのか、弱さで繋がるのか

強さで繋がるのか、弱さで繋がるのか。


最近、海外で学ぶ日本人に興味が湧いて、たくさんある「MBAブログ」を
ちらほら眺めている。


私はこの有名教授のもとでこの知識を、このスキームを学んでいる。
こういうクラスを取って、こういうプレゼンがあって、こう分析をして、こういう評価を得た。
こういう著名な人が講演に来た。こういう成功者たちと食事を共にした。
こういう素晴らしい仲間と知り合えた。こういうすごい仲間と切磋琢磨した。
これらを踏まえ、世界は、日本は、企業は、ビジネスは、未来に向けて
こう変わって行くべきだろうと考えた。


だいたいそういうタッチで描かれている。


そこには選ばれた強者のみが住む、可能性に溢れるきらびやかな別世界が
広がっている…。充実感にあふれる彼らのブログから、そんなメッセージが伝わってくる。


それにしても、改めて思うのは、ハーバードやMIT、スタンフォードなどの大学には、
本当に“一流”の経歴を持つ人たちが、スピーカーとして、アメリカ国内はもとより、
世界中から招かれるんだなと言うこと。


ちなみに、ここでいう“一流”とは、有名であるとか、成功しているとか、
そういう意味の総称だけど。


強い人は、より強い人たちとのアライアンスを求める。
それは弱肉強食のビジネスの常識かもしれない。だから、強い人は、強い教授が
教壇に立ち、強い生徒が集まり、強いリソースの活用と、強いネットワーク形成が
期待できる強い大学のMBAコースを目指す。


そこは、強さが強さで繋がるパワースポットだ。


一方で…、


僕がいま学んでいるカンセリングサイコロジーは、それとはまったく違う。


語弊を恐れずに言えば、そこには“弱い人たち”が集まっているように思う。


そして、ここでは「弱さ」で人が繋がるのだ。


その「弱さ」とは、別にネガティブな意味ではなくて、
人間とはそういうものだという人間観だ。


MBAの視点と、カウンセリングサイコロジーの視点では、
もしかしたら、基盤としている人間観が180度違うのかもしれない、と思う。


だから…、


この2つは実社会で交わりにくい。
使う言葉が違う、価値観が違う、人間観も、世界観も違うのだから。


でも、人間はそもそも弱い生き物ではなかったか。
だからこそ、ある人は自分の弱さを補う、隠す、あるいはより優れているように
見せるために知識とパワーとネットワークで武装する。そういう努力を重ねるのだ。


そうして、出来上がる強者としての自分、エリートとしての自分。


それで人生を最後まで走りきる人もいるのかもしれない。
でも、ふとどこかで立ち止まる人もいるかもしれない。


その時に、どこからともなく浮かんでくる疑問。


今の自分は、本当の自分なのだろうか…。


もちろん、そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。
それは本人の奥深いところでしかわからない。


異なる人間観の上に成り立つ「ビジネス」と「カウンセリングサイコロジー」。
この二つの世界を橋渡しする。


僕が興味を持っていることの一つだ。

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自分の感情をどう扱うのか

「TJの人生はいつもFine!Wonderful!という感じがして、一緒にいると、
ネガティブな感情を現わしてはいけないような気がしてしまうの。
時々、苦しくなるわ」


と、昨日、アメリカ人のクラスメートから言われた。


実は、以前、似たようなことを別のクラスメートからも言われたことがある。


僕としては、人生それなりにいろいろありながら、前に進もうとしているのだが…、
そう見えるんだ、と思った。


僕のこれまでの人生の価値観だと、それは感情をコントロールしていることで、
「えらい!」となるし、これからの人生において、セラピストとしての資質として考えると、
「まずい!」ということになる。


実は、ここアメリカで2名ぐらいからそういうフィードバックをもらったぐらいなら、
まあ、文化の違いもあるんだろう、で済ませていたかもしれないけど、
ちょっと考えたのは、僕は日本でも大切な人たちからそう言われたことがあるから。


僕は会議や飲み会のディスカッションで熱く感情的になることはあっても、
プライバシーではネガティブさや弱みを見せたりすることはほとんど無かった。


マネジメントをする時も、他人のせいにする前に、まず先に、自分の責任として
考えてみよう、自責で捉えてみようということを常に基本方針に据えていた。


互いがまずその姿勢を持とう、そして、そこから互いにどう助け合えるか話し合おう、
というスタンスだったのだけど、人によっては、一切弱音も愚痴も吐けない
カルチャーに映ったかもしれない。


では、セラピストとして、そうだと何がまずいのかというと…、


僕が自分の感情を抑圧しているとすると、クライアントに対して、
「ここでは感情を現わしてはいけない、私の前では感情的になってはいけない、
それは控えるべきことだ」というメッセージが、有形無形に伝わってしまうから。


すると、クライアントは、自分の素直な感情を探求、あるいは表現できなくなってしまう。
僕のクラスメートのように。


あるいは、もし、セラピストが自分の何かの感情に触れることを恐れているのだとすると、
それは、投影や逆転移の形でクライアントに反映され、セッションに良い影響を
及ぼさないだろう。


表層的で上滑り的なポジティブシンキングもどうかと思うが、
ネガティブな感情を押さえ込んでしまうのも考えものだ…。


自分の中にある複雑で深い、時にネガティブな感情をどう扱うのか。
特に、自分自身と、身近な人たちに対しての。


やっぱり…、


セラピー?

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悩みの種類とセラピー

クラスメートからの聞いた、NY発の情報らしいけど、
この経済不況の中、セラピーは活況なのだそうだ。


特に金融不況で、レイオフされた人たちがセラピーを求め、予約が
採りにくい状況が続いているのだと。


こちらで知り合った日本人に、カウンセリングサイコロジーを学んでいます、
と話すと、


「あら、いいわね。でも、私はそういうのはみんな友だちに話して解決するから、
セラピーいらずよ」

「いやあ、話して何も解決するわけじゃないしね。失業してお金がなくて
困っているのに、セラピーに行くとまたお金を取られるんだから」

といった反応が返ってくることがある。


実は、僕も多かれ少なかれ、そう思っているから、そう言われても何の違和感も
ないのだが…、最近は、もうちょっと複雑かな、なんて考えている。


それは、「悩み」にもいろいろな種類があるということだ。


心のInside(内面)から生じる悩みなのか、Outside(環境)から生じる悩みなのか。


内面から生じる悩みとは、

自分とは何者なのか、どうすれば自分であれるのか、
死の恐怖や孤独の恐怖からどうしたら逃れられるのか、人生とは何か、
なぜ生きるのか、人はどこから来てどこに向かうのか、自分の使命は何か、
幸せとは何か、満たされないのはなぜか、自分がこういう状況にいる意味は何か…。
あるいは、過去のトラウマとか心の傷とか、カウンセリングサイコロジー的に
書きだせばキリがないけど、いろいろだ。


自分の外、あるいは環境から生じる悩みとは、

人間関係、家族や仕事、コミュニケーション、パワー、お金やSEXなどだ。


もちろん、本人の内面に抱える問題が原因となって、環境に影響が出ているとか、
環境が原因となって、本人の内面に問題が生じているとか、因果関係は曖昧だ。


そして、それらへの“回答”を、自分の内面に探求していくのか、
外部にアドバイスを求めるのか。


あるいは、“回答”自体はなくても、
同じ思いを抱える人たちと共有することで癒されるのか、それとも、
外部に発散させて解消するのか。


明確な“回答”がある方がいいのかもしれないけど、
内面の問題に明確な答えなどないのだと思う。


いや、新興宗教だったり、カルトだったり、評判のグルや占い師は、
「答えは、ある!」と思わせてくれるのかもしれない。


人間は安心したい生き物だ。おそらくそれは本能だ。
安心するために「答え」が欲しい。だから、疑問を疑問として内面に抱え続けるには
勇気がいる。


人生の問題と自力で向き合うことを恐れ、答えを与え続けてくれそうな誰かや、
そのアドバイスにすがりたくなる気持ちもわからないでもない。


そうではなくて、クライアントが自らの回答を、自ら見つけることができるように、
一緒に心の深層を旅してくれる連れ合いが、セラピストなのだろう。


もちろん、世の中の問題には、グループで盛り上がって発散させたり、
信頼できる友人に共感をしてもらったり、外部から知恵を借りたりすることで、
「解決」するものもある。


でも、その方法が適さない、あるいは充分ではない問題もあるのだ。


いや…、


一度、立ち止まって自問してみるのもいいかもしれない。


そもそも問題って何だろう?
なぜその問題は生じているのだろう?
問題は「解決」するものばかりなのだろうか?
だとすると、「解決」するっていったどういうことなのだろう?
では、解決しない(かもしれない)問題にはどう向き合えばいいのだろう?


