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2010年12月

会話の題材としてのYou tube

日付が遡るのだけれども、


クリスマスイブの日に、Pacific Instituteのスタッフ、Kerriの家に夕食に招かれた。


以前、彼女のパートナーのJohnと会う機会があって、 3人で話が盛り上がり、
その続きをしようと約束をしていたのだ。


2人とも僕より年齢が少し上で、Kerriは白人のアメリカ人女性で、
Johnは南アフリカ出身の白人男性だ。
とても気さくな2人で、東洋に関する造詣も深い。


家の中は、2人の共通の趣味の東洋のオブジェと、Johnの母国のアフリカのオブジェ、
そして、アメリカ的な解放感があって、とても不思議な雰囲気があった。


Dinnerの後に、Johnが僕に尋ねた。


「TJ、お勧めのYou tubeは何かあるかい?」


「えっ?」と聞き返すと、


彼らは、面白いYou tubeを発見すると、それを見て2人でしばしば
ディスカッションをするのだと言う。 面白い時間の使い方だと思った。


彼らが紹介してくれたYou tube から2つ。


一つはAwareness Testに関するもの。
「白いチームが、何回、ボールをバスまわしするか数えてください」 というクイズだ。



もう一つは、年老いた父とその子の関係のもの。
父と子の関係にいろいろな投影がなされて、見る人の感想がまったく異なるのが
面白いそうだ。


ちなみに、Johnは、このビデオを自らが教鞭をとるサンフランシスコにある
Golden Gate Universityのクラスで、ディスカッションの教材に使っていると言っていた。



さて、唐突ですが、


2010年、このブログを通して、様々な出会いを頂きました。
読んでくださって、どうもありがとうございました。


2011年も、皆さまにとって素晴らしい年になりますように!

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EMさんのCremation Ceremony

mo29日の水曜日に、EMさんのCremation(火葬)のためのセレモニーがあった。
日を改めて行われるFuneral(告別式)と異なり、身内とごく親しかった
限られたのみで行われるのだそうだ。


僕は、そのセレモニーに招かれた。


養子のTengがタイ出身の中国人と言うこともあるのだろうけど、
Tengと実子のMarkとその親しい友人のYao-yanとAndrew夫妻と僕の6人は、
早朝に、バークレー近くのEmeryvilleにあるタイ寺院に向かった。
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寺院の中は、タイ仏教の空間が広がっていた。
僕たちは、そこで僧侶による読経を聞いた。
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その後、車に乗って、EMさんの遺体が安置されているCremationの施設に、
僧侶たちと一緒に向かった。


そこには、EMさんの、僕が会ったことのない親類が集まっていた。
再びタイ仏教によるささやかな式が催された。
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横たわったEMさんの顔は、とてもきれいだった。
僕たちはEMさんにお別れを伝えて、EMさんは荼毘に付した。


キリスト教徒がマジョリティの国アメリカで、Jewish(ユダヤ人)のEMさんが、
タイ仏教式のお葬式を上げる。Diversityの国、アメリカならではだろうか。
ちなみに、ユダヤ教の伝統に則ると、火葬はしないのが普通だそうだ。


その後、親類たちと一緒に海の傍にあるチャイニーズレストランに行き、
一緒に食事をした。
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僕はEMさんの自伝本を読んでいたので、
家族関係に関する予備知識はあったのだけど…、


それが上手く一致しなくて、円卓で、皆の顔を見ながら、誰がどういう関係なのか、
頭を回転させていた。


Markの前妻のYさんとその息子。Markの姉で現在はNYに住んでいる
Nさんとそのパートナー。


残りの3組のカップルは誰だろうと思っていたら、
EMさんが51歳で再婚をした時のパートナーの連れ子だった人たちだった。


その何人かは、やはり離婚を経験していて、同伴している人が、
法的な夫にあたるのか、そうではなくてパートナーにあたる人なのかは
よく分からなかった。


そんないろいろも、Diversityの国、アメリカらしいと思った。


僕は、TengとMarkから最大級の賛辞をもって、彼らに紹介をされた。


食事の後に、Cremationの施設に戻るのかと思っていたら、EMさんの遺灰は、
Cremationの施設から、サンフランシスコのMarkの家に郵送されるのだそうだ。
合理的と言えば、合理的だ。


帰りの車の中で、Yao-yanが呟いた。


「最期は、誰でも灰なのね…」


すべてを終えて、午後3時過ぎに、家に戻った。
僕はそのままベッドに横になって、夜まで、灰のように眠った。

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Awardにノミネートされる

Pacific Instituteは、自分たちのCore Valuesをとても大事にしている。
そして、毎年一回、そのCore Valuesを具現化して働きながら、
活躍した人たちを表彰するのだそうだ。


僕は、まったく知らなかったのだけど、そのリストにノミネートされていると
他のインターンから知らされて、そうだと知った。


インターンからノミネートされたのは3名だけ。
だから、とても名誉なことだと言われた。


その表彰式とパーティが、今日、LGCビルディングのRooftopで行われた。
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実は、僕は、以前、日本の会社でもAwardを受賞したことがある。


ささやかなことかもしれないけど、ここアメリカでも仕事ぶりが認められたということは、
異文化の中に放り込まれても、自分らしくいることのできる自分なんだろうと思えた。


あと2週間と少しで、僕のPacific Instituteでのインターン生活が終わることを考えると、
有終の美のような感じもして嬉しかった。


僕はここで、2人のスーパーバイザーとの出会いに恵まれて、
クライアントのアサインに恵まれて、
クライアントの家族との出会いにも恵まれて、
2期にわたるインターン仲間たちとの出会いにも恵まれて、
その他大勢のレジデントとの出会いにも恵まれて、
人生についてたくさんの考える材料を与えられて、
Existential-Humanistic Therapyという最先端のカウンセリングに
触れることも出来て…、


1年間と言う限られた時間の中でここで学ぶべき大切なことは、
すべて学べたのかもしれない。


とても自然に完了感を持つことが出来た。


次のステージへ向けて、“Ready to go”。
そんな気持ちになることができた。

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“I will go”と“I can't go”

例年、11月、12月に亡くなるレジデントが多い、と聞いていたけど、
Pacific Instituteでは、今年もだいたいその通りに続いている。


さて、


NWさんは、南アフリカ出身で、裕福な家庭に生まれた83歳の白人男性だ。


元彫刻家で、自分が納得のいく作品を創ることが出来たので、
それ以来、芸術活動からは一切身を引いたのだと、以前、彼の口から聞いた。


とてもジェントルマンで、人間的に深みがあって…、現在は哲学者と言った風情だ。
軽度の認知症を患っていて、最近は、肉体的な衰えも目立ってきている。


その彼が、およそ一か月前の早朝に、無断で施設を抜け出した。
施設内での人間関係には何ら問題もなく、彼自身から不平不満も聞いたことが
無かったので、その理由を誰もわからなかった。


警察に連絡がされ、スタッフもインターンも、サンフランシスコの街を一日中
探しまわった。


結局、その日の深夜、施設からものすごく遠く離れた場所にある病院で保護されたと
連絡があった。彼は、自分の名前と誕生日をかろうじて言うことが出来る
状態だったと言う。


NWさんは、僕がいつも働いているLGCビルディングの向かいにある、
HVCビルディングに住んでいるので、頻繁に接点があったわけじゃない。
でも、ずっとお互いに親しみを感じていた。


彼は自分を担当しているインターンのことは忘れてしまうのだけど、
僕のことはなぜかすぐに覚えてくれた。


昨日、僕は、ソファに座っている彼に声をかけた。
久しぶりに見る彼は、あの外出の日以来、老け込んでいるように見えた。


さて、


どういう話の流れからだったのだろう…。
彼の生い立ちの話になり、彼の両親の話になった。


それは、僕が初めて聞く話だった。


彼の両親は、第一次世界大戦が終わった頃に世界中を飛び回り、
世界平和の講演をして歩いた著名な活動家、冒険家だったそうだ。


彼の名前が、アフリカ大陸を流れる大河からとられたものなのも納得が出来た。


「私は両親を尊敬していた、彼らのようになりたかった」


と、彼は僕に言った。


「彼らと同じステージに立つための自分なりの出来る限りの努力をした。
でも、私にはその才能が無かった…」


そう話す彼の目には涙が溜まっていた。


彼は、何かを続けて話そうとしたのだけど、その時、激しい咳をした。


そして、こう言って彼を僕を見た。


“I can't go...”


