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2011年1月

一人の人間の中でのバランス

先週の日曜日、Pacific Instituteの創設者で、CEOでもあるNaderから、
彼の自宅に夕食に招かれた。お別れ会を兼ねて、と言うことだった。
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Naderが僕を気に入ってくれているのは知っていた。
同時に、僕は、彼が典型的なアントレプレナー気質で、一緒に働くのはとても
難しい人間であることも知っていた。


僕は、Pacific Instituteで素晴らしい経験を積むことが出来た。
それは間違いない。


しかし、


良くあることなのだが、Pacific Instituteは事業を急拡大しているために、
マネジメントと人材の育成が追い付いていない。


スタッフに彼の素晴らしいVisionとPhilosophyが共有されていない。


Naderが気づいていないか、あるいは、彼が直面することを避けて
無いことにしてしまっている問題のせいで、現場が混乱している。


僕は、ほとんど毎日、Pacific Instituteを訪れていたこともあって、
レジデントの家族や、Caregiverからたくさん意見を聞いていた。
もちろん、僕自身が思うところもたくさんあった。


2人のSupervisorからは、こう言われていた。


「TJが見て、感じた問題点は彼に伝えるべきだわ。レジデントの為に。
あなたはものすごく評判が良いから、彼も耳を貸すと思うの」


そのディナーには、彼の奥さんとその姪、Naderの母親と、
Naderの妹でpacific InstituteのディレクターでもあるElkeも一緒だった。


その場がラストチャンスかもしれなかったのだが、
笑いの絶えない和やかな雰囲気で、仕事の話をする空気でもなかった。


というわけで、僕は本来の趣旨に則った、とても楽しい時間を過ごした。


ドイツ人とイラン人のハーフで、アメリカで育ったNader。


MFTの資格を持ったセラピストであり、同時に、ドイツ文学の博士でもある。
物事の本質を考えぬく力、独自のビジョンと描き、それに向かって物事を前に
進める力は圧倒的だ。


でも…、


周りに人材が集まらない。皆、離れていく。


カリスマティックな魅力があるのに、自分が一番でないと気が済まない
ナルシシズム的なあり方が、彼の周りから人を遠ざけてしまうのだろう。


意見が衝突すると、相手を徹底的にやりこめてしまう。
周囲はそれを見ているから、萎縮してしまう。
意見を言わなくなってしまう。


いま、僕には、彼の周りにはイエスマンしかいないように見える。


僕は、そのディナーの場で、Naderから週明けの木曜日に行われる
彼の講演会に誘われた。Castro Valleyにある病院で催される大きなイベントだった。


木曜日の朝、彼が運転する車に乗って、僕は会場に向かった。


彼のスピーチは、聴衆のハートをあっと言う間に掴んだ。
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Visionを語る彼は、とてもパワフルだ。
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Naderが語る理想と、Naderが経営するPacific Instituteの実際は違うんじゃないか。
彼をそう批判するのは簡単だ。


でも…、


高い理想を持ち、その理想を社会に向けて語る勇気を持つ人が極端に少ないのが、
今の世の中ではないだろうか。


Naderを見ていて、いつも思う。


優れた哲学者であると同時に、優れた実践者であることは、とても難しい。
優れた起業家であると同時に、優れた経営者であることは、とても難しい。
強くあると同時に、自分の弱さを認め、それを受け入れ続けることは難しい。
幅広い心理学の知識を持ちながらも、それらを自らに当てはめて考えることは難しい。


すべては、バランスなのだろうけれども。

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Tai-chi(太極拳)グループのみんなによる送別会

Pacific Instituteで僕のクライアントだったEMさんの息子、
Tengが20年以上も毎朝Doroes Parkで続けているTai-chiのグループがある。


土曜日の朝の集まりが一番大きくて、毎週12名―20名ぐらいのメンバーが集まる。
その多くのメンバーが、10年、15年来の友人関係にある。


僕は、去年の夏ぐらいからこの輪に入れてもらった、
一番の新参メンバーだ。


Tai-chiの動きのわからない僕を、いつも真ん中に置いてくれて、
どの方向を見てもベテランたちの動きをフォローしやすいように配慮してくれた。


とても温かいコミュニティだ。


僕自身は決して長い付き合いというわけではなかったけど、
主催者のTengの人柄を表しているのか、とても素晴らしい人たちばかりが
集まっていて、僕はこのグループが大好きだった。


その人たちが、先週の金曜日、僕のために送別会を催してくれた。
主催者は、Teng。場所は、Drores parkに近くにあるTengの家だ。


彼がTengだ。
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ポトラックパーティ。


開始時間ちょうどの夕方6時半。
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そして、人が少しずつ集まり始める。
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自分の持ってきた料理を自分でお皿に盛りつける。
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次々と玄関のブザーが鳴る。
早く上がってこい、とTengが言う。
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どんどん人が集まる。
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料理も、どんどんテーブルの上に並ぶ。
これは何だ、レシピは何だと、料理の上を会話が交錯する。
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TJ, 料理だけじゃなくてこっちも撮れ、とTengが言う。
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料理を乗せたお皿を手にリビングルームに戻る。
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大きな円が出来る。
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EMさんのもう一人の息子、Markが皆にシャンパンを注ぐ。
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楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
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このブログでも触れたけど、MarkとTengの母親であり、
僕の大切なクライアントでもあったEMさんは、昨年12月23日に他界した。


Markは立ち上がると、皆の前で、僕の方を見てこう言った。


"He is my family. We lost one but gained one."