おそらく、これらの質問の隙間に、セラピーのような何かが介在するスペースが
あるんじゃないだろうか。


で、最後に再び話を戻す。


あなたの外部に明らかな問題がある場合には、それを解決するのがいい。
合理的な、時には政治的なアプローチで僕たちは対処してきたのだ。
そして、多くの場合、何らかのサイエンスに裏付けられた明確な回答が欲しくて、
僕たちはプロフェッショナルの知恵を借りるのだ。


では、内面の問題に関しては、どう対処すればいいのだろうか?
あるいは、あなたの抱える外部の問題が、あなたの内面に起因しているのだとしたら?


それに対する回答は…、


セラピー?


僕にもわからない。

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セラピーのイメージ

今日は、この夏セメスターに履修した、Clinical Relationshipの最後のクラスだった。


リーディングアサインの他に、ひとつの課題が出されていた。


それは、


「あなたにとって、セラピーとはどういうイメージか。それを表現する何かを
持ってくること」


というものだった。


クラスの最後の1時間がそのプレゼンだった。


ある生徒は、大きな布を2枚使った舞を披露した。
彼は舞いながら言った。
一方の布はセラピスト、一方の布はクライアント。
両者の協働は、時にうまくいくし、時に失敗する。でも、お互いの
協力によるハーモニーが全体のとしての深いセッションを作り出すのだ、と。


ある生徒は、自分が6歳の時のセピア色の写真を持ってきた。
奇麗な額に入れられた写真の中で、彼女は笑っていた。
そして、こう言った。
人の記憶とは、この額縁のようなもの。事実は一枚でも、
記憶の中で奇麗に彩られたり、惨めに貶められたりもする。


別の生徒は、小さな仏像を二つ持ってきた。
どちらの仏像も笑っている。セラピーとは、
セラピストとクライアントという二人のブッダが作り出す空間なのだ、
と彼女は言った。


ある生徒は、ポケットティッシュを持ってきた。
じっくりと自分の気持ちを探求する場を与えてくれるのがセラピー。
私にとって、人前で安心して泣くことができるんだという体験を
させてくれたのが今のセラピストだったの、と体験談を語ってくれた。


ある生徒は玉ねぎを持ってきた。
いくら向いても芯が出てこない。でもいくらでも、どんどん剥ける。
そして、涙が止まらない。それがセラピーだと。
なかなか頓知が効いていた。


The Beatlesの“Tell Me Waht You See”の歌詞を持ってきた生徒もいた。
ワンフレーズずつ、全員で読み上げた。


もちろん、僕も何か持っていかないといけない。


というわけで、ディズニーのマジックノートを持って行った。
一見、普通のノートなのだが、それを開くと、ディズニーの絵がたくさん出てくる。
いったん閉じてまた開くと、それらの絵が一瞬で消えてしまうというノートだ。


クライアントのたくさんのファンタジーをニュートラルな白紙の状態に戻し、
その状態から現実を眺めることができるようにサポートをすること。


そういう趣旨の話をしようと思ったのだが、いったん口を開くと、
別のことを話していた。


CIISに来る前は、僕はクライアントの心に、一瞬で変化を起こすことのできる
マジックを身につけたいと思ってきた。


しかし、今は、別のことを思う。


そんなマジックはどこにもない。
カウンセリングサイコロジーはマジックではないし、
セラピストは心のマジシャンではない。


僕がこのクラスで学んだ大切なことは、


クライアントがどう振舞おうと、
Nondefensive Curiosityを持ってその場に一緒にいること。
クライアントが、ありのままの自分でいることの価値を実感できるように…。


20人の生徒全員のショートプレゼンが終わった時、教室全体が温かい気持ちで
満ちていた。


さあ、これでおしまいね、とインストラクターのLindaが合掌すると、
珍しく、生徒から拍手が起こった。


とても良いクラスだった。


秋のセメスターがすぐに始まる。

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僕が“恐れている”こと

夏のセメスターもいよいよ終わりに近づいている。


先週のClinical Relationshipのクラスで、“Working with Countertransference”と
書かれた一枚の紙が配られた。


それは、自分のCountertransference(逆転移)について考えるための
用紙だったのだけど、6つある質問項目の一つに、こういうのがあった。


Describe one of your most significant struggles as a therapist.
あなたが、セラピストとしてもっとも悩んでいることを一つ書きなさい。


僕は、“Judgement”とだけ書いた。


それは、自分がセラピストとして「無能」だと、クライアントからJudgeされるのが怖い、
という意味だった。


その紙を使って、2人組のdyadを行った時に、気がついたことがあった。


(そうか、逆か…。僕はJudgeされるのが嫌で、Judgeしているんだ…)


自分がJudgeされるのが怖いから、それよりも早く相手をJudgeしようとする。


クライアントを、なぜそんなどうでもいいことで悩んでいるんだろう、とJudgeする。
クラスメートを、Spiritualityを現実逃避の方便に使っているんじゃないか、とJudgeする。
ESLの若者を、もっと日本でいろいろ学ぶべきことがあったんじゃないか、とJudgeする。
人生に不満を持つ人を、その前に自分で出来る努力があるんじゃないか、とJudgeする。


もちろん、表面には出さないけど、僕は確実に相手をJudgeをしている。


その結果、何が起こるのかというと…、


僕は、彼らに対して扉を“閉じる”。自分を守るために。


“閉じる”と僕はその方向には行けないから、僕の世界はだんだん狭くなる。


ある日、思う。最近、何でこんなに息苦しいんだろう…。


そして、僕は、自分が閉めた扉にぐるりと囲まれている自分に気づく。


自分がJudgeをされたくないために、それよりも早いスピードで他人をJudgeする。
いつも自分の中では、相手のJudgementとの競争だ。
バタン、バタン、バタン…、扉をすごいスピードで閉めまくる。


だから、自分に必要な人とは出会えるように、いかにそのJudgementの精度を上げるか、
そんなことに全力を尽くしてきたのが僕の人生だったかもしれない。


で、これまでの人生ではかなりの成功を収めてきたようにも思うし、
これからの人生では大きな壁になるのかもしれない。


セラピスト役の相手から、こう言われた。


「それを話している時のTJからは、寂しさが伝わってきたわ…」


そっか…。


自分が最もされたくないことを、自分を守るために、先に相手にする。


Working with Countertransferance。


なかなか発見のあるワークだった。


【付録】
似た言葉に“Label”がある。日本語だとレッテルを張る、という意味だ。
レッテルは、自由に張り替えられるイメージがあって、僕は別に張られても、
張るのも気にしないんだけど…。

張られた本人が自分で貼り替えればいい、そんな感覚があるのかもしれない。

それに比べて、Judgeはなぜこんなに気になるんだろう。似たような意味なのに…。
閉められた扉は、相手からしか開けてもらえないというイメージがあるからだろうか。

言葉に乗せているイメージの違いは面白い。

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指揮者のスタイルに学ぶ“至高のリーダーシップ”

僕は以前から、マネジメントにおける「場」というコンセプトに、大いに関心を持っていた。


なぜなら、優れた企業には、かならず「場」があるから。
人が育つ「場」、創造性が生み出される「場」、社員がモチベートされる「場」、
異質が織り交ぜられる「場」、場自体がどんどん成長していく「場」…。


どうやったらそういう「場」を創造できるのだろう。
そのためには、どういうリーダーシップが必要なのだろう。
カウンセリングサイコロジーの知識はどう活かせるのだろう。


昨日、ハンブルグに住むドイツ人の友だちサーシャが、
「TJが興味を持つだろうと思って…」と、あるShort Movieを送ってくれた。


今年、ヨーロッパで行われたカンファレンスでの、オーケストラの指揮者に学ぶ
リーダーシップについての講演だった。


スピーカーは、イスラエルの著名な指揮者らしい。
とても示唆に富む内容だった。


彼は、このShort Movieの中で4名の指揮者のスタイルを比較しながら、
理想のリーダーシップについて語った。


その中の一人の指揮者から彼が導いた理想のスタイルは、メンバーに対して、
“創造的な「解釈」のスペースを提供するリーダーシップ”だ。


そう…、解釈、だ。


何をどう「解釈」するのか。
市場を、自社のサービスを、競合を、ポジションを、自分の仕事内容を、
チームワークを、プロフェッショナルの意味を、どう解釈するのか。


自由な解釈にこそ、創造の源がある。


メンバーにこれらの「解釈」の余地を与えないリーダーは、独裁者にすぎない。
そこにはメンバーの成長も生まれない。


もちろん、リーダーには独自の「解釈」があるだろう。
必要なものについては、互いの「解釈」をキャッチボールするすることで、
共通の意味理解に昇華させていく。それは当然、時間のかかる作業だ。
でも必要なのだ。