自分はもうこれ以上進めない…、そんなメッセージだった。


僕は、彼の真意を確かめたくて、じっと彼の目を見つめた。
彼もじっと僕を見つめた。


しばらくの沈黙の後、彼の目から涙が落ちた。


「私の人生はここまでだ」と彼は言った。


「何もなかった。見つけることが出来なかった。もう何もない。」


彼はそう言った。


僕は、必死で頭を回転させた。


「何かを探しに…、出かけたの?」


彼は頷いた。


彼は、一か月前の逃亡のことを話した。


自由になりたくて、施設を抜け出したのだと言う。
その逃亡自体はすごくエキサイティングだったそうだ。


ところが…、


彼は、抜け出した先で、彼の求めるものを見つけることが
出来なかった。


彼が求めたものは…、自由だ。


自由を探しに旅に出て、どこにも自由を見つけることが
できないことに気づいたのだと言う。


施設に戻ってきてからの彼は、以前よりも少し監視が厳しくなった中で、
まるで何にもなかったかのように、ソファに、日々、座っていた。


彼は、両親の著作を読むようにと僕に言った。
古い本だけど、何カ国語にも訳されていて、世界中の図書館にあるはずだからと。


「なぜ、僕に今日の話を?」と尋ねると、


「私の想いを繋いでくれる素晴らしい若者だと知っているから」


彼は、涙の落ちるままに、僕にそう言った。


僕は、彼を見つめて、頷いて、そして黙って彼をハグした。


先週、他界したEMさんは、“I will go...”と言って、その3日後に旅立った。
NWさんは、“I can't go...”と言って、涙した。


言葉の意味は正反対なのに、EMさんの言葉も、NWさんの言葉も、
同じことを意味している。


NWさんも準備が出来たと言うことなのだろうか。


そういう人たちの言葉は…、いつも、とてもシンプルだ。

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その時、その場に居れたこと

EMさんが亡くなったその日、僕は、駆け付けた家族のサポートや、
送別のぺタルセレモニーの準備やらで、結局、深夜の12時まで
Pacific Instituteにいた。


翌日、EMさんの訃報を知ったCaregiverたちはみんな驚いていた。
通常は、3週間ぐらいかかるはずのプロセスを、EMさんは、たった3日間で
駆け抜けてしまったと…。


昨日、Pacific InstittuteのEMさんの部屋を訪れた。
まだそのままになっていた。


僕はEMさんがいつも座っていたソファに腰掛けて目を瞑ってみた。


でも、特に何か新鮮な感慨が湧いてくるわけでもなかった。


ただ、EMさんと一緒に過ごしたあの日々と時間を経験することは、
もう二度とないのだな、とだけ思った。


プラクティカム先で、インターンとして誰をアサインされるか…。
そして、アサインされたクライアントに何かが起こった時、
その場に居合わせることが出来るかどうか…。


それらは、日本人的に言えば、縁や巡り合わせや運と言うのかもしれないけど、
僕たちインターンが学ぶことに、ものすごく大きな影響を与えている。


僕は、EMさんをアサインされて本当に幸運だった。
EMさんの人生を通して、老いを通して、死を通して、たくさんのことを学ばせて頂いた。
そして、EMさんの家族との出会いは、僕のサンフランシスコでの世界を広げてくれた。


僕は、いろいろな“意味”を考える。


EMさんの2人の息子は、3年半の間、毎日交代でEMさんのお見舞いに通い続けた。


しかし、


実の息子のMarkは、臨終に間に合わなかった。
養子のTengは、親類の住むタイに3週間の予定で戻っていて、
EMさんが亡くなった二日後の昨日、帰国した。


EMさんとその家族から3番目の息子と呼ばれ、一番新しいメンバーだった僕が、
その臨終に、たった一人で立ち会った。


その意味とは、いったい何だろう。


これまでは、どちらかと言うと、養子のTengの方が、実子のMarkよりも
EMさんのお見舞いに熱心だった。週5日、Tengが見舞って、
週2日、Markが見舞っていたぐらいだから。


Markは、TengのEMさんへの献身ぶりに多少甘えているところもあったようにも
見受けられた。


でも、


Tengがタイに行ったことで、Markはこの3週間、毎日EMさんを訪れて、
とても献身的に介護をすることになった。


Tengは、EMさんの最期を看取ることが出来なかったことを悔んで、
悲しんでいたけど、長い目で見て、実子のMarkにEMさんと過ごす最後の時間を
与えることができたことは、とても良かったことではなかったかと思う。


そして、EMさんは、来年1月にインターンを終えて、Pacific Instituteを去る僕に、
まるで最後の、最大の学びの機会を与えてくれたようにも感じている。


その時、その場に居れたこと、あるいは居れなかったことの意味を考えつつ、
僕は、ただ、いろいろなことに感謝したい。

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EMさんとのお別れ

EMさんは、Pacific Instituteの僕のクライアントだ。
92歳で、Pogrom(ユダヤ人の虐殺)の生き残りで、元コミュニストで、
ソーシャルワーカーで、自身に関する本も書いている。


EMさんは認知症と鬱を患っていて、元気のない日がほとんどなのだけど、
僕のことをとても気に入ってくれていて、セッションのたびに僕にキスをする。


もうすぐ担当が一年になる、僕の大事なクライアントだ。


今週の月曜日、EMさんの実の息子のMarkと僕がEMさんの部屋を訪れると、
EMさんは、とても頭が冴えていて、多弁だった。
ごくたまに、こういう日がある。


Markは、僕の方を向いて、嬉しそうに、そして少し驚いた表情をした。
僕たちは、いつもするように3人で会話を楽しんだ。


その時、EMさんがこんなことを言った。


“I think I will go...”


僕たちは、少し驚いた。


Markが尋ねた。


“Hey Mam, Where will you go?”


EMさんが、微笑みながら応えた。


“You know, everybody is supposed to go.”


そして、彼女は、僕とMarkに感謝の気持ちを述べて、それぞれの人生にたくさんの
良いことがあるように、自分に何もできないのがとても残念と言った。


今から思えば、それが彼女のお別れの言葉だった。


でもその時は、いつもと何も変わらず、いつもと同じように夕食をとっていた
EMさんを変だとは思わなかった。


翌日の火曜日から、EMさんは体調を崩した。
水曜日には、呼びかけても首を振るだけでベッドを起きあがることをしなかった。


木曜日の朝、僕が彼女の部屋を訪ねると、呼びかけてもほとんど反応がなかった。


EMさんは、眠かったり、機嫌が悪いと、しばしばこう言うことがあるのだけど、
僕は少し変に思って、Markに電話を入れた。


「何かが変だと思うんだ。今朝、EMさんは朝食を拒否したとCaregiverから聞いた。
今眠っているけど…。今日、いつもより少し早めにEMさんを見舞うのが良いと思う」


「わかった、わかった。早めに行くようにするよ」と言って、
Markは電話を切った。


僕は用事があって、お昼過ぎにPacific Instituteを離れた。
そして、夕方4時半に再び戻ってきた。


実は、僕は友人と会う予定をひとつキャンセルして戻ってきた。
何となく、その方が良いような気がしたから。


EMさんの部屋を訪れると、そこにはホスピスナースがいた。
MarkがEMさんの症状を見て、今日からホスピスケアを行うことを決めたのだそうだ。
Pacific Instituteは、ホスピスケアについて外部と契約をしているのだ。


ホスピスナースたちは、ちょうど引き払うところだった。


僕は、入れ替わりに部屋に入って、1時間半ほどEMさんのベッドの横に座った。
EMさんに声をかけたのだけれど、何の反応も無かった。


ほんの微かに、死の呼吸が彼女の喉から始まっているのが聞こえた。
でも、とても静かだった。


以前、僕は、同じようなホスピスのプロセスを、別のレジデントのHZさんの死を通して、
身近に、深く体験したことがある。


その体験を思い出した。


でも…、


何かが違うと思った。


EMさんは、そのプロセスをものすごく速いスピードで通過しているように感じた。


僕は、再び、Markに電話をした。


「今日は、またPacific Instituteに戻ってくるのか?」と尋ねると、


「彼女の具合、良くないだろう…。ふう…。今日はまた戻るつもりだよ。
でも夜遅くになるかもしれない」と言った。


Markの辛さ、寂しさは伝わってきたけど、切迫感は無かった。


僕は、Markが戻って来るまではEMさんの傍にいようと決めた。


夕方の6時半を過ぎた辺りで、EMさんは、少し苦しそうな表情をして体を動かし始めた。
それでも、HZさんの時に比べたら、とても静かだった。


死のプロセスが始まったのかもしれないと思った。
僕は、ただ静かにそれを見守った。


でも、7時15分を過ぎたあたりで、やはり何かが少し変だと思った。


EMさんの目が少し開いた。焦点は…、無い。
彼女は深い呼吸をする。それが止まる。しばらくしてから、
再び、深い呼吸をする。呼吸の音が少し変わったように思った。
静かなのだけど、擦れた音がする。


そして、呼吸と呼吸の間隔がだんだん長くなっているような気がした。


僕は、7時19分に再びMarkに電話をした。


「Mark、たびたびごめん。直感でしかないんだけど、EMさんの死のプロセスは
通常に比べてとても早いように感じる。早く戻ってきた方がいいと思う」


Markは、「わかった。ありがとう。実は、いま戻っている途中なんだ」と言った。


電話を切った30秒後に、EMさんは再び深い呼吸をした。
息を吐いた後に、EMさんの体が微かにぴくっと動いた。


僕は、EMさんの見つめながら、次の呼吸を待った。


でも…、


いくら待ってもEMさんが再び息を吸い込むことはなかった。


僕は、静かに部屋を出て、Caregiverを呼びに行った。

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認知症を持つクライアントへのセラピー

“remembering self(記憶の中の自分)”と
“experiencing self(この瞬間を体験している自分)”。


このFall Semesterに履修したHakomi Refined Methodのクラスで、
Hakomiの創始者であるRon Kurtzが紹介した2つのSelfの考え方だ。



2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏が、
このアイデアを提唱している。とても興味深い。


日本語のサブタイトルも選べるのでどうぞ。


remembering selfとは、記憶の中にいる自分だ。
クライアントが過去の出来事を話しているとき、そのクライアントは、
remembering selfの話をしている。


