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2010年10月

San Rafaelにて

Dsc09946
San Rafaelは,、Bayを挟んでSan Franciscoの北に位置する、とても小さな、
洗練された町だ。


僕は、Pacific Instituteの昨年のインターンだったMikeとhikingの待ち合わせを
するために、この街で2時間を過ごした。


歴史的にも貴重だと言われている、
街を見下ろす位置にあるSt. Raphael Churchに行ってみた。


中に入る。とても広い。
男性の独唱によるアベマリアが歌われていた。


上を見ると、正面の壁にイエスキリストが十字架に
掛けられている像が掲げられている。


厳かな雰囲気とアベマリア、誰でも敬虔な気持ちになる。
彼の足もとに、身を捧げたくなる人の気持ちが、何となくわかるような気がした。


前方に小さな集団がいた。


Funeral(告別式)だ…。


15人ぐらいの参列者の、とても慎ましやかなFuneralが行われていた。
僕は、これも何かの巡り合わせかなと思って、目立たない左の最後方の
長椅子の端に座った。


途中で抜け出すつもりだったのだけど、司祭者が起立してください、と
言ったので起立したら、僕も、その風景の一部になってしまった気がして、
抜けることが出来なくなってしまった。


しばらくすると、彫刻の施された白い棺とそれを運ぶ喪服の男性たち、
花束と蝋燭と、そして、白い服を着た司祭が、4人の子供を先頭にして
回ってきた。


僕は、静かに頭を下げた。


何年も、何十年も、いや、何百年も、ずっと繰り返されてきたセレモニーなのだろうと
想像した。他の誰かが亡くなっても同じように見送って、いつかは自分も見送られて…。


古い教会だから、きっとこの人が生まれた時も、ここで洗礼のセレモニーが
されたはずだ。コミュニティの一員として生まれ、歓迎され、コミュニティの
一員として生きて、コミュニティの一員として誰かを見送り、いつかはコミュニティの
一員として自分も送られる。


生まれた時と亡くなる時、どちらも当事者としての記憶はないのだろうけど、
生きている時にそれを見て知る。


代々繰り返されてきたのと同じやり方で、自分が生まれた時にどう歓迎されたのか、
自分が死んだ後にはどう見送られるのか、それらががわかっている、
周囲と共有されているというのは、いざというときに安心感があるだろうなと思った。


結局、途中から参加したその式は、30分ほどで終わった。
僕は、教会を後にした。
Dsc09948

街中にあるインド料理のレストランで昼食をとった。
そして、いまスターバックスでコーヒーを飲みながら、この文章を書いている。


今日のサンフランシスコは雨、サンラファエルは曇り空だ。
ハイキングトレイル入口の住宅街に広がる紅葉が綺麗だった。
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踏み込むための構造

深層心理と関係性を重視するPsychodynamicsを専門にする2人のスーパーバイザーと、
Here and Nowと体の感覚を重視するGestalt Therapyを専門にするセラピストと、
それぞれ毎週セッションを持つことで、最近、気づいたことがある。


気づきと言うには、あまりにもシンプルなのだけど…。


Gestalt Therapyをアプローチの基本に据えるHelgeは、
セッションの冒頭、僕に対してほぼ絶対に「どんな一週間だったか?」
あるいは、「今日の気分はどうか?」というフレーズで会話を始めない。