僕たちの家族は、一人を失った。でも、新しく一人を得ることが出来たんだ。

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第一回目のConsultation Group

Pacific Instituteのインターンシップが終了した夕方、
昨年の旧インターンの4名の仲間たちがスタートさせたコンサルテーショングループの
初回の集まりに呼ばれた。


主催者はAndrewで、メンバーは他に、Mollie、Heinz、
そして、SupervisorだったAninだ。


あいにく、Aninは急用で直前に参加がキャンセルになった。


会の趣旨は、それぞれが違うインターンシップ先で経験を積んでいる現在、
定期的に集まって、ケーススタディ、セオリー、人間としての成長、
プロフェショナルとしてのサポート、などなどについてディスカッションをして、
お互いに高め合って行こう、というものだ。


“インターンシップ”と言う場が終了したら、今度は自らそういう場を生みだし、
メンバーとの関係を継続的に深めて行こうとする姿勢は、大いに見習いたい。


さて、


個人的にしばしば感じているのだけど、セラピストとは孤独な商売だ。


実際に、独立してクライアントを取るようになると、
部屋でクライアントと向き合うことが日々の仕事になる。


来る日も来る日も、椅子に座りながらクライアントの話を聞き続ける…。


ハードだ。


ところが、セラピストは、仕事のストレスを発散させるために、
レストランやバーなどの公共の場で、友人にクライアントの話をするわけにはいかない。
周囲に誰がいるかわからないし、そもそも、それは守秘義務に反してしまう。


クライアントとセラピールームの外で会って、人間的な触れ合いをすることもない。
サイコセラピーという、関係性を扱う繊細なサービスの質に余計な影響を与える
恐れがあるからだ。


思うに、セラピストとは、公私ともに、結ぶ人間関係に強い制約条件が
課せられてしまうとても窮屈な職業なのかもしれない。


その結果、人間関係を専門としているはずのセラピストの人間関係は、
狭窄しがちになる。人間関係に揉まれる場や機会が少なくなる。


それをどのように防ぎ、自らを耕し続けることが出来るか。
セラピストとして成長し続けるために、とても大事なテーマだ。


Andrewの今回の試みも、その一環だ。


ディスカッションの後、僕たちは簡素なディナーを楽しんだ。
Andrewの息子、Mikeも輪に加わった。


Andrewは言った。


「長く運営していくこと、それ自体がこの集まりの一つの目的でもあるんだ。
TJは記念すべき初回のメンバーだ。TJがいつかアメリカに戻ってきたときに
いつでも参加できるこういう場があるって素晴らしいだろう?」


本当だ。
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インターンシップ最終日

2011年1月17日、Paific Instituteでのインターンシップ最後の日だった。
スタートしたのが去年の1月18日だったから、ちょうど1年間ということになる。


その日は、Duty Dayの当番に当たっていて、自分のクライアントであるか否かに
関係なく、フロアを歩き回り、すべてのレジデントを必要に応じてサポートするという
日だった。午後3時までの役割だ。


朝9時半から始まるスタンドアップミーティングに参加して…、
それから、僕はLGCビルディングに向かった。


いつもと同じように、各フロアを訪れ、レジデントやCaregiverと会話を交わして、
今日が最後の日なんだと、お別れの言葉を添えた。


認知症を抱えているレジデントは、僕のことをすぐ忘れてしまうのかもしれないけど、
それでも、“You were very kind to me. I will miss you”と悲しんでくれた。


彼らは、僕のことを覚えていることが出来ない。
だからこそ、僕は彼ら一人ひとりのことを覚えておいてあげないといけない。
そんなことを想いながら、一人ひとりを訪ねた。


午前中、現在は2人だけになってしまった、
僕のクライアントのHAさんと、LJさんの部屋も回った。


彼らには、今日が最後の日であることを確認のために伝えて、
帰る前にもう一度、訪れるからねと伝えた。


Terminationの準備は、およそ2か月前からしていた。
だから、最後の日だからと言って、別に何かを特別なことをするわけでもない。
あっと言う間に、午後2時半になってしまった。


僕のクライアントで昨年の12月に亡くなったEMさんのルームメート、
Cさんの部屋を尋ねた。Cさんは、身寄りが無いのだけど、心身ともに
とても健康で、クリアで、いつも僕に素晴らしいアドバイスをくれた人だ。
たくさんお世話になった。