一方、 クライアントが今この瞬間に感じていることを話しているとき、
そのクライアントは、experiencing selfの話をしている。


experiencing selfとは、いまこの瞬間を体験している自分だ。
過ぎていく瞬間をひたすら体験していく。そして、それらの体験は
experiencing selfのリソースとなっていく。


ダニエル・カーネマン氏は、幸せについて考えるとき、
これらの2つのselfを区別して考えるべきだと述べている。


「過去を振り返った時に自分の人生に満足している」ということと、
「今この瞬間を幸せに生きている」ということは、まったく別のことだと。


そして、彼はこうも言っている。


“Remembering self is a storyteller”


私たちの記憶は、事実ではなく、創作された物語を私たちに伝えている。
そして、その記憶は、しばしば私たちが今の瞬間を生きることを阻害する
要因にもなっている。


experiencing selfとremembering selfとのスムーズな関係は、なかなか難しい…。


さて、


experiencing selfとremembering selfについて長々と書いたことには理由がある。


僕がCIISで学んでいるCounseling Psychologyには、いろいろがな学派がある。
いずれも“self”という欧米的な概念を軸に展開しているのだが…、


そこには大きく、


experiencing selfにフォーカスし、今この瞬間に起こっていることから
心の真実に迫ろうとする学派と、


remenbering selfにフォーカスし、過去の物語を辿り、意味を組み替えたり、
原体験を探ることで、心の回復を図ろうとする学派があるように思う。


例えば、前者がHakomiやGestalt therapyで、後者がPsychoanalysisや
Psychodyanmicsだ。


実際には、両学派とも、2つのselfを行ったり来たりするのだけれども、
置いている軸足が違う。


ここで僕に芽生えた問題意識とは、純粋にexperiencing Selfのみに働きかける
アプローチは可能だろうか、ということだ。


というのも、僕がPacific Instituteで担当しているクライアントは認知症を患っており、
それはつまり、remenbering selfが壊れつつある状態だから。
彼らが過去の記憶を辿ることは難しい。


しかし、彼らのexperiencing selfは総じて健在だ。


果たして、experiencing selfのみにフォーカスするアプローチとは可能なのだろうか…。


僕は、先週提出したHakomi Rifined Methodのファイナルペーパーで、
この問題意識を、Hakomiの創始者、Ron Kurtzにぶつけた。


僕は、そのペーパーの前段でこんなことを書いた。
認知症を抱えているクライアントとのセッションでは、以下のような特有のことが起こる。


1. クライアントはしばしば1分前に話した会話を覚えていない。
同じ質問を何度も何度も繰り返す。

2. 過去の記憶を遡ることが難しい。
クライアントの話が、過去の実体験からきているのか、
それとも妄想からきているのか、判断が難しい。

3. セラピストを自分の人生における過去の誰かとみなして、
激しい転移や投影を起こすことがある。

4. 防衛機制が機能しないので、セラピストに対し情動や欲求をストレートに
表現することがある。

5. 自分が思い込んでいる話の文脈を離れることが難しい。
会話の方向性の軌道修正ができない。

6. セラピストの顔や名前は覚えていないが、エネルギーレベルでは認識している。
相手が自分を好きか嫌いか、あるいは、相手のエネルギーの変化にとても敏感である。

7. 自分の気持ちや考えをメタファーで表現すること多いので、
セラピストはそれを読み解く必要がある。 

8. Boundaryの概念が薄く、スキンシップを好む。

9. 何かを一緒にすることよりも、ただ一緒にいることの方が大事だったりする。
その際の、彼らの小さな動きや変化に実は大きな意味があったりする。

10. セッションで、クライアントは完全にいまこの瞬間のみの時間を生きているか、
完全に違う時間を生きているか、そのどちらかである 。

11. 言葉を使った自己表現が困難なことが多いので、
アートを使ったセラピーが適していることが多い。

12. 体調、機嫌、調子が毎日、あるいは時間ごとに異なるので、
通常のセッションのように日時を決めて定期的に会うことが難しい。
セラピスト側に柔軟性が求められる。


ちなみに、後期高齢者へのセラピーには3つの目的があると言われている。
1.Preparation for death(死への準備)
2. Finish unfinished business(未完了の完了)
3. Life review(人生の振り返り)



個人的には、1の大目的の元に、2と3の目的があると捉えている。
認知症を抱えているクライアントに、3を行うことは難しい。
よって、その目的としては、2がクローズアップされる。


僕は、簡単なケーススタディと、僕が採るアプローチをペーパーに書いた。


よくあることなのだけど、いつも温和で笑顔の優しいHAさんが、
セッションに訪れた僕を、既に亡くなっているご主人か、兄と勘違いをして、
激しく怒りをぶつけることがある。


彼女は鬼のような形相になって、僕を怒鳴りつける。


「あんた、なぜそこにいるの?!偉そうにして!何でも自分が上だと
思っているんでしょう!私を見くびって!何こっちを見ているの!
その目つきはなに?何が言いたいの?いつまでそこにいるの?
あっちに行けと言っているでしょう!!!」


ここで、僕にはいくつかの選択肢がある。


その場を1時間ほど離れて、HAさんがクールダウンした頃に再び戻って
セッションを始めることもできる。でもその頃には、彼女はすべてを忘れている。


仮に僕が一時間前のことを尋ねても、


「あら、私があなたにそんなことを言うわけがないでしょう」


そう微笑まれたりする。


書くまでもないことかもしれないけど、このようなケースで、
「僕はTJです。あなたのセラピストで、あなたの夫でも兄でもありません」 と
理性的に説明をすることは役に立たない。


それにもかかわらず、2を目的とした場合、僕はその場に踏みとどまり、
彼女の世界に入り込み、僕は、彼女が思いこんでいる過去の誰かになり切る
必要がある。


そして、彼女の怒りの理由を尋ね、彼女に謝るのだ。


「HAさん、ごめんなさい。そんな失礼なことをして…」


それによって、彼女が抱えている何かが完了する時もあるし、
もちろん、しないときもある。定かなことはわからない。


ペーパーには、こんなことも書いた。


別のクライアントのEMさんのことなのだけれども、認知症と鬱を患っていて、
セッション中もずっと目をつぶって沈黙をしていることが多い。


しかし、そんな沈黙の中でも、彼女は僕の手を強く握りしめている。
そして、その手が揺れたり、彼女の指がタイプを叩くように動いたり、
僕の手にキスをしたり、大きなため息があったり、首が横に振られたり…、
いくつかの動きがある。


通常のHakomi Therapyでするように、その動きから、
クライアントの深層に迫っていくことは可能なのかどうか、と尋ねた。


驚いたのは、ペーパーを提出した翌日にRon Kurtzから返答が来たことだ。


認知症を抱えるクライアントのexperiencing selfにアプローチする方法として
とても参考になった。 要点は以下の通り。


1.静かに、温かく、親切な在り方を心がけること。

2.Contact Statementを活用すること。 Contact Statementとは、
クライアントが今この瞬間にしている無意識の動きを、 柔らかく自然な声で
指摘すること。そして、指摘した後は、静かに間を取り、 何が起こるか
よく観察すること。

3. 相手を癒すようなスキンシップを心がけること。
肩や背中に静かに手を置いてみること。
できたら、その時は沈黙していること。

4.クライアントが、その瞬間に体験している感情を出来るだけ短い言葉で
シンプルに伝えること。余分な言葉によって相手の感情のプロセスを阻害しないように。


Dear Mr. Suzuki,

I was moved by the unhappy situation faced by those poor elders with dementia.

I can imagine how difficult it must be for you and your fellow therapists
to work with such compromised people.

I like your idea of relating to the experiencing self as a way to help them.

So, here are some ideas I have about that.

The first thing, and I'm sure you know this, is to remain calm and kind.
Even if the person you are dealing with isn't seeing you at all,
they may respond to your emotional-attentional state. It can't hurt.

Second, the main way to related to the experiencing self is simply
to make contact statements.I did not teach about them in the workshop.
A contact statement is a statement that names the other person's present experience.
It is delivered in a soft, neutral voice. After giving one, it is best to wait attentively
and silently for the other to respond or react.

You are letting the other's experiencing self know that you are aware of
what it is experiencing at the moment.

It may be that by your doing that, the other's experience changes a bit.
That change is the "reply". You must continue to notice such changes and
you can contact them. So, in effect, you are having a "conversation" with the experiencing self. That may have a beneficial effect.

I don't know. I've never worked with a person with dementia.

I also think a comforting touch can be helpful. A hand on the back or shoulder or touching the person's hand or holding it. Do so in silence, is what I'd recommend.
Comforting touch is as old as the first mammal.

Lastly, about naming the other's present experience.
Make you statement as brief as possible. Name the experience in the simplest way possible.

For example: if the person is sad or teary-eyed, just say, "sad, huh."
It is best to not be intrusive, to not distract the person but help them notice
their own present experience and, again, to let them know that you are aware of
what they are experiencing and, through your tone of voice, show empathy.

I also like your idea of responding, when appropriate, as the brother or whomever.
Your example was, to my mind, a good one. If she thinks you are her brother,
be a good brother. Saying you're sorry seems to me to be helpful.
There's no point in trying to convince her that you're not her brother,
I don't imagine. So, why not offer something that might help her.
I have done similar things in therapy sessions with people who weren't burdened
by dementia and it helped.