個々の「解釈」と、共通の「解釈」との間に引き起こされるダイナミズム。
リーダーによるこれらの差配が、「場」を創造するのだろう。


そして、その結果導かれるのは、意図したことが、言葉ではなく「場」で伝わる
リーダーシップだ。


彼は、彼の理想とするリーダーシップの対極として、 2つのスタイルを紹介している。
やはり両名とも著名な指揮者だ。


一人のスタイルはこうだ。

自分のこの曲への「解釈」は完璧だ。コミットも最大だ。結果も出す。
しかし、メンバーに解釈のスペースを一切与えない。

彼はそのスタイルのために、オーケストラ団員全員による署名によって解雇された。
彼が団員から突き付けられたメッセージは、こういうものだ。

我々は、あなたの“道具”ではない。
我々は、あなたを優れた指揮者として認めるものの、あなたのもとでは、
演奏家として、アーティストとしての成長は望めない。それは長い目で見れば、
我々だけでなく、この楽団の未来にとっても悪影響を及ぼすことだろう…。


もう一人は、年配の指揮者。
自らが作曲者であるにも関わらず、その楽譜を見ながら指揮をしている。
その意図は、団員に伝わっている。

それは…、

私の書いた楽譜通りに演奏しなさい、あなた方の解釈は一切必要ない。
そう言うメッセージが、そのしぐさから飛んでいる。

これは、また違ったコントロールの形だ。


では、彼の考える至高のリーダーシップとはどういうものなのだろうか。


このShort Movieの最後、
とにかく見てほしいと、彼はバーンスタインの、あるクリップを紹介する。


「Doing by not doing」によるリーダーシップ。
彼はそれを、指揮の次元を超えた何か、と表現していた。


顔の表情だけで指揮をするバーンスタイン、ぜひご覧ください。

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岩魚と鮒と鰻と、セラピスト。

CIISでしばしば思うことがある。
アメリカ人にとって、“Integrity”とは本当に大事な価値観なのだなあと。


それは、自分に誠実であること。正直であること。ウソをつかないこと。


クラスでもよくこんな発言が出る。


「それは私のIntegrityに反するわ」


例えば、クライアントが、ゲイであること、不倫をしていること、
親に不満を抱えている等などで葛藤を抱えているとする。


極論に聞こえるかもしれないけど、クラスのロールプレイでも、
図書館のセラピーセッションのビデオでも、セラピードラマ“in TREATMENT”でも、
自分の心理的葛藤は、すべて、その葛藤を感じている相手に正直に伝えるべきだ、
というのが、アメリカのセラピーの基本路線になっているような気がする。


すべては、あなたらしさ、あなたのInteglityを回復するために…。


だからセラピストはよく尋ねる。


「その気持ちは、相手に伝えましたか?」
「なぜ伝えないのですか?」


そこから深く入っていって…、結局は、上記の結論のようになる。


確かに、何でも話してしまった方が楽だ。本人は。


でも…、


その投げられたボールは、全部、相手が受け取ることになる。
その受け手の気持ちや、言った後の関係性については、
あまり考慮しないのが、アメリカ流らしい。


その結果、ボールの投げ手と受け手の間で、お互いのIntegrityをかけた
侃々諤々の議論が始まる。


日本で言うとそれは修羅場であり、避けるべきもので、議論を避け、
丸く収めるのが良いとされるのだが、こちらではそれはない。
そもそも、この発想自体が、人間関係重視の日本的発想で、Integrityのかけらもない。


その議論は、二人の間でうまく落ち着く場合もあるし、破綻して弁護士が登場する
場合もあるし、セラピストが舞台を変えて再度サポートする場合もある。


一度、クラスで関係性も大事なんだし、何でも言えばいいってもんじゃないんじゃないか、
と言ったら、


「ならば、ずっと葛藤を抱えたまま生きるのがいいのか?」
「ウソの関係を続けた方がいいと思うの?」


という返答がたくさん返ってきた。


確かに、「べき論」だと、ごもっとも、と言うしかないけど、
何だかピュアすぎやしないだろうか。


日本では、「清濁併せ呑む」とか「この秘密は墓場まで」とか…、
人生の矛盾を自分の中でどれだけHoldingできるかが、
人としての器量を表しているような気もするのだけど。


そもそも人間なんて矛盾だらけの生きものではなかったか。


「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」


さしずめ僕は、ここアメリカで、清流の中にしか住めない岩魚(イワナ)の群れに
迷い込んだ、田んぼ育ちの鮒(フナ)なのかもしれない、なんて思った。


清流にも、沼にも、海にも住める鰻(うなぎ)でありたい。


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人生の問題と、ビジネスの問題

セラピーに週一度来る。そこでは、必ずしも答えがすぐに出る問題を扱うわけではない。
だから、今日、ある話題を話す。時間がくれば、いったん終えて、
また来週にその話題を話す。


それが、続くのがセラピー。


その問題は、いつ解決するのかはわからない。解決しないのかもしれない。
人生の奥深いところの問題になればなるほど、その傾向は強くなる。


そもそも、セラピーとは、そういう性質を持つ人生の問題を、
クライアントが心を軽くしながら向き合っていけるようにサポートをするサービス、
と言えるのかもしれない。


でも…、


ビジネスの世界では話は別だ。


解決すべき課題は常にある。次から次にやってくる。
すぐに使えるソリューションが必要になる。


当然のことながらビジネスの問題にはタイムリミットもある。
だから、時間の概念がとても重要になる。


人生の問題とビジネスの問題では、本来、時間のレンジが違う。


でも、こういう世の中だ。
時間は短く、コストは低く、結果はわかりやすく、客観的で目に見える方がいい。


そういうニーズに応えるために、短期の課題解決志向型セラピーが
注目されるようになる。


それは…、


人生の問題に10~12回のセッションで答えを出すセラピーだ。


でも、どうだろう。


人生の本質や、その人の存在そのものにかかわる問題に対して、期限を区切って
答えを導くなど、果たして可能なのだろうか。


もしそれが可能なら、どこかでクライアントをManipulateする必要が出てくるだろう。
新興宗教やカルトにも通じるものがあるかもしれない。


そして、それはクライアントのその後の人生のどこかに歪や依存を引き起こすのだろう。


ニーズに応えるサービスが、常に正しいとは限らない。


今日のClinical Relationshipで採り上げられたケースは、3年半の歳月をかけて
トラウマを回復して行ったクライアントの物語だった。


インストラクターのLinda曰く、


3年半は…、


彼女の経験と照らして、とても短いということだった。

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CIISとCBT(認知行動療法)

アメリカでは、さぞかしセラピーが認知されて、全米に広く行きわたっているのだろうと
思っていたが、実際にはそうでもない。


セラピーが盛んなのは、西海岸と東海岸。
それも、本当に盛んと言えるのは、それぞれの一部。そう、NYとSFだ。


アメリカ内陸部でのセラピーに対するイメージは、日本とそう大差ない。


その前提の上で、いまアメリカで主流と言われているのは、
Cognitive Behavior Therapy(CBT)だ。


短期間での成果を目指す目標達成志向の介入型アプローチ、と言われている。


なぜ「主流」なのかというと、「行動」にフォーカスするのでデータを集めやすい、
学術的にもいろいろ発表しやすいからだろうと思っている。


もう一つの主流は、Psychodynamic Psychotherapy。
こちらは、精神分析から展開してきた、クライアントの過去や深層意識に迫る
アプローチだ。


CIISはIntegral(統合)アプローチを目指しているから、
Psychodyanamicsはもちろん、Gestalt、Hakomi、Transpersonal、
あるいはGroup、Family、Couples、更にDramaやArtなどの芸術系や、
Somaticsの体(からだ)系のアプローチなど、先端と言われている
Therapyを学べるクラスがたくさんある。


でも…、主流のCBTがない。


これは僕の中での7不思議だったのだが、CBTのセッションビデオを観て、
ちょっと思った。


CBTは、目指しているものがCIIS的なものとはずいぶん違うのかもしれない、と。


CIIS的なものとは、語弊を恐れずに言えば、
深く、繋がる、越える、Feel…、そんな感じだ。


一方で、


CBT的なものとは、
早く、速く、何をどうする、Action…、そんな感じかもしれない。


どちらのアプローチも、ネガティブな見方をすれば、
前者は、ただ聞いているだけ。後者は、ただ詰めているだけ、という風になる。


ちなみに、CIISの生徒は全米から集まって来ているが、僕の周辺のクラスメートたちの
クライアント体験談として、「共感」が欠如しがちなCBTの評判はあまり宜しくない。


最近、僕はライブラリーで、いろいろなセオリーのセラピーセッションビデオを観ている。


そこで感じるのは、セラピストが、私はこの学派で、この理論、
このアプローチをする人と自らを規定することで、結局はそのセオリーや方法論を
クライアントに押し付ける結果になってしまっているんじゃないだろうか、ということだ。