彼女はいつものように、部屋でクロスワードパズルをしていた。
僕を見ると、「ヘイ、ボーイ、ついに最後の日ね」と笑った。


部屋に入る前は何も感じていなかったのだけど、
その部屋に入って、亡くなったEMさんの空いたままになっている
ベッドに腰掛けて、Cさんの笑顔を見た瞬間に、涙があふれてきた。


Cさんは、静かに立ちあがると、僕を黙ってハグしてくれた。


「いつもあなたの幸せを祈っているわ」


彼女はそう言った。


「僕も…」


僕は辛うじてそう言って、涙を拭いて、彼女の部屋を出た。


僕は同じフロアに住む、僕のクライアントのLJさんの部屋に行った。
94歳のアフリカンアメリカンのLJさんは、妻で93歳のAJさんと
部屋のソファに座っていた。


彼は僕を見かけると、“Hey kid, what's up?”と笑った。
僕はやっぱり涙があふれてきた。


彼は、“I love you, kid”と言って、ハグしてくれた。


一階に住む、もう一人のクライアント、HAさんの部屋も訪れた。
あいにく、彼女はベッドの上で、お昼寝をしていた。


彼女は、認知症が進行するに従って日本語しか話せなくなってしまった
日系アメリカ人だ。


僕は、そっと彼女の手に触れた。彼女は、目を開けると、
僕にうっすら微笑んだ。


僕は、最後のお別れの挨拶に来ました、と伝えた。


彼女は、静かに頷いた。そして…、再び目を閉じた。
僕は、そのまま部屋を後にした。


僕は、地下一階のインターンルームに戻り、ネームタグを外して、
鍵を自分のロッカーに置いた。


これで、本当に最後だ。


僕は荷物を持って1階に行き、玄関を出て、建物を振り帰った。
この場所で、本当にたくさんのことを学ばせて頂いた。
最高のプラクティカムサイト、最高の1年間だった。


たくさんの出会いと学びと思い出を、どうもありがとう。
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新インターン仲間たちによる送別会

先週の土曜日、僕がプラクティカムに通うPacific Instituteの
インターン仲間たちによる送別会があった。


僕は、期の途中からプラクティカムを始めたおかげで、
半年間ずつ、新旧2つのグループのインターンと知り合うことができた。
いずれもハートのある素晴らしいメンバーたちだった。


今回の送別会は、新しい期のインターンたちによるものだ。


仲間の一人が、家を会場として提供してくれた。
アメリカでは良くある、みんなが食べ物を持ち寄るポトラック形式のパーティだった。


会場となったSteveの家は、PresidioというNational Parkの中になる。
Partyは午後2時から。


僕は自転車で彼の家に向かった。
快晴だった。
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先に着いていたメンバーが、僕をベランダから見つけると手を振った。


家の窓、ドアは空き放たれていて、音楽がかかっているのが聴こえる。
僕は冷蔵庫を勝手に開けて、ビールを飲む。
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メンバーは、三々五々に集まる。
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僕は誰かが到着するたびに、その一人ひとりとハグをする。


彼らは自分の持ってきた料理を適当にテーブルの上に並べると、
ビールを片手に、会話の輪に加わる。
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Steveの飼っている猫も楽しそうだ。
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ベランダから見える海の方向に、日がどんどん傾いていく。
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日が暮れる前に、今集まっているメンバーで写真を撮ろう。
Margaritaがそう言った。
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Barbaraが用意をしてくれたケーキが出て来た。
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「お店にちゃんと頼んだのに、スペルが間違っているのよね…」
そう言って、Barbaraは、その場でナイフとフォークを使って、tをjに、何とか変えた。


僕は、簡単なスピーチをした。


再び、いろいろな場所に会話の輪が出来る。
部屋に流れる音楽が変わり続ける。
鳥のさえずりと汽笛の音が窓の向こうから聞える。


日が落ちて…、人は、来た時のように三々五々に帰り始める。


僕は、会話を止めて、近寄ってくる一人ひとりとハグをする。


ベランダに出ると、立ちこめる夜霧が気持ち良い。


爽やかな、本当に爽やかな一日だった。
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二つの社会の間のバランス感覚

金曜日、2年前のサンフランシスコ三田会で知り合って、以来、
とても親しくさせて頂いているYuri夫妻と一緒に食事をした。


Valencia StreetにあるDOSAという南インド料理のレストランで
送別会を催してくれたのだ。


ご主人のNoahさんはアメリカ人の弁護士で、日本語も堪能だ。
Yuriさんは、会計士だ。現地の会計事務所に勤めていて、バリバリ働いている。
なのだけど、とても温かい2人だ。