いずれの質問によっても、クライアントは過去の出来事の話をすることになる。
成功体験だったり、失敗体験だったり、それに対する感情だったり。


そして、セラピーの時間の少なくとも半分は、それによって費やされることになる。
“過去”というレコードの溝をただなぞる、生産的とは言えない時間だ。


Helgeはその代わりに、僕にこう尋ねる。


「今日のこの時間をどう使おうか」


そして、そのプロセスの中で、話が過去に行きそうになると、
適当なところで、体の感覚にフォーカスさせるような質問が飛んでくる。


僕は、お腹や胸のあたりで感じるその感覚を、いろいろなメタファーを使って
表現することになる。


そして、それらの表現から、僕の人生や生き方に対して、
いったいどういう洞察が可能になるか、ともに探っていく。


一方で、サイコダイナミクスを専門にする2人のスーパーバイザーは、
こういうアプローチをとらない。


何があったか、何を話したいかを聞いてくる。


だから、僕は、過去の一週間に起こった目ぼしいことから、
テーマになりそうなことを話す。


彼女たちのセオリーによれば、クライアントの話す過去は、事実ではない。
すべてが自身の過去の体験によって歪められたレンズによって
見ている幻影に過ぎない。


つまり、僕が話すどんな内容も、おそらく、僕の内面が投影されているに
過ぎないと言う風に捉える。


だから、ほどほどのタイミングで、内省を迫る柔らかい
フィードバックが飛んでくる。


もしあなたのレンズがこう言う風に歪んでいると仮定して、
その歪みをこう言う風に変えることができたら、何が見えるか。
あるいは、こう言う風に見えたりはしないか。


その指摘が、鋭ければ鋭いほど、本質をついていればついているほど
セッションに沈黙が生まれる。


僕は彼女たちの視点を借りて、自分の内面を深く探っていくことになる。


そして、その瞬間に、セッションのテーマは、僕が最初に話していたものから、
より僕自身の本質に迫るものにスイッチすることになる。


セラピーの世界には、色々なアプローチがある。


それぞれのアプローチに甲乙をつけるというのではなく、
まったくj違うアプローチなのになぜ機能するのか、それをもっと知りたい、
自分の言葉でとらえたい。


自分なりのアプローチを確立するために。

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プロセスワークのイメージ

ビリヤード台の上にある玉をイメージしてみる。


どこからか転がってきたボールが、別のボールにぶつかって、
そのボールが転がり出す。


ある問題が自分の中に生じたのは、どこからから転がってきたボールが
自分の中のボールにぶつかったから。


そのインパクトを受けて、僕の中で、ボールが転がり出す。


これは因果関係のイメージだ。


そのボールは、僕の中で転がり続けている。
その転がっているボールについて、僕はセラピーで話そうとする。


因果関係を分析しようとするアプローチをするのであれば、
いま転がっているボールは無視して、そのボールにぶつかった、
ひとつ前のボールに注目するかもしれない。


そのひとつ前のボールがどこから転がって来たのかを辿っていく。
更にもうひとつ前のボールを発見するかもしれない。
どんどん後ろに、つまり過去に遡っていく。


そして、僕たちは、最初の一撃が、親との関係から来ていることを
発見するかもしれない。


原因を理解する。それによって、同じルートを通って、同じ方向からぶつかってくる
ボールに反射的に“反応”するのではなく、理性的に“対応”出来るようにする。
これはこれで、一つの解決アプローチだ。


一方で、プロセスワークは、これとは少し違う考え方をする。


ぶつかってきたボールがどこから転がってきたのか、その来た方向を辿って
行くのではなく、いまその人の中で転がっているボールの方に着目をする。


そして、そのボールが転がる先に何が待っているのかを探ろうとする。


まさにボールが転がるプロセスを、クライアントと一緒に辿るのだ。


このアプローチは、“問題は、その問題自体がより本質的な問題の解決策の種を
宿している”、という考えに基づいている。


例えば、ある問題がある人にとって問題となるのは、その問題自体ではなく、
その人の問題の捉え方によるところが大きい。


これは、ある人にとって問題となる事柄か、他の人にとってはまったく
問題にならないことからも容易に想像できるかもしれない。


すると、大事なのは、本人が自分のものの捉え方の傾向や癖に気づくこと、
ということになる。


それを掴むために、セラピストはボールがどこに転がっていくのかを
クライアントと一緒に見ようとする。


これは、Exixtential-Humanistic Psychotherapyの大御所たちが、
Pacific Instituteのトレーニングでロールプレイのデモによって
見せてくれたアプローチとまさに同じだ。