万能なアプローチなんて存在しない中で、
セラピストが自分に張る「某分野の専門」というレッテルは、
セラピストの柔軟性を奪い、クライアントのためになっていないような気がした。


もう一つは、セッションビデオを見る限り、それぞれのアプローチに
目を見張るような大きな違いを感じないということ。
(でも、これは僕の見る目が無いだけかもしれない…)


それよりも、セラピストの個性の方が大きなインパクトを与えているように思う。


だから最近は、セラピストとして優れているとは、どれだけ先端の理論やアプローチに
習熟しているかということではなく、本人がどれだけ自分を深めているかで
決まってくるんじゃないか、そう感じている。

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「聴く」とは何か

アメリカ人は日本人に比べてあまり相槌を打たない。
そもそも、英語に「相槌」に相当する単語がないのだから、それは彼らの概念の外に
あるのかもしれない、ということを前々回のブログでちょっと書いた。


CIISのクラスで、日本での傾聴の研修によくあるような「聴き方のHow to」についての
レクチャーはいっさいない。つまり、姿勢や頷き、相槌、ペーシングなどの一般的な
「型」を教わることがない。


カウンセリングを学ぶ大学院なのに何でだろう…。
実は最初、それを不思議に思っていた。


でも、いまClinical Relationshipのクラスで学んでいて、ようやくその理由が
腑に落ちてきた。


そもそも、相手の話を「聴く」目的は何かというと…、


それは相手を「Understand(理解)する」ためだ。


(実は、僕はUnderstandの訳を「理解」と認識していた。「理(ことわり)で、あるいは、
理を解する」のだから、「頭で解する」というイメージを持っていた。
ところが、クラスで確認すると、Understandとは「情」つまり「心」で解することも
含んでいるとのことだった。だから、「理と情で解した状態」がUnderstandだ)


この大前提に加えて、考慮に入れなければならないのは、
ここアメリカは、個人主義と多様性の国ということだ。


だから、どういう聴き方をされたいのか、どういう聴き方が良いのか、
ということは、人それぞれ。


そもそも誰にでも受け入れられる最大公約数の聴き方や「型」が
あるはずだという発想自体が日本的なのかもしれない。


では、上記の二つを踏まえて、アメリカという多様な価値観を持つ人たちの
集まりの国で、「聴く」とはどういう行為を指すのかというと…、


それは頷くでも、相槌を打つでも、前傾姿勢でも、足を組まないこと、でもなく、
自分の相手に対する「理解」へのフィードバックを求める姿勢、そのプロセスそのものを
指すのだと思った。


「こういう理解で正しいか?」
「もし私の理解が違っていたら訂正をしてほしいが大丈夫か?」
「自分にはこういう風に感じたがどうか?」
「聴かれている感じがするか?」


結局、理解されていれば聞かれたことになるし、理解されていなければ聞かれたことに
ならない。だから自分が理解したことを伝えること、自分の理解が正しいかどうかを
確認すること。その「理解」への合意に向けてのプロセスが、ここアメリカでは
「聴く」という行為なのだ。


ずいぶん日本とはフォーカスするポイントが違うと思うし、
これは僕にとってなかなかの発見だった。


そういうこともあってかどうかはわからないけど、僕の勝手な印象だと、
こちらでは、日本人に比べて聴いている最中の「相槌」だけでなく、「頷き」だって少ない。
図書館でいくつものセラピーセッションのビデオを見ていてもそう思う。


その分、何が重要になるかというと…、


アイコンタクトだ。


じっと相手の目を見て話を聞くことが、集中力を切らさず、好奇心をもってあなたの話を
聞いていますよというサインになるのだ。


相手の目を見て聞いて、自分の相手に対する理解をその都度確認しよう。


<補足>
僕が日本人だからかもしれないけど、いちいち言葉を尽くして説明をして、
その結果理解してもらえたとしても、あまり「分かってもらえた感」が
持てないんじゃないかと思うのだけど…、どうだろう。

阿吽の呼吸じゃないけど、頭を通さずに、直接、心や腹でダイレクトに
通じることができたときが、より高度な本当の「理解」というような気も
するんだけど。

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セラピードラマ “in TREATMENT”

いまハマりつつあるDVD、それが“in TREATMENT”


セラピーとはそもそも個人的なワークだ。
現場で何が行われているのかベールに閉ざされている。第3者にはわからない。
その毎回のセラピーセッションがドラマになっている。


とても参考になる。



舞台は主人公であるセラピストの自宅兼オフィスだ。
第1週目の月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日。
それぞれの曜日に別々のクライアントが初回のセッションにやってくる。


第2週目の同じ曜日。それぞれの同じクライアントが第二回目のセッションにやってくる。
それが、第3週、第4週と続くドラマになっている。


多様なクライアント、扱うテーマ、セッション中に起こるハプニング、
セラピストの苦悩etc、すべてがリアルだ。


このシリーズは、現在履修しているClinical Relationshipのクラスでも教材に使われたし、
CIISのインストラクターにも大勢のファンがいるぐらいだ。


CIISのこれまでのクラスでも習った、クライアントの症状、セラピストとクライアントの関係、
セラピストとしてのモラルやプロフェッショナリズムなどに関するホットなトピックスが、
毎回のセッションにバランスよく織り交ぜられている。


日々、相変わらず英語で凹まされる事の多い僕は、
最近、第二外国語でセラピーセッションに臨むためには、
英語のセッションイメージを自分の中に明確に確立することが急務と感じていた。


何と言っても来年からプラクティカムも始まるのだし、待ったなしの状況なのだ。


その時、そもそも毎回のセッションがどのような雰囲気で進むのか、
英語でどのようなフレーズがライブに使われて、それがどのような声のトーンで、
どのような表情で、どのような間で話されているのかを、最大公約数のモデルとして、
分かりやすく理解する上で、この“in TREATMENT”は本当に勉強になっている。


1on1のセッションに関するイメージや将来のビジョンが、こう言ってはなんだが、
自分の中で初めてクリアになってきた感じがした。


CIISの生徒にもファンが多いこの番組、本当にお勧めです。


<付録>
日本で、コーチングトレーニングの講師をしているとき、相手の話を聞く時の
「相槌(あいづち)」の重要性についてレクチャーをしたように記憶している。

会話のリズムを作るために「聞き手」が「話し手」とその「場」のために果たす
大事な役割だ。

ところが…、 僕の勉強不足なだけかもしれないのだが、英語に「相槌」という単語が
見つからない。そもそも「槌を打つ」それに「合いの手を入れる」こと自体が、
日本的な文化・生活習慣を背景にした言葉だからなのかもしれないけど。

だから、僕のこれまでの勝手な印象なんだけど、アメリカ人は「相槌」がない。
それは言い過ぎかもしれないけど、“ah ha”に毛が生えたぐらいの
バリエーションしかない。そういう言葉がないんだから、きっと「相槌」なんて
意識の外にある概念なのかもしれない。

彼らは、それよりも、言葉を多用する。
「つまり、○○ということなのですね」「それは○○だったでしょうね」

この“in TREATMENT”でも同じように感じる。

もし、文化の違いから来ているのだとしたら、なんだか面白い。

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アメリカに住むこと、日本に住むこと。

この夏に日本に帰国していたCIISの日本人学生が、ぼちぼち
サンフランシスコに戻ってきた。


僕はそんな彼女たちに、久しぶりの日本のどこに感動して、どこに違和感を
覚えたのか聞くのが好きだ。


こちらでの生活も長い、ある日本人留学生。


久しぶりの帰国。家の近所を自転車に乗っていたら車にぶつかりそうになった。
怒りを反射的にぶつけようと思った矢先に、向こうはまず謝ってきた。
「すみません、大丈夫ですか?」

その時、思ったそうだ。
そっか、日本ではまず相手を心配して、「お詫びモード」から入るんだ。

アメリカでは、そういう時のファーストコンタクトは、「戦闘モード」で
入っていかないとまず甘く見られる。

私、サンフランシスコでは、かなり突っ張って生きていたんだと実感したそうだ。


日本で街中を歩く。ペコちゃんの人形がある。それは自分が小さい時に
お婆ちゃんに買って貰ったお菓子の思い出と繋がっている。

そういう視点で街を見ると、自分の思い出につながる、たくさんの
「記号」が周囲にあふれている。こういう「記号」に囲まれているって、
それだけで、何て癒されるんだろうと思ったそうだ。


日本のテレビ番組は、かなり無意識的にも女性を差別している。
それは、ただニコニコして立っているだけのポジションの女性タレントとか、
アシスタントの位置付けの女性司会者とか…。そういう「性差別」だ。