僕にとっては、まさに、気の置けない関係と呼ぶにピッタリの人たちで、
会うたびに、いつも楽しいひと時を過ごさせて頂いている。


Yuriさんは、僕に、アメリカで生きる日本人の一つのモデルを示してくれた。


彼女は、国としての日本とアメリカの長所短所を踏まえながら、
どちらとも心理的に適度な距離を保っている。


実は、Noahさんにも、同じ雰囲気がある。


Yuriさんは、現地の日本人社会とも付かず離れずの関係を保ち、実際には、
アメリカ社会の方に根を下ろし、アメリカという現実と向き合いながら
暮らしている


アメリカと日本の、どちらかに肩入れすることもない。
「バケーションで訪れる日本って、すごく居心地が良いの…」と、さらりと言ったりする。


どちらにも肩入れしない在り方が、何かこう…、
ニュートラルな優しさを感じさせてくれるのだろうか。


個人的に、


アメリカにいながら、現地の日本社会に、現地の日本人の人間関係に
強く縛られている日本人を見ていていると、辛くなる。


でも、日本人としての自分を振り切るために、限りなくアメリカ人になろうとしている
日本人も、見ていてなぜか哀しくなる。


これらのどちらの立場も取ることが出来ずに、関係性から孤立している日本人も
少なくないように思う。


いずれの立場に陥ることなく、しかし、現地に根をおろして生きる、というのは、
案外難しいことなのかもしれない。


Yuri夫妻に会うたびに、そういう微妙なバランス感覚の中で生きることの一つの
モデルを見ているような気持ちになる。


ここアメリカで、これからの人生においてもずっと繋がっていけるであろう
尊敬できる同世代の2人の友人を持てたと言うのは、本当に嬉しい。

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最後のグループスーパービジョン

先週の水曜日が、Pacific Instituteで僕が参加する最後のGroup Supervisionだった。
6ヶ月間と言う期間だったけど、皆が僕との別れを惜しんでくれた。


一人ひとりが僕との思い出をシェアし始めた。


最後に、仲良くなったStuartが言った。
彼は、僕よりちょうど10歳年上だ。


「初日、皆で参加する研修があったよね。僕はclinical directorのAninからも、
去年から引き続きインターンを続けたBarbaraからも、いろいろな人から、
TJにはもう会ったか?TJとはもう話をしたか?ってたくさん聞かれたんだ。
とってもDeepな男だからって。本当にそうだった。
ここでTJ出会えたことを感謝しているよ。僕が悩んだときにくれた示唆に富む
アドバイス、本当に忘れないよ。」


不覚にも、堪えていた涙が溢れてきた。


SupervisorのLaniが、こう言った。


「TJは、周囲にいる人たちに影響を与えるGiftがあるわ。
文化と言葉の壁を超えて相手と深く繋がっていけるGiftがある。
あなたは、本当にAffectiveな人間よ。あなたから学べる機会が、
もうここには無いと思うと本当に寂しくなるわ…」


みんなが頷いた。


Pacific Instituteでは、通常、インターンプロラムは8月からスタートする。
だから僕は、去年のインターンメンバーより半年遅れてインターンプログラムを始め、
今年のインターンメンバーより半年早くインターンプログラムを終了することになる。


僕は去年の8月を跨いで、去年のインターンと今年のインターン、
別々のメンバーを半年ずつ知ることになった。
だから、2倍の友人を持つことが出来た。


しかし、


それは同時に、2倍の別れを持つことでもある。


たくさん出会い、たくさん別れ、たくさん喜び、たくさん悲しむ。
本気で繋がろうとする出会いと別れをたくさん繰り返すことによって、
少しずつ…、何となく…、人間が深まっていくのかもしれない。


週末の土曜日は、今年のインターンたちによる僕の送別会だ。
明るく、爽やかに、お別れしたい。

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アフリカンアメリカンならではのカルチャー

先日、CIISの友だちが催してくれた送別会の席で、
MさんのパートナーのJonからこんな話を聞いた。


ある日、2人が歩いていると、Bart Stationの近くで、アフリカンアメリカンの
若者が近寄ってきて、Jonにこう尋ねた。


“Hey OG, can I holla at you for a minute?”


OG
とは、スラングで“Original Gangster”、
Hollaは、スラングで“Talk”のことなのだそうだ。


「おじき、ちょっと話しかけてもいいかな?」


Jonはこう応えた。


“Yeah. what's up, youngster?”