僕は、原因を過去に探求するのではなく、クライアントとHere and Nowを共有し、
そこから起こる会話を一緒に辿ることが、なぜセラピーとして機能するのか
どうしても掴めなかった。


上のボールのメタファーは、今週、Pacific Instituteに招かれたLane Ayreという
プロセスワーカーが僕の質問に対して使ってくれたものだけど、Laneのこの説明は、
プロセスにフォーカスすることがなぜ機能するのかを理解するための貴重なヒントを
僕に与えてくれた。


ちなみに、Laneは、プロセス指向心理学の創始者であるアーノルド・ミンデルと
20数年間、いっしょに仕事をしてきた人で、全米でももっとも優れた
プロセスワーカーの一人と言われている。今月から、毎月一回、僕たちの
トレーニングのために来てくれることになった。


CIIS、そして、Pacific Institute。
僕は大学院に二つ通っているような贅沢な気分になる。

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たくさんのサポート

昨日の火曜日、Pacific InstituteでCEOのNaderとミーティングをした。


以前から予定をしていたミーティングだったのだけど、
今回のInvestigation(調査・取調べ)の件もあったので、ちょうど良いタイミングだった。


「悲しいことに、全員が警察官のようになってしまっている。
自分は警察官だと意識すれば、お互いのしているあらゆることが疑わしく見える。


残念なことだけど、いまCaregiverとInternとの間で起こりつつあることは
そう言うことだと思うんだ。 そして、今回のTJの件は、ちょうどその狭間に
落ち込んでしまったのだと理解しているよ」


しばらく沈黙があった。 今の状況を、どのようにして、温かいサポーティブな
コミュニティに戻していくか、彼が頭を悩ませている様子が伝わってきた。


Caregiverとインターンの間で、今のような状況が続けば、
一番、被害を被るのはレジデントたちなのだ。


「お年寄りにキスをされるなんて、この施設では良くあることだろう?
僕だって、Pacific Instituteに13年間住んでいるJJさんから、 13年間、
会うたびにキスをされ続けているよ。


ただ、Lip to lipではないけどね。


それなりに、交わす技術が必要なんだ。
僕の取っておきの方法を教えようか」


と言って、Naderは笑った。


僕は、Naderとのミーティングの後、Pacific Instituteを訪れた
Evaの家族とミーティングをした。


僕は彼らからとても信頼されている。


彼らは今回の件を非常に残念がり、同時に、ものすごく怒ってくれた。
TJを擁護するために経営陣に直談判する、とオフィスに出向いて
ディレクターに抗議までしてくれた。


3階のフロアに行くと、あるCaregiverが近寄ってきた。


「TJ、いろいろ大変だったと話を聞いたよ。
僕はTJが問題になるようなことを何もしていないと最初から信じていたよ。
だから、今回の件を後に引かないで欲しいけど…」


その後、Duty Dayの仕事でPacific Instituteに来ていたインターンのRalphが
僕に声をかけてきた。少し話をしたいんだけどいいかな、と。


実は、彼が、あるCaregiverがレジデントにしたことをオンブズマンに
レポートしたことから、色々なことが始まっていた。


彼は、自分が正しいことをしたのと思っているけど、それによって起きていることに、
彼自身も混乱していると悩んでいた。


「マネジメントスタッフやCaregiverから、自分がとても悪いことをした人間であるか
のように思われていることが伝わってくる。今の自分は誰にもサポートされていない。
Pacific Instituteは自分にとって安心してインターンが出来る環境ではないと感じるんだ」


Ralphは、僕に、そんなことを訥々と語った。


彼は、法に則って、自分が信じることをした。


正しいことがなされたはずなのに、
今のところ、誰もハッピーになっていない。


なぜだろう…。

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最近について

「ファイナルセメスターには、プレッシャーがいろいろな方向から掛かってくる。
だから、心理的負荷の高いセメスターになることが多い。
そして、それが普通なんだ…」


僕が現在履修している唯一のウィークデイのクラス、
インテグラルセミナーの冒頭にインストラクターがそう言っていたのだけど、
Fall Semesterが半分を過ぎて、そして、CIISでの生活も残り2カ月を切るようになって、
それが少しわかるような気がする。


気持ちが…、何となく落ち着かない。
現在(いま)の位置に立ち止まって、自分を深く掘り下げることが難しい。


すると、ブログも描けない。


毎日、いろいなことが起こっているのに、
僕の意識は、過去に未来に流れてしまう。


僕がこの3年で学んだことは?未来のビジョンは?
これまでの人生で積み上げてきたことと、それらをどう繋げる?
そして、僕はどういう生き方を?