僕は日本にいた時にはあまり意識しなかったけど、
言われてみれば、確かに、こちらの視点に慣れると、そう映る。


いま僕の周りのCIISの日本人学生の間では、卒業後の進路の話題が
ぼちぼち出始めて来た。


アメリカに残るのか、日本に帰るのか。


どちらに軸足を置いて考えるのかは、多くの場合、そもそも日本を飛び出してきた
理由によっているように思える。


それは、日本の社会にネガティブなイメージを持っているか、
ポジティブとはいかないまでも、ネガティブなイメージを持っていないか。


僕はネガティブなイメージを持っていなかった。男性ということもあるのだろう。
いろいろと女性の話を聞くと、日本社会はまだまだ女性が自立して生きていくには
難しい構造なんだなと思う。


でも、アメリカが手放しで良い社会かというと…、


そうでもない。こっちで生きていくには、かなりのタフさが必要になる。
だから、最後は、生活に疲れて果てて日本に帰っていく女性も多い。


ただし、現実問題としては、ビザの関係で卒業後、アメリカに残ることは非常に難しい。

そして、日本のセラピー市場は、潜在需要は大きいのだろうけど、
カリフォルニア州に比べるといろいろな意味で、仕事として確立されているとは言えない。
だから、みんな帰ることに不安を感じている。


なんてことをCIISのGreeterの仕事をしながら考えていると、窓の向こうに
路駐してあった車が3台、レッカーされて行くのが見えた。


平日、CIISの前のMission Streetは16:00-18:00の間、路駐禁止になるのだ。
レッカー車は、どこからともなく、あっという間にやってくる。


サンフランシスコにはこういう道がいたるところにある。
だからよく標識を見ないといけない。


車の所有者は、チケットを切られて、更に300ドルの罰金。
早く引き取りに行かないと、保管の駐車料金が日々加算されていく。


しばらくすると持ち主らしき人が道路を右往左往している。
自分の車が消えたと、叫んでいる。


これも、アメリカの生活だ。


というより…、サンフランシスコ・デイズだ。

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Law&Ethics(法と倫理)のクラスを…

恥ずかしながら、いや、別に恥ずかしくもないんだけど、
先の春学期、必修科目を一つ落としていました。


なぜ今頃に書くかというと、
成績はまったく気にしておらず、チェックもしていなかったから。


でも、気にしていなかった割に、全般的な成績は結構良くて、去年は一つBが
あっただけで、あとはAだった。


というわけで、この科目を秋に再履修することの自分の中での意味付けも、
ばっちり済んだので書いています。


で、今回、落としたのは、「Law & Ethics」。
つまり、セラピストとしての「法と倫理」だ。


別に、僕にその資質が欠けているというわけではないと信じる。


実は、そもそも科目、あまり興味が湧かなかった。
ちゃんとそのように、最初のクラスでシェアもした。


更にこのクラスはアメリカにしては珍しく、ミッドターム、ファイナルともに、
日本的な暗記テスト。日本人なら本来得意なはずなんだろうけど、
僕はそもそも日本語でも暗記なんてばからしいと思っているから、
英語だと余計頭に入らない。


ついでに、インストラクターは、ベテランのいい先生なんだけど、
留学生慣れしていない。僕は彼のクラスを別の科目で一度とっているから、
そのことは良く知っている。


でも、なぜもう一度彼のクラスを履修したかというと、他の初めての
先生よりも彼の英語の方が聞き慣れているから、リスニングの苦労も
減るだろうと思ったからだ。


というわけで、こういう科目はCでイイと思って、必要最低限の労力を
払った勉強でテストに臨んで、案の定、Cをとった。


こう言ってはなんだが、この感覚は、日本の学部生の時に身につけていて、
ほぼ100%精度だ。


問題はここからだ。


成績表のCの次の欄にRとある。


R?


何だろう、と思って学生課に確認に行くと、Repeatだと言う。


Dじゃないから別にいいんじゃないのか、と確認すると、
修士課程の学生はB以上を取らないと、その科目は落第なのだとか。


ほえぇー!知らなかった。


最初から知っていたら、Bを狙ったのに。


更に問題は続く。


その科目を再履修せねばいけない上に、その授業料をさらに払うのだと。
この科目は2ユニット。


CIISの学費は高くて有名で、1ユニット10万円強するから、
20万円以上の追加出費だ。


というわけで、この夏のアルバイト代が全部消えてしまった。


早速、秋のセメスターに再履修するために、「Law & Ethics」を申し込んだ。
評判の良い、別のインストラクターのクラスで。


というわけで、僕は、今年の秋が終わるころには、
かなりの「Law & Ethics(法と倫理)」の専門家になっているはずだ。

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フィードバックとの距離感

CIISのクラスでは、ちょうど半分が過ぎたところで、
インストラクターが自分とクラスに対するフィードバックをとる。


今週が、Clinical Relationshipのクラスのそれだった。


やり方は、いつもだいたい同じだ。


その時間、インストラクターは教室の外に出る。
だいたいカフェとかで時間をつぶしている。


教室に残った生徒の中からボランティアの司会役が前に出て、
「良い点」と「改善点」と大きくホワイトボードに書き、
生徒から意見を募っていく。


正味20分から30分ぐらい。


意見が出つくしたら、インストラクターを呼びに行く。


司会役が書かれた内容を説明する。
そして、インストラクターはホワイトボードを見て、
時に、更なる説明を求めたりしながら、感想を述べていく。


だいたいどのクラスでも、良い点、改善点は半々ぐらい出る。


そして、ベテランのインストラクターになればなるほど、このプロセスを
楽しんでいるように見える。


生徒からの意見は、玉石混交だ。
僕の基準だと、それは単なる我儘なんじゃないだろうか、と思うような意見も
多々あるのだけど、最近はそれで良いんだなと思えてきた。


なぜなら、このフィードバックの目的は、インストラクターに
生徒の「コンセンサス」を伝えることではないから。その意義は、
生徒「一人ひとりの声」をインストラクターに届けることにあるから。


だから、生徒たちも自分たちの意見を出すプロセスで、コンセンサスを作るような
ことをしない。


誰かの意見に対して否定をしたりもしない。
違う意見があれば、角度を変えて述べる。


例えば、こういう感じだ。

「このクラスでは、Kohutの理論に偏っているように思うわ。
もっと他の理論や、他のSelf Psychologistたちの理論も取り上げて欲しい」

「私は、逆に、絞り込んでいることがすごく理解に役立っているわ。
Human Developmentのクラスは総花的すぎて、わけがわからなく
なっちゃったから」

これらの意見は、二つともホワイトボードに書かれる。


だから、インストラクターは、ホワイトボードの一つ一つの意見に対して、
そう思っている人がいるんだな、でもそう思わない人もいるんだろうな、
というスタンスで臨んでいるいるように見える。


そして、変えられるところはすぐに変えるし、変えられないところは変えない。


「この意見は毎年出るのよね。でも、こういう目的があるの」


と笑いながらコメントして終わりだ。


見ていて、フィードバックとの距離感が心地よい。

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だれもがナルシシズムを持っている

KohutのSelf Psychologyでは、ナルシシズムそれ自体を「悪」とは考えない。
それがひとつ革新的なところだ。


むしろ、健全なナルシシズムを持つことは、人間が生きていくために必要だと考える。
大事なのは「健全」さだ。この健全さが崩れる時、人は、心に障害を引き起こす。


「健全さ」とは曖昧な言い方だ。つまり、それだけ幅があるといことで、
境界も曖昧ということだ。


繰り返すと、ナルシシズムは、生きていく力であり、成長の源だ。
誰もがそれを持っている。何歳になっても持っている。


Kohutによれば、人はその欲求を満たすために、常にSelfobjectを求めている。
Selfobjectとは、自分を満たしてくれるモノやヒトの「働き」のことだ。


ある人にとって、それは言葉かもしれない。
ある人にとって、それは憧れの芸能人かもしれない。
子供にとっては、毛布だったりお人形だったりするかもしれない。
幼児にとっては、母親の愛情が重要なSelfobjectだ。


人は、それらを内在化させていくことによって、次のステージに進む。
一つ一つ内在化することで、自己は大きくなり、より安定していく。


ところが、何かの事情があって、それが繰り返し、繰り返し満たされなかったとする。
あるいは裏切られるとか何か、トラウマ的な出来事があったとする。
すると、その満たされなかった自己は、歪んでしまう。そして、そのまま成長してしまう。


さて、ここからが分岐点だ。


人は、その歪んだ部分の影響によって、塞ぎ込むようになるのか。
つまり、歪んだ部分の欲求を意識の深層に抑え込むのか。


それとも、それを直視しないようにするために反対方向に大きく振れるのか。
つまり、自分を肥大化させて振舞うようになるのか。


どちらも満たされなかった「自己(Self)」の自己防衛の働きだ。


前者は、フロイトから始まる理論体系によって、有効なアプローチが可能になった。
問題は、後者だ。我々は肥大化された自己を持った人たちにどうアプローチするか。
このKohutの理論は、それに対する有効なアプローチと言われている。


それが何かというと…、


それをこれから学ぶのだ。
Clinical Relationshipのクラスで。


そうそう、7月4日は、アメリカの独立記念日です。
ではまた!