That's all I can think of at the moment.
If you try these things, I would very much appreciate your letting me know
how they worked.

Best of luck,
Ron Kurtz

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段ボール3箱

Pacific Instituteで僕が担当していたクライアントのKHさんが、
日曜日の今日、施設を出て行った。


ホスピスケアの為の施設に移るためだ。


93歳のKHさんは、ここ数カ月、食が細り、体力も落ちていた。
家族の間でずっと話し合われていたそうなのだが、先週、KHさんが高熱を
出して病院に運ばれた際に、ドクターも交えて話し合いがもたれ、
最終決定がされたとのことだった。


僕は、そのことを、KHさんの娘であるLyndaからのメールで金曜日に知った。


Lyndaは、毎日、Pacific Instituteを訪れて、KHさんのケアをしていた。
だから、僕も自然と彼女といろいろ話すようになった。


僕がKHさんをインターンとして担当するようになったのは、今年の8月からだ。


そのきっかけは、KHさんの娘であるLyndaと、その姉のPatが、
Pacific Instituteを訪れた際に、僕の働きぶりを見ていて、それを気に入って、
僕を自分たちの母親の担当にしてほしいと、当時のクリニカルディレクターだった
Aninに強くリクエストをしたことだったそうだ。


後日、Aninからそれを聞いた。


KHさんは、アルツハイマーを患っているものの、とても温和で静かで、
いつも微笑みながら、車椅子に座っていた。


普段は寡黙なのだけど、彼女は僕を見ると、良く笑って、話しかけるので、
LyndaとPatは驚いて、そして、とても喜んだ。


不思議なのだけど、KHさんは打ち解けて、話をして、笑顔になって、
しばらくすると、“Who are you?”とよく僕に尋ねた。


今回、KHさんは、入院先の病院から、そのまま、ホスピスの為のゲストハウスに
移ると言うことなので、僕はお別れを言うことが出来なかった。


今日、日曜日の午後、Lyndaが、KHさんの荷物を整理するために
Pacific Instituteに来ると言うので、僕は手伝いに行った。


KHさんは、3年半、Pacific Instituteに住んでいた。


基本的な持ち物は、大半が衣類だ。それらに加えて、靴、枕、毛布、
そして、壁に掛けられていた写真と絵と花が少し…。


大きな段ボール3箱分だ。


それが、93年間生きて来たKHさんの、死期を間近に控えたKHさんの、
生きていくために必要な持ちものすべてだ。


綺麗に片付けられて、温もりの消えたKHさんの薄暗い部屋で、
3つの段ボール箱を見下ろしながら、僕は考えた。


所有とは…、幻想だ。


いずれ死ぬ人間が、真の意味で所有できるものなんて、
ほとんど、いや、実は、何も無いのかもしれない。


もし、人は何も所有することができない、という前提に立つとすると、
僕たちは、いったいどういう人生の目標を立てることが出来るだろう。

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Good Byeをプロセスする

CIISでは、“プロセスする”と言う言葉がしばしば使われる。


「自分で自分の内側を探究する、発見的に掘り下げていく」
そんな意味だろうか。


先週、僕はCIISの最後のクラスを終えて、今日、最後のペーパーを提出した。
順調にいけば、ただ卒業を待つだけだ。


もちろん、次に向けてすべきことは山ほどあるのだけど。


CIISが終わり、そして、プラクティカム先のPacific Instituteの終わりが続く。
僕のサンフランシスコ・デイズも終わりが近づきつつある。


最近は、何か特別なことをしているわけでもないのだけど、
自分についていろいろ考えたり、感じたりすることが多くて、
感情的に疲れる毎日だ。


こういう状態を、“プロセスしている”と言うのだと、CIISで久しぶりに
再会した友人にそう言われて、納得した。


以前、ブログで少し触れたことがあるのだけど、
作家の遠藤周作氏が、“生活”と“人生”の違いについて書いている。


生活とは、仕事やキャリア、地位や名声やお金…、
生きていくための日常のいろいろだ。


では、人生とは…、


わかりやすくシンプルに言うと、僕たちが人生と思っているものから、
仕事とキャリアに関わるものをすべて差し引いた後に残っているものだ。


生活を充実させることは、とても大事だ。
でも、忘れがちなのだけど、その後ろに果てしなく広がっている
人生を視野に入れておくことも大事だ。


僕たちは、日常の生活を生きるのにとても忙しい。
だから、人生についてじっくり考える事が少ない。


遠藤周作氏曰く、


人生について考えるためには、生活の中に「しーん」とした時間が
入り込んでくることが必要ということだった。


その「しーん」とした時間を、彼は、「人生の時間」と呼んだ。


それをもたらしてくれるものは、幸せや喜びよりも、苦悩の方が多い…。
彼はそう書いた。


話は変わるけど、


手元に、友人が貸してくれた一冊の本がある。
借りっぱなしになっている。


その本を読んで、僕は、「さようなら」の語源が、「そういうことならば」
「そうであるならば」という接続詞だったことを知った。


英語でも調べると、“Sayonara”の文字上の意味は、
“If it is to be that way...”という風にあった。


それを僕たちは、Good byeの意味として使うようになった。


新鮮な発見だった。


現代の日本社会では、Good byeという意味で「さよなら」を使うことは、稀だろう。
特別なケースにしか使われない。


そもそも、人と人の出会いは縁で、人が決められるものではないという
人生観があるからだと思う。


“もしそういうことならば…”、お別れして、
“もしそう言うことならば…”、再会するのだ。


考えてみれば、「袖触れ合うも多生の縁」と言う言葉があるぐらいだ。
今生でGood byeと言っても来世で再び出会うのだから、人が自らの意思で、
Good byeということは意味のないことなのだろう。


Good byeを言うことを諦めた社会、そして、言わなくなった社会、
それが、現代の日本なのかもしれない。


でも、ここアメリカでは少し事情が違う。


日本に比べると、遥かにGood byeに積極的に向き合う。


サンフランシスコで知り合った仲間たちがたくさんのPartyを企画してくれている。
その呼びかけにも、"To say good bye to TJ" とある。


そのたびに、何かが僕の胸をチクリと刺す。


改めて、


僕は、日本にいた時、Good byeと真剣に向き合ったことが無かったんだなあと思う。
良く言えば、何となく繋がっている優しさ…、と言えるのかもしれないけど。


Pacific Instituteでのインターンも、今日で残り、ちょうど一ヶ月となった。
たくさんのGood byeが僕を待っている。


今日のサンフランシスコは朝から強い雨が降っている。


たった今、ルームメートが一人、日本に帰国するために家を出るのを見送った。
大学を卒業したのだ。


タクシーの乗り込む彼女に、さよなら、と言うべきかどうか迷ったけど、
やっぱり、言えなかった。


「また…」とだけ言った。


僕は部屋に戻って椅子に座った。


今の僕には、たくさんの「しーん」とした時間がある。


いいことだ。

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Happy ChristmasとHappy Hanukkah

Thanksgivingが終わると、クリスマスモード一色になる。
街もテレビも。
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Thanksgivingからクリスマスにかけては、アメリカ人にとって最もハッピーな
時期と言えるかもしれない。Holiday気分が国中に溢れている。


Pacific Instituteでも、クリスマスの飾り付けがされる。
みんなでお祝いをしようと言う気分で盛り上がる。
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クリスチャンではない僕も、温かい敬虔な気持ちになる。
日本でも、クリスマスはファッショナブルで、何となくおめでたい日として
認識されているから。


ところが、


言うまでもなく、クリスマスは、キリスト教徒の宗教的行事だ。
だから、クリスマスを別の感じ方で捉えている人たちも、
ここアメリカにはたくさんいる。


ユダヤ教を信じる人たちは、そのひとつの例と言えるかもしれない。


Pacific Instituteにもユダヤ人はたくさんいる。
クリスマスの飾り付けによって、自分たちは、違う宗教であるクリスマスの祝日を
社会的に押し付けられていると感じている人も少なくないのだと知った。


彼らにとっては、この時期は、Happy Hanukkah(ハヌカ)。


紀元前165年に、ユダヤ人の英雄Maccabaeusが、エルサレムをシリアからの
支配から奪還し、ユダヤ寺院をその地に再建した。


その時に灯した一日分の油が、8日間、
燃え続けたと言うことに由来している祝日なのだそうだ。


8本の蝋燭を、毎日、一つずつ灯していく。
それは8日間のお祝いだ。


太陰歴による祝日だから、毎年、日にちは多少ずれるのだが、
だいたいクリスマスのシーズンと重なっている。


12月はHappy Merry Christmas...