僕より唯一この家に長く住んでいたルームメートが先月部屋を出た。
アートスクールを卒業し、LAにインターン先を見つけたのだと言う。


僕より先にCIISで学んでいた日本人女性が3人いるのだが、
既に全員が卒業し、今年、全員がアメリカ人のボーイフレンドと入籍をした。
アメリカに住むのか日本に帰るのか、いろいろ悩んだ末の選択だったと聞いている。


僕のコフートを学校で見かけることはない。
ほとんど全員が今年の夏のセメスターで卒業をした。


CIISに行っても、知らない顔の方が多くなってしまった。


いつの間にか、たくさんの変化が僕の周りで起こっている。


その変化に抵抗をしたい自分がいるのを感じる。


でも、結局…、


誰も変化と無関係ではいられないのだ、とも思う。

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グレーゾーンでする仕事

本当にいろいろ続いている。


いまPacific Instituteで議論が重ねられているのが、
“老人の虐待に関するレポーティング”についてだ。


虐待とは、暴力や性的なハラスメントだけでなく、Neglect(無視・放棄)なども含まれる。


僕たちインターンは、施設で老人虐待と思わしき状況に遭遇し、
理性を働かせて充分にその疑惑ありと判断したら、それが真実かどうかは
わからなくても、それを外部組織のオンブズマンにレポートする法的な義務がある。


同じ組織の上層部にレポートするのではない。外部組織のオンブズマンに
ダイレクトにレポートするのだ。


というのも、もし発見者がその疑いを組織内の上層部に報告をしても、
その声はもみ消されてしまう可能性があるからだ。


これまで、Pacific Instituteは、そういうレポーティングとは無縁だった。
だから高い評判を得ていたと言えるし、そのぶん、虐待の判断やレポーティングの
手続きについては、組織内で徹底されていなかった。


今年の新しいインターンに、弁護士としての長いキャリアを持っている男性がいる。
とても落ち着いていて、周囲の信頼も厚い。


2か月ほど前、彼が、ある男性レジデントから、
シャワーの際にCaregiverから性的に不適切な扱いを受けたことがあるという話を聞いた。


ちなみに、そのレジデントは、認知症と妄想を患っている。


その報告をどう判断するか。


そのインターンは、確かな疑惑ありと受け取った。
そして、外部組織にそれをレポートした。


法的にそう決められているのだから、彼は正しいことをしたことになる。


彼のレポーティングによって、Caregiver一人ひとりに対して
個別調査が行われた。


専門家が呼ばれ、Caregiverだけでなく、僕たちインターンに対しても
虐待のレポーティングについてトレーニングが施された。


組織内で虐待やレポーティングの意識が高まった。
それは必要なことだし、とても良いことなのだろう。


しかし…、だ。


その後のPacific Instituteでは、
InternはCaregiverを監視し、CaregiverはInternを監視する、
お互いが、お互いを監視するという空気が生まれた。


去年は、InternとCaregiverの協力関係が最も上手くいった年と
言われていたのだが…。


更に、今週末、僕自身にこんなことが起こった。


あるCaregiverが、なんと僕のことをレポートしたのだ。
僕は土曜日にPacific Institeteを訪れていたのだが、その時に、
あるレジデントに対して僕が不適切な行動を取っていたというのがその内容だった。