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最近の私の英語について

最近、僕の英語について触れていませんでしたが、
その必要がないぐらいに上達したのだろうと期待されても困る(?)ので、
現状をお知らせいたします。ハハハ。


自分が渡米前にイメージしていたほどの伸びは…、まったく無く。
ええ、本当に残念なことです。


最近、ほんの少しリスニングが上達してきたかもしれないと、
夏の夕暮れに蛍のお尻がポーッと光るように、ほのかに実感したぐらい。
一年半経ってもその程度です。
ええ、本当に残念なことです。


というわけで、「海外駐在員」や「留学経験者」に僕がイメージしていた
英語流暢度合からは、まったく程遠いのが現状です。
そもそもそれが幻想だったのかもしれませんが…。


でも、CIISに限らず自分の周囲にいる、留学生を見ていて、やっぱり20代の
若者たちは言葉に対する適応が早い気がします。


だから、負け惜しみも兼ねて、
英語が上達するという感覚がどういうことかについて考えてみました。


英語上達の実感値は、当然のことながら「英語を話す力」と、
もう一つ、その人の持つ「思考の深さ」との関数で決まっているように思います。


日頃、その人が物事をあまり深く考えてなければ、表現することもそれに応じて
シンプルで済むということです。


でも、価値観だったり、深い部分の想いだったり、文化の違いだったり、
抽象的な概念についての意思疎通を試みたりしようとすると、
ちょっと話は別です。


いつになっても英語で自分の想いを表現できた気になりません。
「僕の英語って、いつもまだまだ感」だけが募ります。


僕の日本語による思考は、40年という時間を背負っています。
それを脇において、英語を使う思考方法に変えるということは、
ある意味、日本語によって積み重ねてきた思考の成功体験を捨てる必要が
あるわけで…。


自分の内なる会話についても同様です。
日本語の方が、明らかに自分の気持ちに深く入っていきやすい。
英語では、なかなか自分の中に深く入っていけない。


もし僕が、20年ぐらいまでの時間しか日本語による思考の積み重ねを
背負ってなかったとしたら、言語間の移動も、もっとフットワーク軽くできたのだろうか…、
なんてたまに思うのですが、それも、「隣の芝は青く見える」の話ではありませんが、
「隣の英語は上手く聞こえる」的な色眼鏡な印象から来ているだけなのかも知れません。


但し…、


こちらに来て改めて思うのは、異国での人関係作りには、
母国語を使って深く思考していく力と、それを第二外国語を使って
表現できる力、の両方が大切だということ。


片方だけで、真の人間関係をつくることは難しい。


そして、この二つを高いレベルでバランスよく備えている人は、
この時代でも少ないのかもしれません。


というわけで、僕の英語に関しては、相変わらず孤軍奮闘中です。
(深く思考していく力についても同様ですが)



<付録>
書いていて考えたまったく別の話。

要は、長い歴史があるとそれだけ変われない。
伝統があると簡単には変われない。

アメリカという国がすぐに変われるのは、その歴史の浅さもあるのだろう。
それだけしがらみが少ないということだろうから。

日本は、変わるのに時間がかかる。でも、それは日本だけじゃない。
歴史のある国は、みんな変わるのに時間がかかる。
ヨーロッパの国々だってそうだろう。

すぐに変われないということは、見方を変えれば、極端に振れないための
知恵だ。簡単に変わらないから伝統が生まれるのだ。

だから、何でもアメリカという国を基準にして、日本という国の変化の
スピードの遅さを嘆かなくても良いのかもしれない。

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傷ついたのか、それとも、彩られたのか

先週、「Clinical Relationship」クラスの中で、「共感」をテーマにしたロールプレイがあった。
このクラスで初めて会ったアメリカ人の女性が僕のパートナーだったのだけど、
なんだか、最初から心を閉ざしている感じだった。


まあ、カウンセリングサイコロージーを学びに来る学生の多くは、多かれ少なかれ、
何らかのトラウマを抱えている人が多いから良くあることなのだろうけど。


インストラクターからは、相手の気持ちを素直に感じるように、という指示があった。


というわけで、心を開いて聞くようにしたのだが…、


彼女が話したのは、


「昨日、父と6カ月ぶりに電話で話をしたの。久しぶりだったけど、
何か特別な話をするわけでもなく、それで終ったわ。まあ、別に
なんてこともない話よ。以上ね」


…。


(ん?終わり???)


少し間をおいて、僕は尋ねた。


「どうしてそのことについて話そうと思ったの?」


「どうして?それは昨日の出来事だったし、頭に思い浮かんだから」


そうとだけ答えると、彼女はまた口を閉ざした。


これはクライアント役のためのワークじゃなくて、セラピスト役のためのワークの
はずなのだが、非協力的過ぎやしないだろうか…。


いったい彼女は何が言いたいんだろうと思ったが、
彼女の中に、開き直りとあきらめにも似た感情を感じとった僕は、
それを口にしてみた。


「何か、父親との関係で諦めていることがあるの?」


そう尋ねたとたんに、彼女は、「どういう意味?」と語気を強め、
「私はあなたに対して心を開けない」と言いだした。


(なんやねん、こいつ)


共感のワークどころか、反感のワークになりそうだ。


僕は彼女の表情を見て、彼女から伝わってくる雰囲気を十分感じてから
少し間を置いて言った。


「何か僕の言動で不愉快な思いをさせたら、申し訳なく思うよ。
でも、いま僕に対して閉じている感じは、どこから来ていると思うの?」


と聞いてみたら、父親との関係ではいろいろ複雑な事情があるらしい。
彼女は父親の頸木から、最近、ようやく自由になることができたのだと、短く語った。


結局、僕たちの関係はぎくしゃくしたままで終わった。


と、サクッと書いたが、
共感しようと思って心を開いていた分、彼女の対応に僕は傷ついた。


何か英語をしくじったか?

中途半端な英語の留学生には話しても無駄だと思われたか?

最初から見下された感じがしていたのは、思いすごしか?

ひょっとして、差別か?だとしたら、去年以来、久しぶりの悔しい感情だが。

僕の質問のタイミングが早すぎたか?

もっと英語の言い回しを覚えないといかんな。

それにしても、心を閉ざして口を開かないクライアントに、
英語でアプローチするのはなかなか難儀だ。今後の大きな課題だ…。


なんてことを、この一週間、考えていた。


昨日、このことについてやんわりとインストラクターに尋ねてみると、
こういう答えが返ってきた。


「セラピストを傷つけにくるために、セッションにやってくるクライアントもたくさんいるわ。
悲しいことだけど…。その時、クライアントは、自分を維持するために、誰かを傷つける
必要があったのね。そのためにセラピストを必要としたの。だから…、あなたの質問に
対する私の答は、それは、よくあること。そうとしか言えないし、セラピストとしては、
常に乗り越えていかなければいけないことだわ」


微笑みながら話す彼女の答えを聞いて、ふと思った。


僕は…、果たして傷ついたのか。


短期的な主観としてはそうかもしれない。
でも、長期的に振り返ったときには、それは、心の彩りの一つと言えるかもしれない。


というのも、僕は、そういう経験を数多く積み重ねてきたであろう
インストラクターの微笑みの向こうに、その彩りを感じたから。


人は、楽しい成功体験だけでなく、失敗や傷つくことによっても、
美しく彩られるのだろう。


だから、躊躇したり、怖れる必要なんてないのかもしれない。
勇気を出して、もっと傷つこう。

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みんなアフリカから旅してきた。

CIISは、心理学と哲学の大学院大学だけど、文化人類学が宗教学、そして、
スピリチュアル系の学問も盛んだ。


それを反映して、いろいろなジャンルの書籍やビデオがライブラリーにある。


昨日、ライブラリーでセラピーのライブセッションを観る予定が、
視界に入った別のビデオに惹かれてそれを観ることになった。


タイトルは、「Journey of Man」。
人類の起源から現在までの繁栄の軌跡を、最新の遺伝子学を駆使して、
辿っていくドキュメンタリーだ。


それによると、遺伝子学的に、この地球に最初に登場した最古の人類は、
ナミビアに住むブッシュマンなのだそうだ。ここから、小さなグループが、
何かの理由で、あるいは何かを求めて、住み慣れた土地を去り、見知らぬ世界に
向けて旅立った。