「もちろんさ、若いの。何だい?」


その若者曰く、家まで帰るお金が無いので、Bart(電車)に乗るお金を
恵んでくれないか、ということだった。


Jonは、その若者に、どこまで帰るんだ?いくら欲しいんだ?と聞いて、
自分のお財布から20ドル札を抜いて、その若者に渡した。


それは、電車賃には少し多い額だった。


当然、それを見ていたMさんは、Jonの行為が理解できなくて問い質した。


「ねえ、どうしてお金を渡したりしたの?」


「それが俺たちのカルチャーなのさ」


その時、JonはMさんにそう答えただけだった。


ちなみに、Jonもアフリカンアメリカンだ。


僕は、その話に興味を持って、Jonに尋ねた。


「良くそう言うことをするの?」


「いや、もちろん毎回じゃない。


彼は、俺をOGと呼んだ。それは、俺に対する敬意の表明だった。
また、そいつは通りすがりの誰にでも声をかけているわけでもなかった。


そいつの口ぶり、様子から、嘘を言っているんじゃないと俺は判断したんだ。


と言っても、俺のワイフは、俺の行為を理解できないようだったけどな。
その時は面倒だから説明しなかったんだ。


でもさ、TJ、考えても見ろよ。


もし俺が断ったとするだろう。
その若い奴が困って、その辺で、盗みや殺しでも働くかもしれないと想像してみろよ。
相手はもちろん、そいつの人生にとっても悲劇だろ。


20ドルで、そのリスクを摘むことが出来るんだ。
ちょっと多めに渡してやって、その辺で昼飯でも食えることが出来たら、
尚更、いいだろう?


そうやって、お互いを助け合うのが、俺たちアフリカンアメリカンのカルチャーなのさ」


それを隣で聞いていたMさんも、改めて感じるところがあったようだった。


「カリフォルニアじゃ、あまり感じることはできないのだけど…、


Jonの家族に会うために南部に行ったときに、確かに、アフリカアメリカンの
独自の連帯感を感じたわ。


あの連帯感があってこそ、奴隷時代の悲劇を乗り越えることが出来たのかなって思った。


TJも、いつか南部に行ってみるといいかもしれない。いろいろ感じると思うから」


確かに、アメリカは大きくて、多様な国だ。
「アメリカでは…」と、一般化して語るのが難しい。


サンフランシスコに住んでみて感じたことなのだけど、日本に住んでいるときに
よく聞いた“全米大ヒット”、“全米が感動の渦に包まれた”等という表現は、
この国では実際にはあり得ないように感じている。


とにかく、アメリカは広大で、人種も多様で、時差もあって、州によって法律も違って、
一人ひとりが個人主義を信奉する国なのだ。


同じ国民なんだから、「全米」あるいは「全国」という一般化が成り立つはずだと
考えるのは、日本という狭い国土を無意識の前提としているからこその
世界観なのかもしれない。


帰り道、別々の方向に向かう僕たちは、駅で反対側のプラットフォームで向き合った。


僕が無意識に置いている日本的な前提には、どんなものがあるだろう…。


互いに異なる文化背景を持ちながらアメリカで出会い、
一緒に生きていくことを決めた2人を眺めながら、僕はそんなことを思った。
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CIISの友人とのお別れ会

CIISで知り合った日本人留学生のMさんとNさんは、僕よりも1セメスター先輩に当たる。
昨年の6月に2人ともCIISを卒業して、2人とも、それまで付き合っていたアメリカ人の
ボーイフレンドと結婚をした。


彼女たちは、しばしばパーティを催してくれて、僕もそれに招かれたので、
みんなと仲良くなった。


Mさんが先週の土曜日にお別れ会を企画してくれた。
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今週の木曜日に、今度はNさんがお別れ会を企画してくれた。
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MさんもNさんも、夫となったアメリカ人たちも、その都度集まってくれた。


MさんのパートナーであるJonからは、こう憎まれ口を叩かれた。
彼はとてもスマートで社交的で弁の立つナイスガイだ。


「ヘイ、TJ、俺たちはお前の為にいったい何回集まれば良いんだ。アッハッハ。
俺たちは、お前のことが本当に好きなんだよ。気づいていたかい?」


感謝の気持ちでいっぱいだ。


今週末からは、Pacific Instituteの新旧インターンたちが企画してくれている
送別会が続く。


あと2週間でアメリカを発つことになるのが信じられない。


僕のサンフランシスコ・デイズも終わりが近づいている。
それは、3年間書き続けてきたこのブログとのお別れでもある。


まだ実感が無い。

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Helgeとの最後のセッション

Termination(関係の終了)が続いている。


水曜日は、Helgeとの最後のセラピーセッションだった。


セラピーを受けるきっかけは、Practicumを始めるのと同時にセラピーを受ける、
というのがCIISの卒業要件になっていたからだった。


僕は、日本でサイコセラピーも、カウンセリングも、受けたことは一度もなかった。


半信半疑だったのだけど、どうせ高いお金を支払うのであれば、
一流のセラピストからセラピーを受けてみたい…。


そんなことをあれこれと考えている時に出会ったのがHelgeだった。


約1年間のセッションを終えた今、クライアントとしての体験から、
カウンセリングとは何をするための時間か、と尋ねられたら、
僕はこう応えるかもしれない。


カウンセリングとは、純粋に自分のことだけを話すための時間だと。
自分自身とその内面を深く探っていくためだけの時間だと。


だから、カウンセリングでは、自分の外側で起こったことや、
他人について語ることはほとんど無い。何かの出来事の状況説明を
することもあまりない。


もし、それをする必要がある時は、必要最小限にするのが良い。


仮に、なぜか長々と状況説明をしている自分に気づいたら、
そのことによって、何かに直面することを避けている自分がいないかどうか
立ち止まって少し考えてみるのが良いかもしれない。