僕はこの時期は、いつも何となくそんな気持ちでいたかもしれない。
でも、実のところ、なぜ、このシーズンが僕にとってHappyで、Merryなのか。


宗教行事を祝うことの意味合いと、それが他者に与える影響を、
一度、立ち止まって真剣に考えてみる必要があるかもしれない。


ロビーの片隅に、とても控え目に小さく飾られていたHanukkahの飾り付けを
眺めながらそんなことを思った。
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CIIS最後のクラス

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今週の木曜日、僕がこのFall Semesterに履修していた
Integrative Seminarが終了した。少人数のゼミナール形式のクラスだ。


同時にそれは、僕がCIISで履修する最後のクラスでもあった。


まだ提出するPaperが残っているものの、卒業に必要なすべてのクラスを
履修し終えたことになる。


最後のクラス…。


僕の生活の中心は、CIISからプラクティカム先のPacific Instituteに移っていたし、
別に何の感慨もないだろうと思っていたのだけど…、


クラスの最初にいつも行うチェックインの時間に話をしたら、
不覚にも涙が出てきた。


いや、正確には、出てきそうになった。
危うくこらえたのだけど。


この3年間、自分を掘り下げるプロセスだらけのCIISのクラスを履修し続けたにも
関わらず、結局、僕はクラスで泣くことはなかったと、実は残念に思っていたので、
ギリギリに少しだけ達成できたことを恥ずかしく、同時に嬉しく思った。


クラスでは、一人ひとりが思い出の品を一つずつ持ち寄りシェアをし、
卒業に関してこれまで支援してくれた人への感謝の意を述べた。


そして、クラスメート一人ひとりに配られたカードにメッセージを書いて、
交換した。


残りの時間は、ポトラックパーティだった。
教室で、料理とワインと会話を楽しんだ。


クラスメートの中に、2年前にグループダイナミクスのクラスで一緒だった女性がいる。
とても優秀な女性で、きっと素晴らしいセラピストになるだろうと僕は確信している。


その彼女が僕に言った。


「この3年間でね、実は私が一番影響を受けたのは、TJ、あなたよ。
あなたから受けた影響のことなら、私はたくさん話せるわ。


特に、心に残っているのはね、あなたからもらったフィードバック。


あなたは私にこう言ったの。


“Anne、あなたを例えると、Round Smooth Rockだ。表面がすべすべしていて、
とてもきれいな岩なのだけど、誰も登ることが出来ない”


すると、隣に座っていた気の強いお調子者のMarieが、
TJに尋ねたわよね。


“あら、面白い!じゃあ、私は何?”


あなたはこう応えたわ。


“Marieは、ゴツゴツしたでこぼこの岩だよ。見た目は悪いんだけど、
誰でも登ることができる”


皆が、その通りだと大笑いしたわよね。


でね、私は、あれ以来、“Round Smooth Rock”の意味を
ずっと考え続けているの。


良くも悪くも、自分自身の本質をこのぐらい見事に表現してくれている
メタファーはないと思ったから…。


このセメスターに履修している別のクラスで、私はそのことについて、
ファイナルペーパーを書いたのよ」


過去、2つのクラスで一緒になったことのあるJonathanからはこう言われた。


「TJ、君の話す言葉は力があるんだ。気づいていたかい?
英語はTJにとって第二外国語なのに不思議だよね。


口から出る言葉が…、自ずと詩になっているんだ。
だから、魅せられるし、とても考えさせられるんだ」


僕の英語がイマイチだから詩みたいに聞えるんじゃないか、
と勘ぐってみたけれど、最後のクラスと言うおめでたい場でもあるし、
嬉しくそのまま受け取った。


3年前を思い出した。


僕はクラスで何が議論されているのかまったくわからなかった。
2人組、3人組のロールプレイがたくさんあるクラスで、英語の聞き取れない自分を、
話せない自分を情けなく思うとともに、クラスメートに対していつも申し訳なく思っていた。


あれから、3年間…。


僕はここアメリカで、影響を受けるだけでなく、影響を与えていた。
気づかないうちに、たくさんのクラスメートに影響を与えていた。


僕は、CIISが与えてくれた時間と経験に感謝し、
それを通り抜けてきた自分を誇りに思った。
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衰えと成長と変化

「衰えていくクライアントに対して、自分は何もできない。
セラピストとしての無力感を感じている…」


昨日のGroup Supervisionで、あるインターンが悩みを打ち明けた。
何人も頷いた。もちろん、僕も頷いた。


認知症が進行していく。心身の健康が衰えていく。
レジデントと日々接していると、それを明らかに感じる時がある。


実は、クライアント自身もそれに気づいている。


昨日まで出来たことが、ある日、突然出来なくなる。
あるいは、昨日まで覚えていた身近な顔を忘れてしまう。
出来たり出来なくなったり、忘れたり思い出したり、その頻度が上がっていく。
そして、そのことに苛立つ。


自分だと思っていた自分が失われていく…。


そんな自分をセルフイメージとして受け入れていくのは、
困難の伴うとても大きな作業だ。本人にとっても、本人を支える周囲にとっても。


さて、


冒頭のインターン仲間の発言に僕が頷いたのは、
確かに僕もそう感じていた時期があるからだ。
ああ、自分もそう感じていたと思い出したからだ。


でも、いつの間にか、そのことで悩むことは少なくなっていった。


なぜだろう。


僕は、そのことに興味を持った。
そして、そのことについて考えた。


Growth(成長)は良くて、Decline(衰え)は悪い。
普通はそう考える。


でも、本当にそうか。


それら二つの本質は、ただ“変化している”ということだけであって、
一つの本質に対して、俗世の価値観で意味づけをしたのが、
“良い変化のGrowth”と“悪い変化のDecline”ということだけなのではないのだろうか。


僕たちは、本質的には、ただ変化していくだけの存在で、
Therapistの仕事は、その変化をサポートすることだとしたら、
クライアントのGrowthをサポートすると同時に、クライアントのDeclineを
サポートすることも、その範囲に含まれるはずだ。


繰り返すと、


変化がクライアントや周囲の望む喜ばしい方向であれば、
我々はそれを成長と呼ぶ。


変化がクライアントや周囲の望んでいない哀しい方向であれば、
我々はそれを衰えと呼ぶ。


セラピストは、前者では意図の達成を支援し、後者では現実の受容を支援する。


僕たちセラピストは、


クライアントが変化していくことをサポートしている。
クライアントが美しく衰えていくことをサポートしている。
クライアントが現実を受け入れ続けていくことをサポートしている。


日々レジデントと接して、いろいろ経験しながらこう言うスタンスに立つことができた時、
以前に感じていた無力感は、どこかに消えていた。


いや、探せばあるのかもしれないけど、
いつの間にか、そういう問いの立て方をしなくなっていた。


僕自身も、Pacific Instituteでの経験を通して変化している。

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たくさんのTermination

CIISの秋セメスターもほとんど終わりに近づいている。
今週が最後のクラスだ。つまり、僕はCIISを卒業するということだ。


セラピストとは、何のプロフェッショナルか、尋ねられたら、
それは“Relationshiship”のプロフェッショナルのことだ、と答える。


僕はCIISでそう教わった。


だからこそ、


カウンセリングサイコロジーの世界では、
Termination(関係の終了)がとても大事なテーマとして扱われる。


僕は、Pacific Instituteのクライアントの一人ひとりと関係性を
終了させていかないといけない。


プラクティカムのTherapistとして始まったクライアントとの関係は、
プラクティカムが終わったら終わるのだ。


どんなに人間的な結びつきが出来ていたとしても終わらせないといけない
そういう言う決まりだから。


だいたい、長ければ2ヶ月、短ければ1ヶ月ほどかけて、
インターンとクライアントはTerminationをテーマに話し合いを重ねていく。


そして、毎年、インターンの誰もが、多かれ少なかれクライアントとの間に
ドラマを経験する。それが一番の学びだったりする。


Termination(関係の終了)。


僕のセラピストであるHelgeとの関係もそうだ。


原則として、セラピストとクライアントはセラピールームの外で会うことはない。
人と人との関係性とは非常に微妙なものだ。外で知ったお互いの情報から
余計なダイナミズムを発生させることで、無用な投影や転移、逆転移が
起こることをことを避けるためだ。


たかだか毎週1時間ほどの関係とは言え、そこで話される内容は深い。
セラピストとクライアントと言う制限された関係であるものの、
当然、信頼関係も生まれている。


だから、Terminationについて話し合うことがとても大事になる。
それについて、僕たちはいつから話し合おうかと、
最近、Helgeが確認するようになってきた。


僕には、2人のスーパーバイザーがいる。
現在は、Pacific InstituteでアサインされているLaniと、
CIISからアサインされているGloriaだ。


2人とも、とても信頼できるベテランセラピストだ。


セラピーではなく、スーパーバイズなので、セッションでは、僕の自分のことではなく、
僕のクライアントのことを話す。だから、セラピーとは異なるのだけど、
いかなる関係性も自分時便の内面と無関係ではありえない。


だから、彼女たちとのセッションの中では、しばしば僕の内面に関することも
テーマに上る。


僕はスーパービジョンで、僕のクライアントとのTerminationについては
もちろん、僕とスーパーバイザーとのTerminationについても
話し合うことになる。


プラクティカムが終了する来年1月が過ぎたら、僕はすぐアメリカを発つ。
それは、サンフランシスコとのTerminationだ。


留学することは小さいころからの憧れで、CIISに来ることは、
7年越しの計画だった。だから、CIISを卒業するとは、
自分の夢とのTerminationだ。


そして…、


それは、人より少し長かった僕の青春とのTerminationでもあるのかもしれない。


サンフランシスコで出会い、親交を得たたくさんの人たちとのTerminationもある。
この場合は、いろいろなTerminationというよりも、Good byeと表現することの方が
適切かもしれないけど…。