その最初に移動したグループが行きついた先は…、


何とオーストラリアなのだそうだ。遺伝子学的に。
彼らは、そこでアボリジニとなった。


とにかく、遺伝子の連なりを調べていくと、そうなるのだそうだ。


アフリカを出た最初のグループは、海岸線を歩いてオーストラリアまで歩いた。
すごい旅だ。


そのグループに次いでアフリカを出発した小さなグループは、
中東、それから、インドに安息の地を見つけた。


そして、さらにこのグループは中央アジアで繁栄し、ここから、いくつかのグループが
ヨーロッパ、東アジアに散り、そして、更に、シベリアからベーリング海峡を渡って、
南北アメリカ大陸に渡った。


興味深かったのは、氷河期に陸の孤島となったヨーロッパは独自の民族的
変化を遂げた。つまり、色は白くなり、鼻は高くなり、彫りは深くなり…。


さらにヨーロッパ北部では、日光が少ないために、皮膚が日光の力を借りて
充分なビタミンDを作れなくなってしまった。だから、日光をより吸収しやすいように、
皮膚のメラニンの量が減り、肌の色素が少なくなっていったのだという。


さらに面白いことに、同じヨーロッパでも、海の近くに移り住んだ民族は、
魚介類からビタミンDを摂取できるために、肌の色はさほど白くならずに
済んだのだという。イタリアなどの地球海沿岸の民族がそうだ。


このビデオでは、ナビゲーターである遺伝子学者が現地で出会った
ブッシュマン→アボリジニ→インドの少数民族→中央アジアの少数民族→
ヨーロッパの民族→極東ユーラシアの少数民族→ナバホインディアンの
顔写真を、アフリカからの移動順にどんどん並べて比較していくのだけど、
確かに、それぞれどこか一部分が似ている。


僕は、こちらに来てから、日本人についてよく考えるようになったけど、
そもそも「民族」とは、結局は分類のためにつけたレッテルだ。
でも、元を辿れば、かつてみんなアフリカという一つの場所に生まれ出てきた同胞だ。
それぞれ、長い年月をかけて別ルートの旅を続けてきた仲間たちなのだ。


この時代に僕たちは再会を果たした。
でも、それが幸せな再会の仕方ばかりではなかったことは歴史が示している。


元をたどれば、我々は一つ。
すべての人の肌の下に“アフリカ”があるのだから。


そこからスタートすると、
僕たちは未来に向けて、どんな可能性を拓くことができるだろうか。

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「人格」とは切り離して捉えてみる

僕が働いているGreeter のデスクには外部からの電話がかかってくる。
僕がするのは取次だけだけど、まあ、それを知らない人も多いから、
クレームだったり、無茶なリクエストをしたりする人もごくたまにいる。


で、僕は自分の立場を説明する。


「自分は学生で、この電話は取次をするだけだ。
あなたの要望やクレームに対して僕は答えられない」


で、相手も納得して、だいたいそれで終わる。


話していて、思った。
日本だったら、まずは謝るんだろうな、と。


日本の感覚だと、一応、窓口の電話はCIISを代表しているわけだし、
顔なわけだし。


要は、CIISで働くとは、CIISという「人格」にコミットしたように捉えるわけだ。
仕事としての「機能」にコミットするではなく。


で、アメリカ人は、僕を「機能」にコミットしている人として見るから、
事情を話せばそれで済むんだろうな。


日本人だったら、こうはいかないかもしれない。


「そうは言っても、お前はCIISの人間だろう!」
と、僕をCIISの人格の一部であるように見るだろう。


「私は単なる受付ですので、クレームは担当部署、あるいは、クレーム係まで
お願いします」って、日本の企業で言ったら、やっぱり問題になるだろうしね…。


アメリカでは、互いの「人格」は不可侵領域だ。
だってそれが、個性を重んじる自由な社会の基盤なわけだから。


だから僕たちは、その大前提の上で、物事を眺める必要がある。


自分も他人も、謝る時は自分がコミットしている「機能」に関して謝る。
「人格」としての自分はまったく悪くない。


だから、当然、「私が悪うございました」と全人格的な全面降伏的謝り方をしない。
「まず謝るのが先だろう!」「謝る態度というものがあるだろう!」などと、
期待してはいけない。


逆に、全人格的に誤っているんだから容赦してよ、という逆のアプローチも通じない。


だから、いつでもどこでも誰に対しても、しっかり説明しないといけない。


「こうこう、こういう理由で私がわかるのはここまで。あとは知らない」


だって、与えられた機能にコミットとするのが仕事なんだから。
もちろん、良くも悪くもだけど。


で、話が飛躍するようだけど、


互いの人格が不可侵領域で、ある意味、神さまからの所与のものなら、
日本人は、あんまり自分や自分の性格について悩む必要はないのかもしれない。
失敗しても、自己を全否定する必要はないのかもしれない。


日本には、「自分を磨く」「人格を高める」って表現があるけど、そもそも、
それは人格自体が変わっていくという前提に立っている。


でも、それらはアメリカではあまり聞かない表現だと思う。
おそらく、「自分」とは既にあるものだから。
その代りに、こちらで僕が良く聞くのは「自分でいる」「自分につながる」という表現だ。


さて、長々と書いてまとまらないけど、伝えたいのは、だいたい以下のようなところだ。


身の回りの出来事を、自分の人格とは切り離して見ることができるように
なるだけで、僕たち日本人は、もっとタフな一個人になれそうな気がする。


<補足>
これを書いていて気がついたけど、CIISや生活でいろいろあった時、
アメリカ人のクラスメートから、「Don't take it personally!」と
しばしばアドバイスされてきた。

日本語的に「個人のことして受け取らない方がいいよ」と理解していた。
で、僕はそれを「あなた自身のことではなくて、一般的なこととして捉えるのが良いよ」
と変換していた。

で、イマイチ、アドバイスとして僕には機能していなかった。

でも、それを「人格のこととして受け取らなくていいよ」というアドバイスとして
捉え直すと…、何だか思いっきり意味が深くなってくるような気がする。

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7つのAAミーティングに参加する④~コミュニティについて考える

つくづく感じるのが、アメリカ人のコミュニティはかなり「目的志向」だ。
だから、そのミーティングが終われば、みんなバラバラになる。


何を当たり前のことを、と思うかもしれない。


でも、とってもドライなのだ。
そうだからこそ、多くのアメリカ人は孤独だし、寂しいんじゃないだろうか…。


一方、日本でコミュニティと言うと、そこではメンバーが互いに全人格的な
関わり合いを持とうとするイメージが僕にはある。


だから、時間とともに、そこでは「目的」よりも「関係」が重視されて行く。
やがてそこは参加者にとって「居場所」になる。
「Doing」の場所ではなく、「Being」の場所だ。


でもだから、多くの日本のコミュニティは分厚い、湿った空気をまとってしまう。
互いを意識しすぎる「世間」になってしまう。
多くの日本人は、その「世間」を息苦しく思っているんじゃないだろうか。


アメリカのコミュニティと日本のコミュニティ、一概に同じように語れないような
気がしている。


AAミーティングはコミュニティだ。アルコール依存症を克服したいと
思う人たちの。その一結節点のみでお互いが繋がっている。


ミーティングが終われば、みんなその「目的」という結節点をはずす。
バラバラの個人になる。


ミーティングがあれば集い、ミーティングが終われば、バラバラ。
基本的に、彼らはそのミーティングの間だけでコミュニティ感や一体感を
味わっているように僕には映る。


僕は、こちらに来て、アメリカの「コミュニティ」についてどことなく違和感があったのだが、
それは、日本に比べて「目的」を離れたところでの全般的な「つながり感」が希薄で、
「目的」オリエンティッドなところからくるのではないかと思った。


ちなみに、AAミーティングではお互いをファーストネームで呼び合う。
お互いのプライバシーには触れない。人種も社会階層も違う彼らの共通点は、
アルコール依存症であるという一点だけ。お互いに本名を知らないコミュニティ。


AAミーティングでは、互いに、“スポンサー”と呼ぶパートナーがいる。
お互いにサポートし合う仲間だ。お酒をどうしても飲みたくなった時に、
連絡を取って、気を紛らわしたり、励ましあう関係らしい。
その目的に従って。


彼らはその関係でまあまあ満たされる部分もあるらしい。
要は、日々、いかにそれ以外に頼れる人がいない寂しさの中で生きているか
という現れのようにも僕には映るのだが。


僕が日本人だからだと思うが、目的によってつくられる人間関係は寂しい。
目的を超えたところで繋がる関係が本物なんじゃないだろうか。
真の友情に目的がないように。


だから、コミュニティに限らず、
セラピーという「目的」のあるセラピストとクライエントとの「人間関係」にも
リアルを感じられないのは、やっぱり僕が日本人だからだろうか。