一年前、Helgeとの初回のセッションで、セラピーを通して何を達成したいのかと
尋ねられて、僕は「自分の感情を心行くまで味わえるようになりたい」と応えた。


以前、僕の胸は絶縁体のようだった。
胸の位置で何かを感じると言うことが無かった。


一年間を終えて、僕は、それをいろいろな形で達成することができた。


今は…、


自分の胸の位置に、楽器のようなものが置かれているのを感じる。
風が吹くと、それは自然に、静かにメロディを奏で出す。


僕は、この1年間をサポートしてくれたHelgeにとても感謝をしている。


Helgeは、僕が頭の中で拵えたファンタジーには全く興味を示さなかった。
毎回のセッションで、彼は、僕が今この場で感じている体の感覚について
問い続けた。僕が魂で感じている真実を探るために、この瞬間に感じていることに
意識を向けるようにと、常に僕を促した。


僕は、体の感覚に敏感になる、ということは、自分の内なる声に耳を傾けることに
通じるのだと知った。


常に、自分の体と一緒にいる。


それが、どれだけ大切なことであるか、僕はこの1年間を通して、
静かに、ゆっくり、でも確実に学ぶことができたように思う。


水曜日の最後のセッションは、過ぎゆく一秒一秒をとても貴重に感じたし、
すべての時間を愛おしく思った。


Helgeと僕はセラピストとクライアントと言う関係だったけど、この1年間を通して、
同じ世代だったということもあって、友情と連帯意識が育まれていたように思う。


午後5時57分、最後のセッションが終わる時間が来た。


僕たちは、互いのこれからの人生の実り多き旅路を祈った。
そして、ソファを立ち上がり、互いにがっちりハグをした。


僕は、セラピールームを後にした。


通りに出て、大きく深呼吸をした。
笑顔があふれた。

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SupervisorとのTermination(関係の終了/お別れ)

僕には、2人のIndividual Supervisorがいる。


一人は、Pacific InstituteのSupervisorのLaniで、もう一人が、
CIISのSupervisorのGloriaだ。


僕は、この1年間、毎週、2人のSupervisorからSupervisionを受けていた。


昨日、Gloriaとの最後のセッションだった。
正確には、最後のセッションを持ったのは先週で、今週は、
Terminationのお祝いを兼ねて、Dinnerをごちそうになった。


基本的に、クライアントや生徒とセラピールームの外で接点を持つことは、
セラピスト、あるいはスーパーバイザーとしての職業倫理上、あまりないのだが、


CIISの卒業、Pacific Instituteの卒業、そして、セラピストとも、スーパーバイザーとも、
クライアントとも、レジデントとも、アメリカで知り合った友人たちとも、
そして、アメリカとも…、


Terminationばかりが続く僕を想いやってくれて、一つぐらい楽しくお別れをしましょうと、
企画してくれたのだ。


場所は、彼女のOfficeの近くにあるイタリアンレストランだった。


僕たちは、これまでのセッションを振り返りながら、いろいろなことを話した。


彼女もJewishで、彼女の祖父母は、東ヨーロッパからの移民であったことも、
その時、初めて知った。そして、彼女の夫はドイツ人で、彼の祖父母は、
ナチスの一員だったことも知った。


Gloriaには、娘が2人いる。僕に写真を見せてくれた。
アメリカの東海岸と西海岸を代表する大学を卒業している。
どちらもとても優秀な成績を修めて卒業をしたそうだ。


その時、Gloriaは、「娘たちはドイツ人とユダヤ人の間に生まれて、少し複雑な
少女時代を送ったの…」と言って笑った。


とても爽やかな時間だった。


食事を終え、レストランを出て、僕たちはFillmore Streetを少し歩いた。


一つ目の交差点で、彼女は僕に言った。


「いつかあなたもSupervisorになった時、生徒とのTerminationを何度も
経験するかもしれない。その時は、今日のことを思い出してね。
自分がしてもらったことは、どんどん新しい世代に繋いで行くの」


僕は頷いて、Gloriaにもう一度お礼を述べた。


僕たちは握手をして…、


そして、


別々の方向に歩きだした。

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たくさんのFarewell Parties

ありがたいことに、SFで出会いお世話になった人たちから、
たくさんのお別れ会を企画して頂いている。


この1月は毎週末に何かしらの送別会の予定が入っている。
CIISで知り合った人たち、Pacific Instituteで知り合った人たち、
Tai-chiを通して知り合った人たち…、いろいろだ。