それは、以前もこのブログで触れたことがある僕のクライアントの
EMさんに対してということだった。


EMさんは、認知症と鬱を患っている92歳のレジデントだ。


ちなみに、僕は、EMさんとも、そのご家族とも、とても良い関係を築いている。


実は、EMさんは、僕と会うたびに、lip to lipのキスをする。それも複数回だ。
もちろん、僕が生まれ育った文化圏には無い習慣だ。


もちろん、最初は抵抗はあった。セラピストとしての適切な境界線をどこに引くべきか、
僕は、スーパーバイザーと何度も話し合ってきた。グループでも話し合ってきた。
実は今も話し合っている。


そのCaregiverは、僕からEMさんにキスをしていると思い込んだらしい。


…。


更に、


僕は、今週と来週のクリニカルプレゼンテーションで、EMさんの事例を扱うので、
資料作成のために、彼女とのセッションをビデオテープに収め、且つ、
彼女の写真を撮る必要があった。


もちろん、EMさんのご家族にも了承を取っていたし、
そうすることをスーパーバイザーへ報告もしていた。


目的なく、個人的な趣味で勝手にレジデントを撮影しているとなれば、
確かに問題だろう。


それらのことを知らないCaregiverは、最近のPacific Instituteの
レポーティングの流れに則り、上記の二つの行為を疑わしいと報告をしたのだ。


個人としては面白くない出来事だったけど、組織的には、
よく教育が行き届いた証と言うことか。


今回のレポーティングは、外部組織ではなく、まずはCaregiverの上司に話が行き、
そこから、インターンの統括責任者に話が行き、上層部に話が行き、そして、
僕に話が来た。


土曜日の話だったのだが、週明けの月曜日の今日、Pacific Instituteに行くと、
いきなりInvestigationを通告された。


と言っても、ベテランのインターンが一人脇について、僕の行動を監視する、
というものだけだったけど、気分の良いものではなかった。


疑わしきは、法に則ってレポートする。
すべてはレジデントの為なのだけど…。


今回の件に関して言えば、きちんと説明をすることで僕自身の疑いは晴れた。


というより、僕の日頃の働きぶりを知っている上層部の人たちは、
最初から僕に対して何の疑惑も持ってはいなかったように思う。


ところが、気分的にはイマイチだ。
なぜなら、Caregiverとの信頼関係の問題が残っているからだ。


すべてを水に流して爽やかな気持ちで明日から働きましょう、という具合には
どうもいかない。


ここから先は、僕が個人的にワークしなければいけない問題かもしれないけど。


認知症を持つ高齢のレジデントに関わる仕事は、グレーゾーンだらけだ。
僕たちは、グレーゾーンのど真ん中で仕事をしているのだ。


適切・不適切の基準は人それぞれだし、出身の文化圏が違えば、
なおさらその基準は異なる。


もちろん、誰がどう見ても無難と思われる安全圏に留まりながら関わることもできる。
しかし、それではレジデントと真の信頼関係を築くことはできない。


常に「いま自分のしていることは適切かどうか」という問いを頭に置きながら、
より深い信頼関係を築くために、グレーゾーンに向けて踏み込んでいく。


もちろん、上手くいく場合もあれば、失敗するときもある。
そうやって試行錯誤を重ねながら、信頼関係を築いていく。


でも、安心できる環境でなれば、そういうチャレンジは不可能だ。


今回の件に関して、先輩インターンからは、TJは何も変えなくていい、
Defensiveにならないように、とアドバイスをされたのだが…。


ちなみに、


今回、僕が撮ったEMさんとのセッションのビデオには、
認知症を患う高齢のレジデントと接するときに考慮すべき材料がすべて
含まれているように思う。


通常のセラピーセッションとは大違いだ。


交わされる会話はほとんどない。
手をホールディングしながら、ただただ一緒にいる。


でも、確かにコミュニケーションは交わされている。


もちろん、キスされるシーンも写っている。


その発表を、今週はCIISのクラスで、
来週はPacific Instituteのグループスーパービジョンで行う。


どんな反応があるだろうか。

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違ったのは何か

いろいろ続いている。


今日、HZさんが住んでいたLGCビルディングの道路を挟んで向かい側にある
HVCビルディングに住んでいたRHさんが亡くなった。
88歳だった。


目がほとんど見えず、耳もほとんど聞こえないため、いつも怒鳴るように話していた。
San Francisco Giantsの大ファンで、いつもラジオを耳にくっつけて
中継を聞いていた。