アメリカに来る前の自分と、実際にアメリカに来て3年間を過ごした後では、
仮にそのまま日本にいた時とは違う内面の変わり方をしているのだと思う。
その自覚はあまりないのだけど、考えないといけない。


それはおそらく、自分の中にある、日本のある部分との
Terminationになるのだろうと思う。


残りのサンフランシスコデイズ、


たくさんのTerminationが僕を待っている。

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涙したい

土曜日、日曜日、月曜日…、ぽろぽろ涙を流して泣いた。
何回も何回も…。


僕はこんなに泣けるんだ、と驚いた。


CIISに来る前は、カウンセリングサイコロジーを学ぶことによって、
自分の心をもっと上手に扱えるようになって、逞しく、強くなれるのだと
思っていたのだけど…、実際に僕が手に入れたのは、どうやら、それとは真逆の
自分のようだ。


僕は、日本では、あまり泣いたことが無かった。
おそらく、日本社会で生きる多くの男性がそうであるように。


怒ったら負け。泣くのはもってのほか。感情はコントロールするものと教えられた。


泣くのは弱いからだ。男らしくないことだ。恥ずべきことだ。
本当に悲しかったら泣けないものなんだ。


これらは、どこで覚えた言葉なのだろう…。


だから、何かがあった時には、その悲しみに向き合わないようにするために、
余計に仕事に没頭する。あるいは夢に向かって、更に自分を加速させる。
心を他に向けるために徹底的に自分を忙しくする。


カウンセリングサイコロジーでは、悲しみや苦しみの感情に直面しないようにするための
心の働きは、すべてディフェンスメカニズムだと教わった。


そして、僕はそれがけっこう上手かった。


土曜日の朝、ある出来事があって、僕は、自分の心のディフェンスメカニズムを
これまでのように働かせることはストップさせようと強く強く思った。
いまの僕に必要なことだと直感したから。


そうしたら、哀しくてたまらなくて…、
でも、その気持ちに正面から向き合って、一緒に居続けて…、


すると、涙が次から次へと溢れて来て…、泣くしかなかった。


シャワーを浴びながら声を上げて泣いた。


僕はこう言う風に泣くのか…。
自分に驚きながら泣いた。


翌日の日曜日、去年のインターンだった友だちと久しぶりに会う約束になっていた。
お昼を一緒に食べて、サンフランシスコの街を歩きながら話していたら…、
涙がまた溢れていた。


月曜日の朝、Pacific Instituteの朝ミーティングの後、仲良くしてもらっている
2年目のインターンが声をかけて来て…、そうしたら僕はまた泣いていた。


午後12時からのPacific InstituteでのLaniとのスーパービジョンでも泣いた。
午後3時からのGloriaとのスーパービジョンでも泣いた。


Gloriaとのスーパービジョンから戻ってきて、レジデントのEMさんの隣の椅子に座った。


認知症と鬱を患っているEMさんは、いつもは無反応なのに、彼女は僕をじっと見つめて、
笑顔を浮かべると自分の紅茶の入ったカップを静かに僕に差し出した。


僕はまた涙が落ちそうになった。


すべては僕から切り出した話だった。
だから、自業自得なのだ。


でも、これがこんなに悲しいことだとは思わなかった。


あの人も、きっと海の向こうで泣いているんだろうなと思う。
でも、潔い人だから、歯を食いしばって耐えているんだろうなとも思う。


僕は、自分の計画と心のプロセスを促進させないといけない。
もっともっと未来に向けて遠くに飛ぶために。
何よりも自分自身のために。


だから、身と心とをもう一度軽くしたい。


そんな我儘を受け入れてくれた彼女の器と優しさと愛に感謝しながら…、


僕はまた涙したい。

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もてなしのスタイルの違い

SuzanneとDenissとその家族たちと一緒に数日間過ごさせてもらって感じたのは、
この家庭には何でもあって、決定的に無いものがある、ということだ。


それは…、


気配りの空気。


別に、悪い意味じゃない。


言えば何でも出てくるし、自分で何でも取りに行けばいいのだけど、
自分から行動を起こさないと何も出てこない。


水も、マットレスも、タオルも枕も、お昼ごはんも出てこない。


普通、人と人の間には、何か、見えない“気”のような繋がりがあって
温かい配慮が流れている感じがするものだけど…、


ここでは、そこにあるのはただの空間で、窒素と酸素と二酸化炭素が
スースーと流れているだけのように僕には見えた。


だからと言って、居心地が悪いわけじゃない。
家族の絆が無いわけじゃない。


Suzanneの両親も、家に泊まりに来ていた。2人とも80代だ。
お爺さんは、とても静かで、よく家のことをする。


彼は翌朝、Dish Washerの中にあるお皿を片付ける。
残りの汚れたお皿をDish washerに入れてセットする。


こまごまと動く。


僕は、それを見ると申し訳なく思うのと同時に、体が動いて、
お爺さんを手伝う。


でも、Suzanneやお婆さんや他の親類たちや友人は、それを手伝うわけではない。
新聞を読んでいたり、テレビを見ていたり、音楽を聞いていたり、散歩に出たりする。


僕はお皿を片づけながら考える。
僕が感じている申し訳なさは、いったいどこから来ているのだろう。
皆は感じていないようなのに…。


そして、別に手伝ったからと言って、お爺さんは僕にお礼を
言うわけでもない。


その場にいる人と人の関係性から、何かを迫られることが一切ない。


あくまでも、“自分次第”だ。あなたがしたいことをその場でするだけだ。
そして、周囲はそれをリスペクトする。


人がいつもと同じ自分でいることができるようにすること。あなたらしさを尊重すること。
そういう“もてなし”のスタイルも、慣れると、そこそこ心地よい。
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幸せに辿りつくためのプライス

Thanksgiving中に滞在していたLAでは、僕は、アメリカ人の友だちの
叔母のご自宅にお邪魔をしていた。その叔母の名前がSuzanneで、
夫の名前がDennisだ。


2人とも弁護士の資格を持ち、経済的に大成功を収めている。


彼らは、UCLAのLaw Schoolでクラスメートとして出会った。
Suzanneはワシントン州の出身で、会社を休職して法律を学びに来ていた。
一方、Dennisはカリフォルニア州のLA生まれLA育ちだった。


UCLAで2人は恋人同士となった。卒業後、Suzanneはワシントン州に
戻らなくてはいけない。2人は友人として別れることを選んだ。


それから、年に3回ぐらい電話でやり取りをして、5年に一回、
大学の同窓会でSuzanneがLAに来た時に食事をすると言う関係が続いていた。


両人とも35歳で別々の人と結婚。


お互いに不幸な結婚だったと言う。


Suzanneのパートナーは、素晴らしい男性だったそうだが、
仕事でプレッシャーがかかると人が変わったようになって、
Suzanneと周囲の人を傷つけたそうだ。


Dennisは、その時、付き合っていた女性が妊娠をしたために
結婚をした、ということだった。


当時の、お互いの弁護士としてのキャリアは素晴らしく、
お互いのパートナーも弁護士として同様に素晴らしい成功を収めていて、
誰もがうらやむカップルだったそうだ。


その後、Suzanneは47歳で離婚。
Dennisは49歳で離婚をして、その年に、お互いが49歳で再婚をした。


LA滞在中の先週土曜日の朝8時、皆が起きてくる前にソファに座っていた
Suzanneといろいろ話す機会があって、上記のような少しプライベートな話に
触れることになった。


「何でも聞いてくれて構わないわ」と、彼女が言ったので、
僕はもう少し踏み込んで尋ねてみた。


「1度目の結婚の時も、おそらく、賢いあなたのことだから、いろいろ考えて相手を
選んだと思う。でも、結果的に不幸な結婚になってしまった。
そして、いまはDennisと結婚して幸せだと言う。1度目と2度目では、
結婚の時の相手を選ぶ基準の何が違ったの?」


彼女は、少し考えてから、こう言った。


「違いについて考えたことは無かったけど…、


一度目の結婚のときはね、頭の良さ、キャリア、人間としての魅力、の3つで選んだわ。
でも、今はね、同じ価値観、同じ世界観、同じユーモアセンス、
この3つがとても大事だと思うの。


これらは、前の結婚のときには、私のリストには明らかに無かった要素ね」


「でもDennisには、後半の3つだけでは無くて、頭の良さも、キャリアも、
人間としての魅力もあると思うけど…」と僕が言うと、
Suzanneは、「そうね、私はラッキーだわ」と笑った。


彼女は続けた。


「それと…、


相手がストレスをどうコントロールする人なのか、それを知っておくことも
大事だと思うわ。ほら、普段は見えなかったりするものだから。


それに加えて、私の場合だと、強いselfの持ち主であることは大事ね。
動じない自己のある人。伝えたいことを伝え合える関係であることはとても大切。


私は、言いたいことを言うわ。でも、そのことによって相手を萎縮させて、
私がそれを利用するような関係にはなりたくないの」


彼女は、いまセミリタイヤの生活だそうだ。
Dennisと一緒に暮らすために、ワシントン州での仕事を手放して、
カリフォルニアに移ってきた。


「輝かしいキャリアを手放すことには躊躇は無かったの?」


僕がそう尋ねると、彼女は言った。


「私には、過去の仕事で自分が本当に納得できる出来栄えのプロジェクトが
2つあった。もうこれ以上の仕事は、後にも先にもないだろうって思えた。


実際に、その後、それ以上の仕事には出会えなかったわ。
その経験は、私のキャリアへの執着を薄めさせたかもしれないわね…」


「キャリアとリレーション…。


自覚があるのだけど、どうやら私はキャリアとリレーションの二つのバランスを
取ることがあまり上手じゃないタイプのようなの。


その点、Dennisは私より上手いわ。


働くときは働く。働かないときは働かない。
訴訟が起こっているときには、週60時間。朝7時から夜中まで働くけど、
そうではないときには、午後2時に帰ってきて、2人で映画を見に行くわ」