平日は、個別に食事をしようと声を掛けられている。


それは、お世話になったSupervisorだったり、Pacific Instituteの
マネジメントスタッフだったり、レジデントのご家族だったり、CIISのスタッフだったり、
もちろん、CIISやそれ以外で特に仲良くなった友だちだったりする。


また、僕が帰る前にぜひ知り合っておくと良いと、人を紹介してくれる人もいる。
おかげで、今週は、毎日、誰かと会う予定が入っている。
本当にありがたいことだ。


僕は3年前、一人も知り合いのいないアメリカに単身でやってきた。
まったくのゼロから生活を始めたことを考えると、
今の状況は、少し感慨深くもある。


思えば、日本を旅立つ前も、仲間たちにたくさんの送別会を催してもらった。
彼らからたくさんの励ましと想いを受け取った。


いつも背中に感じていたその温かさが、この3年間の歩みを支えてくれたように思う。


そして…、


僕はこの2月にアメリカを発つ。


再び、背中に温かさを感じている自分がいる。

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Guest HouseでのTermination

KHさんとのTerminationを完了させるために、Zen HospiceのGuest Houseを訪れた。


KHさんは、日系アメリカ人の二世だが、日本語を話すことはできない。
第二次世界大戦時のアメリカにおけるインターンメントキャンプ
(日系人の強制収容所)の経験者だ。


僕のクライアントの一人だったのだが、
昨年の12月にHospice CareのためにPacific Instituteを出ることになった。


当時、KHさんは肺炎を患い入院をした。その入院先の病院から
そのままZen HospiceのGuest Houseに移ったので、
僕はお別れを言うことが出来なかった。


幸い、KHさんのいるZen HospiceのGuest Houseは、
Pacific Instituteから遠くない。


KHさんの娘のLyndaは、KHさんを見舞うために、
毎日、Pacific Instituteを訪れていたこともあって、KHさんのインターンの僕は、
Lyndaといろいろ会話を交わすようになった。そして、信頼関係を築くことが出来た。


Lyndaからは、Guest HouseにいつでもKHさんを訪れに来てほしい、そして、
帰国前に、一度、会うことができたら嬉しいと言われていた。


彼女は、Guest Houseを訪れた僕を歓迎してくれて、
事前に用意していたのであろうお礼のカードと小さなプレゼントを僕にくれた。
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左側の説明書きには、


“The guardian of those at life's crosseroads
(人生の岐路にいる人たちの守り神)”とあり、


右側には、Lyndaの僕への感謝の気持ちが書かれていた。
“Many thanks from KM  and her family for all your work and compassion.”


93歳のKHさんは認知症を患っている。しかし、久しぶりに会う僕を、
笑顔と体の動きで歓迎してくれた。


僕のことを覚えてくれているのだと思った。


そして…、


彼女は以前よりも健康そうに見えた。


実は、こういうことはよく起こる。


家族は、その身内の死期が近いと判断して、安らかな最期を迎えられるように
Hospice Careのための施設に移すのだが、そこでなされる手厚いケアの為に
逆に元気になり、来た時よりも良い健康状態で施設を出ることになる。


Hospice Careの施設に入るためには、医者の診断が必要で、
そこへの滞在期間は6カ月間、よほどの理由があれば、
2年まで延長が可能と言うことらしい。


しかし、延長の要件を満たすための基準は、かなり高いそうだ。


身内が元気になるのは嬉しい、しかし、仮に施設を出ることになった時、
その先に施設をどうするか…。良いサービスを受けるためにはそれなりの費用もかかる。
いつどのタイミングで判断をすればよいのか…。


Lyndaは、自身が感じている複雑なストレスを僕に話してくれた。


僕は、KHさんと2人になって、彼女が運動の為に車椅子で歩く斜め後ろを
一緒に歩いた。


KHさんは、オートロックの掛っている玄関まで進むと、その場で止まり、
しばらく動かなかった。


何を思っているのだろう…。
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この日、また一つTerminationが完了した。

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クライアントとのTermination(関係の終了)プロセス

インターンとしての生活も1年間が過ぎようとしている。
今月の17日が最終日だ。


セラピストとクライアントと言う関係を結んできたレジデントと
その関係を終了させること(Termination)は、インターンとして、
とても大事な仕事だ。


通常のインターンプログラムは、8月にスタートするので、
一年後の7月がその終了の時期に当たる。


僕はイレギュラーに去年の1月からスタートさせたので、
今がその時期に当たっている。


去年のインターンが、7月にその時期を迎えていた時に、
クライアントと関係を終了させるときに、もっとも深い学びがあると、
当時、クリニカルディレクターだったAninがしばしば言っていた。


特に、後期高齢者を対象としているPacific Instituteの場合、
その関係は、素の人間としての触れ合い、というとても深いところまで
行くことが多いから、毎年、いろいろなドラマが生まれる。