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7つのAAミーティングに参加する③~有色人種との距離

今日、守衛のアフリカンアメリカンのリサと話をしている時に気づいたことがある。


そう言えば、アジア系ほど極端ではないにしても、AAミーティングにおける
黒人のパーセンテージは低かったと。


AAミーティングのマジョリティは圧倒的に白人だ。次に、ラティーノと
アフリカンアメリカンが続く。


浮浪者が多数たむろするテンダロイン地区のAAミーティングでも、
26名の参加者のうち、黒人は6名。圧倒的多数は白人だった。
僕の偏見なのだろうけど、このエリアでは黒人のパーセンテージは
もう少し高いと思っていたから。


リサは言う。黒人社会では、お酒を飲んで他人に迷惑をかける、あるいは
ひどい状態になる仲間がいると、それをきちんと相手に伝えると。
それでも改まらないと、その人は、一緒に飲む人がいなくなる。


アメリカはIndividualism(個人主義)の国と思われているが、
それは主に白人のことであって、黒人は文化的にColloectivism(集団主義)に
カテゴライズされる。


彼らは集団から疎外されるのは避けたい、
それがある程度の歯止めにはなっているかもしれないと。


ちなみに、サンフランシスコ育ちの44歳のリサ曰く、彼女の周囲で、
同じ黒人の家族や知人がセラピーに行くようになったのは、
ここ10年ぐらいの話だと。それも、女性がマジョリティであって、
男性はほとんど行かない。奴隷制度という歴史背景もあり、黒人社会においても、
男性は強くあることを求められるから、と彼女は言っていた。


つまり、AAミーティングやセラピーに行くには、黒人社会でも、まだ抵抗があるのだと。


とすると、AAミーティングが主に機能しているのは、個人主義のカルチャーを
体現している白人ということになってしまうのだが。


さて…。

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7つのAAミーティングに参加する②~アジア系がいない

7つのミーティングに参加をして、もっとも驚いたこと。
それは、すべてのミーティングを通して、アジア系の参加者に
たった一人しか出会わなかったことだ。


チャイニーズが住民の多数を占める地区のミーティングに行った時でさえ、
一人も出会わなかった。


アジア系住民にアルコール依存症は少ないのだろうか。
あるいは、お酒の文化の違いなのだろうか。


チャイニーズ系アメリカ人のクラスメートに聞いてみた。
アメリカに住む彼女の親戚や、周囲には、アルコール依存症のチャイニーズが
たくさんいるという。大きな問題だという。


ではなぜ彼らはAAミーティングで見かけないのだろう…。


AAミーティングには、強いキリスト教色があるためか。
それとも、自分がアルコール依存症であると公表することは、
アジア系特有の「恥」という意識につながるためか。


確かに、僕もAAの集まりに、良い悪いではなくて、何となく心理的に距離を
感じたけど…。


僕の知る限り、アルコール依存症者の日常生活と生活態度に働きかけて、
コミュニティの力でお酒のない生活をサポートするAAは、
その目的に対して、かなりの程度、機能しているように見える。


AAミーティングの目指しているものを、アルコール依存症に苦しむアジア系の人たちにも
広めていくためには、まったく同じやり方ではいけないということなのだろうか。


もしそうだとすれば、どういうやり方がいいのだろう。

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7つのAA(Alcohol Annonimous)ミーティングに参加する①

先週から今週にかけて、僕は6つのAA(Alcohol Annonimous)ミーティング
参加してきた。


というのも、先々週に終了した「Alcohol and Chemical Dependency」のクラスで、
インストラクターのLarryが、できることなら6つの異なるAAミーティングに出てみて
欲しいと言っていたから。


僕は、クラスの前にも一つ見学していたから、合計7つのミーティングを回ったことになる。


・Marina地区のSerenity GroupというAAミーティング。
高級住宅街にも近いエリアだ。

・Castro地区のMeeting Place NoonというAAミーティング。
主にゲイ&レズビアンのアルコール依存者を対象としたミーティング。
26名の参加者がいて、女性は一人だけだった。

・Financial districtにあるNew HighsというAAミーティング。
ここはビジネス街だけど、ミーティングの場所は隣接するチャイナタウンの一画にある。
14人の参加者がいて、男女比は半々だ。

・Inner Sunset地区にあるBeginner Big Book StepというAAミーティング。
この辺りは、第二中華街とも言われている。
40名を超える参加者がいた。

・Tenderloin地区にあるSober Across The BoardというAAミーティング。
この地区は、治安が悪くて有名だ。浮浪者がたくさんいる。
参加者は25名で、うち女性は2名だった。

・Civic Center地区にあるThe Pepper GroupというAAミーティング。
公共機関のオフィスが集中している。
参加者は7名で、うち女性は2名。

・Castro地区にあるThey Stopped In TimeというAAミーティング。
若者中心の会。80名を超える参加者で、男女比も同数ぐらいだった。


確かにすべてのミーティングがそれぞれの持ち味で運営されている。
地域柄や参加者の違いを反映してか、すべてがまったく違う雰囲気だった。


会場は、コミュニティセンターの一角だったり、教会の一角だったりする。
椅子は、円形に配置されていたり、扇型に配置されていたり。


ミーティングの運営方法は統一されている。
まず会が大事にしているいくつかのPhilosophy、約束事が読み上げられた後、
会の趣旨に関係する連絡事項を募る。そして、初めての参加者をwelcomeする。
次に、サンフランシスコの外からやってきた人をWelcomeする。
最後に、禁酒をしてからの24時間、一ヶ月、三か月、半年、9が月、1年、
2年、etcの「誕生日」を迎えた人をアクノレッジする。


そして、いよいよ内容に入る。


その内容は、スピーカーが予め選ばれていて、その人が30分ほど話した後に、
参加者がシェアしていくタイプと、この会のPhilosophyや伝統について
記された本の章を輪読して、それについてシェアをしていくタイプの
だいたいどちらかだ。


そのシェアの中から、いくつか印象に残った、というより僕の聞き取れた
ものからいくつかご紹介します。


「朝目覚める。24時間の戦いが始まる。一日の終わりに今日もアルコールを
飲まずに生活できたことを感謝する。翌朝も起きる。再び24時間の戦いが始まる。
私にとって毎日が戦いなんだ。この戦いを一生続けるんだ」~Meeting Place Noon

「普通に生活しているようでも、私の内面はいつもカオスだった。
自分は十分じゃないと責め続けてしまう毎日。その苦しみを和らげるために
私にはアルコールが必要だった」~New Highs

「今日、この会で一番大切なのは新しくここに来た人たち。
みんな自分を愛することを忘れないでほしい。そして、ここに来れば我々はあなたを
愛することを覚えておいてほしい。そして、ぜひ来ることを続けてほしい」
~Sober Across The Board

「お酒を飲まない生活がどれほど素晴らしいか。私はようやく人としての
生活を手に入れたと思う」~Beginner Big Book Step

「AAミーティングは本当に私にとって大切な場所だ。最初、12のステップには
抵抗があった。しかし、その疑問を脇に置いて実践することで見えてきたことは…、
それは他のどんな方法よりも、自分を人生というリアリティに近づけてくれたということだ」
~They Stopped In Time


ベイエリアでは、毎週1000以上のAAミーティングが催されている。
今この瞬間も、そこで誰かが誰かに支えられ、誰かが誰かを支えている。

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EmpathyとSympathy

アメリカで最も支持されているKohutの「Self Psychology」を理解する上で、
Empathyという概念は非常に重要だ。日本語では「共感」と訳されているけど。


今日、Clinical Psychologyのクラスで、KohutのEmpathyに関する
講演ビデオを観た。Self Psychology学会で行ったもので、彼の死の
三日前のものだ。


事前課題の文献と、そのビデオの内容を踏まえて、ディスカッションをした。


今日のところの理解だけど、


「Empathy」とは、
想像力を働かせて、相手の感情や置かれている状況を「理解」しようとすること。
自分の相手に対する感情や解釈を横に置き、相手の立場に身を置いて、
相手の気持ちを感じようとする試みだ。


そして、「Empathy」を理解する上で、僕にとって発見だったことは、
「Empathy」をする上で、セラピストが自分の中に、必ずしもクライアントと
似たような経験を持っている必要はないということだ。


自分とは違う体験を持ったクライアントを、
より良く、より深く「理解」しようとし続ける試みのプロセスそのものが
「Empathy」だ。だから、完璧に「Empathy」すること、なんてありえないのかもしれない。


ちなみに、僕がここで使用している「理解」という言葉は、
クラスで使われていた「Understanding」の訳だ。


インストラクターは、
「Understanding」とは、頭だけではなく心での理解も含んでいる言葉で、
「Empathy」と意味するところがとても近いと言っていた。


一方で、Sympathy。日本語では「同情」と訳されることが多いようだけど。


それは、相手の感情や置かれている状況を知ることによって、
自身の過去の体験や、その時の感情を思い出し、自分の中でそれらを再体験、
追体験している面が強い。


だから、「相手を感じようとしているのか」、それとも実は「自分を