「キャリアだけ見ると、私は、Very successで、DennisはGreat Success。
私が働かなくても、生活には困らないの。


彼は、私にリタイヤライフをプレゼントしてくれた。
そう思っている。


私は、今は弁護士としては、気の向いたときにだけ、興味の湧く仕事を
引き受けているの。自分でリズムとペースを作ることのできる今の生活に、
私はとても満足しているわ」


彼女が、現在のライフスタイルと、リレーションを手に入れるために支払ってきた
プライスと人生の紆余曲折を、少しだけ伺い知ることが出来た。


人生にも、キャリアにも、リレーションにも、長い間にはたくさんのことが起こる。
判断を誤ることもある。だからこそ、時々の判断に縛られることなく、
長期的な視野で、いろいろな可能性に自分を開いておく知恵を持ちたい。
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朝の散歩とDennisの話の進め方

木曜日は、僕たちを招いてくれたDennisとSuzanneの親戚や友人たちを呼んでの
Thanksgiving Dinnerだった。


この日は、朝から予定を入れずにゆっくりと過ごし、お昼ぐらいから
ディナーの準備をする。


七面鳥、スイートポテト、サラダ、パンプキンパイ、シャンパン、
ワイン…。


朝、Dennisが犬の散歩に行くと言うので一緒に出かけた。


カリフォルニアらしい抜けるような青空の下を歩きながら、
Dennisの質問に僕が答えると言う形で会話は進んだ。


何を学んでいるんだ、という話から、卒業後は何をするんだという話になった。


僕は、今、いろいろな選択肢が目の前に出て来て迷っている
ところなんだと話した。


短期的な選択肢としては、
-世界を一年かけて旅をする。
-サンフランシスコで給料をもらいながら別のサイトでインターンを続ける。
そして、MFTを目指す。
-Agesongでマネジメントスタッフとして2年ほど働く。
-日本で勤めていた会社に戻る。


中期的な方向性としては、
-日本でエグゼクティブコーチング、あるいはエグゼクティブ向けのセラピーの
事業を自ら起こす。
-日本でAgesongのような、Assisted Living事業を始める。


長期的には…、何だろう。


僕は、思いつくままに話をした。


短期的な選択肢は、どれも可能性がある。
ただ、それはすべて来年の話だ。もし僕が1年間旅に出てしまうと、
残りの選択肢が再来年はどうなるか、それは定かではない。


彼は、こんな質問をしながら、僕の話を整理し出した。


「で、TJはどれが一番したいことなんだい?」


「仮に、もしそれをしなかったら、君の人生はどうなると思うんだい?」


「話を聞く限り、君の中での方向性は明確なように僕には感じるけどね。
それをするに際して、どんな躊躇があるのかな?それをする心の準備が
出来てないのかな?」


早朝のLAの街と、真っ青な海と、なだらかに続く海岸を見下ろしながら
僕たちは会話を重ねた。


「世界を1年かけて一周して来ようと思う。
そして、アメリカでもう2年ぐらい経験を積んで、日本でAssissted Livfingを
始めてみたいと思う。


でも、僕がそこに向けて前に進むためには、僕の思考と行動と生き方に
深いところで影響を与えている“日本の常識、習慣、文化、ノーム”と
思われる部分を乗り越える必要があると思う」


最終的には、会話はそんなところに絞り込まれていった。


彼は言った。


「オーケー、文化的なノームと言うのは、社会的なプレッシャーや、
世間や周囲の目と言う理解でいいかな。


要は、周囲を説得できればいいと言うことだね?
違うかい?」


少し違う気もしたのだけど、そういう問題の落とし込み方をしないと、
確かに話がそれ以上進まなくなってしまうのだろうなと思って、
特に意義を挟まなかった。


彼はその文脈で会話を続けた。


「こう言うのはどうだい?


これまでの人生経験を通じて、これからの残りの人生をかけてやりたいことが
明確になった。そのために、過去の経験を未来のビジョンに繋ぐための時間と
体験が必要になる。過去と未来をBridgeする体験だ。


おそらく、それが世界を旅する理由になるだろう。


世界を旅するには、テーマを持つといい。例えば、世界の中のAssissted Livingの
実際を見て来るというのはどうだい?


世界の老人たちがどんな人生を送っているのか、何を想っているのか、
その表情を直に見てくるんだ」


話はどんどん続いた。


とても参考になったし、面白かったし、刺激にもなった。
でも、僕にとって一番興味深かったのは、話の内容以上に、Denisの話の進め方だ。


相手に突っ込んだ質問をしながら、情報を積極的に仕入れる。
それらを整理して相手との間に合意をつくる。


そして、仕入れた情報の点と点とをクリエイティブに繋げていく。
その繋いだ線に、自分のリソースとアイデアをつぎ込んで立体にし、
提案をつくり、相手に自信を持って語る。


Dennisに限らず、アメリカの弁護士は、こういう話し方のスタイルなのだろうか。


このところ、セラピューティックな、ある意味、“受容のコミュニケーション”に
慣れ親しんでいたので、物事を決めて、提案をまとめようとする彼の話の進め方は、
とても新鮮で、どこか懐かしく思った。


「たくさんのアイデアと解決策をありがとう」


僕がお礼を言うと、彼は笑いながら言った。


「この提案の代金の請求を送る代わりに、僕たちが日本に行ったときに、
築地で寿司と言うのはどうだい?」
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幸せとは...成功とは...Thanksgiving in LA

このThanksgivingの祭日を利用して、Los Angelsに行った。
Pacific Instituteのインターン仲間の家族の集まりに誘われたのだ。


Thanksgiving Dayの前日、水曜日の朝にサンフランシスコを車で出た。


Santa Barbaraで渋滞に巻き込まれた他は、比較的スムーズで、
10時間ほどで、友人の親せきの家に着いた。


その親戚は夫婦揃って弁護士で、とても成功しているカップルだと聞いていた。
共に60歳で、UCLAのLaw schoolの同級生だったそうだ。
共に離婚経験があり、ご主人と前妻との間に娘が一人いる。
その娘は、前妻と一緒に住んでいる。2人の間には子供はいない。


僕は…、


彼らの桁違いの経済的な成功ぶりに驚いた。


その豪邸は、Living RoomからLAの街と海岸をすべて見渡せる高台の上にあった。
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ガラス張りの、天井がとても高い家で、床や壁は絵画や美術品で溢れていた。
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昼間は真っ青な海が、夕暮れ時はオレンジ色に染まっていく空と水の色が、
夜は、LAの街の明かりと星空が息を呑む美しさだった。
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庭には、石をくりぬいたプールが水を湛えている。
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その下には、区画を世界の植生に区切った庭園が広がっていた。
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リビングルームには、小さな映画館のスクリーン並みの大きさのテレビが
壁一面にかかっていた。


近隣の家々も、お城のような大邸宅ばかりだ。
お金の心配をすることなくクリエイティビティを如何なく発揮させて、
まるで、どちらがユニークか競争しているかのようだ。


アメリカ人が成功と考える条件のすべてが凝縮されているような世界だった。


僕がこう言う世界に魅力を感じるかどうかは別として…、


僕の中の意識の枠を広げてくれた体験であることは間違いない。


結局、僕は日曜日まで5日間、その家に滞在した。


不思議なもので、初日の驚きは徐々に消え、3日目を過ぎるぐらいには、
少なくとも、家と美術品と大テレビには慣れてしまった。


ただ、刻々と変化する景色の色合いは、相変わらず素晴らしかった。
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この大きくて広くて贅沢な空間に、彼らは、犬一匹と、猫一匹と一緒に住んでいる。


僕は、豪華な家具と美術品に囲まれながら、リビングルームからの絶景を眺めながら、
そして、彼らの話を聞きながら、果たして、僕にとっての成功とは何か、
僕にとっての幸せとは何か考えた。


Thanks giving Day(感謝祭)。


僕が感謝を捧げたいものは何だろう。

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11月の青空たち

11月は、サンフランシスコでもっとも美しい季節だと言われている。


空が青々と澄み渡る。そこに浮かぶ雲は、時に質量を感じる3次元の塊であったり、
時に不思議な広がり方をする2次元の模様だったりする。


僕は、サンフランシスコの街を自転車で駆けながら、しばしば立ち止まって、
空に向けてシャッターを押す。


サンフランシスコの丘から見下ろす晴れた日の海も好きだけど、
そんな日のサンフランシスコの街の上に広がる雲の模様も好きだ。
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CIISで過ごす最後の11月の空たちは、少し胸にヒリリとした。

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等身大で自由な人たちの集まり

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Pacific Instituteのレジデントで、僕のクライアントのEMさんの2人の息子、
TengとMarkから、いつも紹介したいと言われていた人がいる。