僕は、この1年間、4人のクライアントを担当していた。


一人は、昨年の12月末に他界した92歳のEMさん、
一人は、ホスピスケアの為に12月半ばに施設を去った93歳のKHさん、
一人は、夫婦でPacific Instituteに住んでいる94歳のアフリカンアメリカンの男性LJさん、
一人は、日系アメリカ人で、現在は日本語しか話せなくなってしまった87歳のHAさん。


僕は昨年12月に、一度に半分のクライアントを失ったことになる。
とても喪失感が大きかったのだけど、僕のインターンが1月に終了することを考えると、
不思議な巡り合わせのような気もしている。


2011年の元日、Pacific InstituteのクライアントのHAさんの
ご家族のご自宅に招かれた。


HAさんの娘さんと、お孫さんと、娘さんが小さなころからお世話に
なっている叔父さんと、僕の4人で、お正月料理を頂いた。
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HAさんは、アメリカで生まれたのだけど、
家庭の事情で1歳のときに祖父に連れられて日本に戻り、
日本で育てられた。日本人と結婚し、2人の子を儲け、
38歳の時に、家族と一緒にアメリカに移り住んだ。


以来、50年近くアメリカに住んでいる計算になるのだけど、認知症を患い、
第二外国語である英語を話す能力を失ってしまい、今は、日本語しか話せない。


セラピストとしての倫理規定だと、セラピストは、クライアントはもちろん、
クライアントの家族ともセラピールームの外で会うことは無い。
理由はいろいろある。そのことについては、これまでも、
このブログで時々触れてきた。


僕は、スーパーバーザーと相談をして、結局、御招きに預かることにした。


いずれにしても、僕自身のプラクティカムがこの1月の終了するのだし、
クライアントのご家族には、これまでの感謝の気持ちを伝えたいという
明確な目的があることだから、大きな問題は無いだろう、自分で判断しなさい、
と言うことだった。


おかげで、僕はとても日本らしいお正月を迎えることができた。


食事をしながら、HAさんの生い立ちについて、ご家族の歴史について、
いろいろな話を伺うことが出来た。


そして…、


例え、Pacific Instituteがどんなに評判の良い施設であったとしても、
例え、重度の認知症を患っていると言えども、自分を育ててくれた親を施設に
預けることがどれほど罪の意識に苛まれるものか…。


涙ながらに心情を語ってくれたご家族に、僕はいろいろなことを考えされられた。


最後、別れ際に、僕はご家族に対して、僕自身がHAさんからどれほど
たくさんのことを学ばせて頂いたかお礼を述べた。


その時、HAさんとのインターンとしての関係について、
自分の中で一つ区切りがついたような気がした。


認知症を患っているHAさんは、施設に住んでいるので、
元日のこの食事の場にはいなかった。


今日、クリニカルディレクターに、HAさんとそのご家族と相性の合いそうな、
僕の次に彼女を担当するのに適当と思われるインターンを推薦した。


僕には、まだあと少し、Pacific InstituteでHAさんと接することのできる時間がある。
最後の最後まで、僕が彼女に出来ることを一緒にしたい。

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2010年の大晦日

2011年がスタートした。


2010年の大晦日、僕は1年前にCIISを卒業した日本人の友人の家に招かれた。
彼女は、現在、セラピストとしてのインターンとヨガインストラクターの
資格を目指して、邁進中だ。


彼女は、昨年の8月に長年付き合っていたアメリカ人男性と入籍をした。


ただ、お互いに愛し合っていながらも、彼女はこれまでの人生において
自立した生活を経験することなしに結婚をしてしまった自分に納得感が持てず、
今年から籍を入れたまま、別居してみることを決めた。


期間は決まていない。自分が納得するまでなのだそうだ。


自分が大切にしたい結婚生活と真摯に向き合うために、
未完了を完了させたいと言うことなのだろう。


僕は、旦那の方も良く知っている。とてもスマートで、心優しいエンジニアだ。
そんな彼女の想いを快く受け止めた。


僕たちは3人で、2010年の大晦日を過ごした。
まったりと、これまでの人生と現在(いま)を夜更けまで語り合う、
素敵な時間だった。


彼女たちの家は、サンフランシスコの高台にある。
眺めの素晴らしい場所だ。その家も、この1月で引き払うそうだ。


僕自身、何度も食事に招いてもらってお世話になった家だ。
お邪魔するのはこれが最後になると思うと、感慨深かった。


形あるものだけではない。形の無いものも、いろいろが変化していく…。


大晦日の夜はあいにくの雨だったのだけど、日付が変わるとき、
2011年の合図となる花火が、遠く海の方向に低く打ち上がるのが見えた。


2010年、自分をこれ以上ないぐらいに深く耕す機会と出会いに恵まれた一年だった。
2011年も、いろいろなと機会と出会いと可能性にオープンであり続ける自分でいたい。

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