手のかかる寂しがり屋で、どことなく愛嬌があって、
みんなに愛されていた。


僕は、個人的は深いつながりはなかったのだけど、
危篤状態にあると聞いて、水曜日の夕方、彼の部屋を訪れた。


RHさんはしばらく見ないうちに、すっかりやせ細っていた。
HZさんに比べたら、とても静かなDeath Rattleだと思った。


今朝も彼の部屋を訪れた。
呼吸は、昨日よりも弱々しくなっていると感じた。


半開きの目が、ゆっくり左右に動いている。


僕は、30分ほど部屋に留まっていたのだけど、
向かいのLGCビルディングでグループアクティビティをファシリテートしないといけないので
午前10時半に部屋を離れた。


そして、彼は1時間後の午前11時半に静かに息を引き取った。


RHさんを担当しているインターンは、ホスピスケアを
僕にコーチングしてくれたAlanだ。


彼は、ずっとRHさんの部屋にいた。


僕は、午後、再びRHさんの部屋を訪れて、Alanと2人で、
RHさんが静かに横たわるベッドの隣に座った。


しばらくの沈黙の後、僕はAlanに尋ねてみた。


「HZさんの時に比べたら、とても静かな、落ち着いた死だと思った。
人それぞれ、いろいろな死に際があるんだね…」


するとAlanは言った。


「そう?僕はそう思わなかったよ。
HZさんの死も、RHさんの死も、とても良く似ていた。


HZさんの時とRHさんの時とで、もし違いがあったとしたら、


それは…、


TJ自身なんじゃないかな?」


そうか…、


変わったのは、僕自身なのか。


確かに、言われてみれば、先週と今週とでは、生と死を取り巻く風景が、
少し違ったものに見えるような気がする。
上手く表現できないのだけれど。


…。


先週、今週と2人のレジデントの死を身近に体験した。


2つの死から僕が受け取ったのは、人生に対する悲観でもなければ、楽観でもない。
人生は、終わりがあるからこそ価値がある、ということだ。


今という時間を、そして自分を、もっと大切に生きたい。

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それは同時に起こっている

レジデントのHZさんが亡くなってから数日経つのだけど、
僕の中では、未だ何かが続いている。


"She is dying"