Andrewだ。


2人が実の兄のように慕っている人で、サンフランシスコのKaiser Hospitalに
勤務していた医者だと聞いていた。


現在はリタイヤしていて、1年の半分をサンフランシスコで過ごし、
残りの半分を南フランスとイタリアで過ごしている。
悠々自適の生活だ。


彼は、中国系アメリカ人で、北京語、広東語、英語はもちろん、
イタリア語もアクセント無しで話すことができる。小さい頃、
日本にも数年間住んでいたことがあるそうだ。
だから、日本語も少しだけ話すことができる。


彼はVisaの関係で、先日のTengの70歳のサプライズバースデーパーティに帰国が
間に合わず、イタリアからビデオカメラで参加をした。


そのAndrewが帰国したので、TengとMarkとTai-chiの仲間たちが
Ocean Avenue沿いにある北京料理のレストランで夕食会を催した。
そこに僕も参加させてもらったのだ。


Andrewは、とても柔らかい物腰の知的なジェントルマンだった。
温かい人間性が、体全体から滲み出ていた。


僕たちは、北京ダックをはじめとして、いろいろな肉料理を
食べながら会話を楽しんだ。


実は、Andrewは、ずっと前から僕の話をTengとMarkからたくさん聞かされていて、
会うのをとても楽しみにしてくれていたそうだ。


僕自身も、TengとMarkから、


「世界一周の旅でヨーロッパに寄った時は、ぜひAndrewを尋ねるといい。
彼は本当に素晴らしい男で、TJを絶対に歓迎してくれるから」


と聞かされていた。


僕はAndrewからCIISを卒業したら何をするつもりなのかと尋ねられたので、
いま置かれている自分の状況を簡潔に説明した。


バックパックを背負って1年間をかけて世界一周をしてこようと計画していること。
その後は、日本ではなく、アメリカに残ってもう少し経験を積みたいと思っていること。
僕は、現在、サンフランシスコでいくつかのAgencyから仕事のオファーをもらっていること。
でも、もし1年間の旅に出てしまうと、そのオファーは無しになるかもしれないということ。


すると、Andrewは静かに微笑みながら言った。


「今しかできない旅を選びなさい」


それを傍で聞いていたTengとMarkが、「ほら、俺たちと同じ意見だろう」と続いた。


その場に居合わせた他のメンバーも、同じ意見だった。


隣に座っていたMarkが僕に耳打ちをした。


「TJは自分をもっと信じていい。1年後でも、TJなら必ずここで仕事を見つけることが
出来る。Pacific Instituteは絶対に待ってくれるだろうしね。
TJにはそういう運と人柄があるよ」


実は、Markも若いころに世界を放浪した経験を持っているのだ。
だから、人生における、その意味と意義をよく知っている。


北京料理で重くなった胃とは裏腹に、僕の気持ちはずいぶん軽くなった。


この集まりには、人との繋がりを大事にしながら、等身大の人生を歩んでいる、
自由な心の持ち主ばかりがたくさんいる。
それが、とても勉強になる。
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選択肢と自分

この時期、CIISとプラクティカム先であるPacific Instituteの卒業を間近に控えて、
いろいろ考える。


3年間の約束で日本の会社にポジションを残してきたものの、実は最近になって、
アメリカでもう少し経験を積んでみたい気持ちが湧いてきた。
このことは、以前のブログで少し触れた。


この3週間ほどの間に、僕の目の前にいくつかの具体的な選択肢が現れ始めた。


Pacific InstituteのCEOのNaderから、オークランドでのトレーニングの帰り、
車中で、インターン終了後もPacific Instituteに残ってマネジメントスタッフとして
一緒に働いてみないか、と声をかけられた。


事業拡張意欲の強いNaderは、つい最近、サンフランシスコの市から依頼を受け、
高齢者に限らず幅広い年齢層のクライアントを収容するファシリティを
運営することを決めたそうだ。


カウンセリングだけでなく、マネジメントにも精通したスタッフを彼は求めている。


それとは別に、Pacific Instituteで僕のスーパーバイザーを務めているLaniからは、
こんな話をもらった。彼女は、CIISのサイコロジカルドクターコースである
PsyDプログラムのファカルティメンバーでもある。


PsyDプログラムのカウンセリングセンターのディレクターも
務めていて、とても評判が高い。僕は、彼女ととても良い信頼関係を築いている。


その彼女のもとに、サンフランシスコにあるいくつかのAgencyから
アメリカで心理学を勉強した、信頼のおける日本人インターンを紹介してほしいと言う
依頼が来ているのだそうだ。


彼女曰く、もし僕がサンフランシスコでセラピストを目指す希望があるのであれば、
僕はまさに彼らの求めるスペックに合うのでぜひ推薦したいのだけど…、
ということだった。


またThanksgivingの始まる一日前に、サンフランシスコで知り合って、
現在はドイツのハンブルグ大学で組織心理学の教鞭を取っている親友の
Saschaからメールが来た。仕事の誘いだった。


ハンブルグ大学で「日本とドイツの文化の違い」をテーマにした
Cross Culture Trainingの予算を立ち上げたいと考えていて、
僕と一緒に3日間のワークショップをファシリテートしたいという内容だった。


そのメールには、1000ユーロぐらいは払えるかもしれないから、
僕が予てから計画しているCIIS卒業後の世界一周バックパック旅行の費用の
足しにしたらどうだろうと書いてあった。そう、僕は、CIISを卒業したら、
1年かけて世界一周の旅をして来ようと以前から考えているのだ。


いずれの話も、とてもありがたいことだ。


ただ…、


アメリカに残って働くという話は、旅が終わる1年後まで待ってくれるという保証はない。
日本の会社にだって、これ以上、甘えるわけにもいかない。


いずれにしても、僕は、この数週間の間に、方向を決めないといけない。
旅か日本かアメリカか仕事か…。


話は少し逸れるけど、クライアントの意思決定の選択肢を増やす、というのは、
ビジネスコーチングにおけるゴールの一つだった。
人の視野は、誰しも限定されがちだから。


ビジネスに限らず、目の前に常に選択肢の拡がっている人生と言うのは、
選べない人生よりも、おそらく豊かだ。


だから、コーチングにおけるそのゴールの意義は、すごく良く理解できる。


でも…、


拡がる選択肢を目の前にして、果たして、クライアントがその中から一つを
選ぶことのできる“自分”を持っているかどうかということは、
また別のテーマだ。


その瞬間、クライアントは、自身の世界観や価値観、ビジョン、バランス感覚、
自己の強さなどの内面の奥深い部分が問われている。


つまり、甲乙つけがたい複数の選択肢を創造できる能力と、
その中から一つを選択できる自分を持っていることとは、
別の話かもしれないということだ。


選択肢を創造することの出来る自分と、
その中から一つを選択することのできる自分。


僕は、自分の中に“選ぶことのできる自分”を持っているだろうか。

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人間性で繋がっているコミュニティ

去る11月20日、Pacific Instituteのレジデントで、僕が担当しているクライアントである
EMさんの息子、Tengのサプライズバースデーパーティに参加してきた。


Tengは今年70歳になる。と言っても、Tai-chiのマスターで、ヨガの勉強もしていて、
ベジタリアンだから、とてもそうは見えない。


今回の企画は、Tengが主催しているTai-chiのメンバーが中心だった。


僕もTai-chiのメーリングリストに加わっている。
2カ月ぐらい前から、人数確認、会場の準備や後片付け、用意する食事、
お酒、プレゼント、お皿やフォーク・ナイフ、参加者が全員が羽織るお揃いのTシャツ、
どういう風にTengに知らせるか…、たくさんのメールが飛び交った。


会場になったのは、Noe Valleyの一番の高台にあって、
Castro Streetに一軒だけある小さなクッキー屋で一財産を築いた
TengとMarkの友人の家だった。
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その日はあいにくの天気だったけど、リビングルームからダウンタウンを
眺める景色は素晴らしかった。
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最終的に、50名以上が参加した大きなパーティになった。
当日、参加できずに滞在先のイタリアから画面で参加した人もいた。
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この集まり、何かが新鮮だなと思って、ずっと考えていたのだけど…、
全員が、Tengの人間としての繋がりで集まった人たちなのだなと思って腑に落ちた。


会社の繋がり、仕事の繋がり、学校のつながり、子供の繋がりではなくて、
本当に、ただのTeng個人としての繋がりなのだ。


みんな、Tengの中の人間性に自分と重なる部分を発見して、その部分で繋がって、
そして、その部分を長い時間をかけて深めてきた人たちばかりだった。


だから、一人ひとりがTengの人間性の欠片(かけら)をそれぞれの中に持っている。
その意味で、今回の集まりの質は、Tengの人間性の質そのものだと思った。


そのせいもあって、僕にとっては初対面の人がたくさんいたのだけど、
リラックスして最後まで楽しく時間を過ごすことができた。


僕は、Tengと彼の人間関係の輪の中にいるといつも考えさせられることがある。


仕事やキャリアにおける成功は大事だ。


でも…、


人生はそれだけじゃない。


純粋なる自分自身として、あるいは素の個人として繋がっている人間関係を
どれだけ持っているか。その人間関係の中にある同質性と多様性のバランスを
どれだけ豊かに味わうことが出来ているか。


それは、満ち足りた人生を送るための、とても大きな要素のように思う。
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