臨終間際のHZさんの状態を説明するときに、周囲でしばしば使われていたフレーズだ。


この場合、dyingは形容詞として理解するのが普通なのかもしれないけど、
その時、僕は動詞の現在進行形として受け取っていた。


その時、HZさんは、文字通り、生の中を現在進行形で死んでいた。
現在進行形で生きていて、同時に、現在進行形で死んでいた…。


あまり意識したことが無かったのだけど、
これはHZさんに限った話では無いだろう。


有限の命の中で、生きると死ぬは、同時に起こっている。


僕たちは、今この瞬間も、現在進行形で生きているし、
現在進行形で死んでいるのだ。


だから、あなたが良く生きているとき、実は、あなたは良く死んでいるのだろうし、
あなたの“生きる”が終わる時、あなたの“死ぬ”も終わるのかもしれない。


HZさんがこの世を去った時、HZさんの生だけでなく、
HZさんの死もこの世から消えてしまった。


それが僕の中に残っている感覚だ。


それはいったいどういうことなのだろうと考えている。

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積み重ねてきたもの

Pacific Institueの二つある建物のうち、4階建てのLaguna Grove Careの
ビルディングの中二階はオフィスフロアになっている。


そこには、簡単な打ち合わせや待ち合わせの出来るスペースがある。


たまたまそこを横切ると、Board memberのElkeと、
Exective DirectorのRobertaとMarisの3人がいた。


個性のとても強い女性たちだ。
僕は、比較的、彼女たちとも上手くやっていると思う。


僕を見ると、Robertaが尋ねてきた。


「TJは、インターンとしていつまでここに来ることができるの?」


「来年1月までです」


「そう、それは残念ねえ…」


そして、彼女は続けた。


「2月以降は日本に帰るの?」


「ええ、おそらく。日本で勤めていた会社が待ってくれているんです。
ただ、僕自身も色々考えるところがあるので…。」


すると、少し間を置いてから、Robertaは笑いながらこう僕に尋ねた。


「ここに残って働いてみるのはどう?」


「えっ?」


「あなたのような人と一緒に働くのは、嬉しいわ」


今度は、僕の方に少し間が必要だった。


「ありがとうございます。
でも…、その時は、今のようにただ働きはでき無いと思います」


僕は、笑いながら、そう応えた。


すると、隣にいたMarisも、笑ってこう言った。


「そうよね、お金が必要よね。お金次第ということかしら」


今度は、Elkeが言った。


「もし働くとしたら、TJはどんなことをやってみたいの?」


僕は答えた。


「Caregiverのモラールアップです」


「とても大事ね」


Marisが言った。


「でも、どうやってやるの?」


僕は言った。


「まず僕自身がCaregiverのライセンスを取って、彼女たちと同じ服を着て、
数ヶ月間、同じ仕事をすると思います。信頼を得たら、
彼女たちから意見を聞いて、相談しながら、より良い仕組みに
作り変えていきます。彼女たちは、とても現実的な良い意見を
持っていると思うんです」


すると、Robertaが言った。


「あなたなら、今すぐにでも出来るんじゃない?毎日、ここに来て、
Caregiverたちともよくコミュニケーションを取っているから」


会話は、とてもカジュアルに、短く終わった。


もちろん社交辞令だったのだのだろうけど、この不景気で、アメリカ人でも
職を見つけるのが大変な中で、そういう話を振ってもらえることは
光栄なことだと思った。


その後、Pacific Instituteの元Clinical Directorで、
僕のスーパーバイザーだったAninと会う機会があった。


このことを話したら、


“Agesong is so lucky to have you there. You are a gem!!!”


と言う答えが返ってきた。


もうすぐ、サンフランシスコに来て3年、
Pacific Instituteのインターンとしては1年が経つ。


未だに余裕のない日々が続いていることは変わらない。


3年前と今と、僕自身何がどう変わったのかもわからない。


でも、ここサンフランシスコで、思考錯誤の日々を繰り返す中で、
知らず知らず、着実に周囲と積み重ねてきたものがあった。


3人との会話で、僕はそれに気付くことができた。


そんな自分を少し嬉しく、誇りに思った。

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完了のプロセスとお別れ

HZさんは、迫りくる死を目前にして、この世とあの世の狭間で
闘っていた。


HZさんは、人生の未完了を一つ一つ完了させている。


日曜日から木曜日まで、たくさんの時間をHZさんのベッドの傍で
過ごして、僕は、自然にそう納得できるようになった。


…。


死を目前にすると、心の防衛機制が機能しなくなる。


心には、受け入れがたい感情、葛藤、後悔や苦しみに直面することを
避けるためのいろいろな機能があるのだが、それが落ちてしまう。


もっと平たく言うと、


健康であれば、違うことを考えたり、食事や運動で気を紛らわせたり、
誰かと会ったり話たり、読書をしたり、外に出て気分転換をしたり、
誰かのせいにしたり、未来への糧だと意味づけをしたり、
物語を組み替えたり、現実の方を歪曲させたり…、
たくさんのことが出来る。


ところが、高齢になるとそれが困難になり、死を目前にすると不可能になる。


すると、人はそれまでの人生で避けてきたり、否定したり、抑圧してきた
後悔、欺瞞、葛藤に、心理的に直面せざるを得なくなる。


人生の未完了が、防衛機制をすり抜けて、魂に正面からぶつかってくる。
死を前にして、人はそれらの一つひとつと正面から向き合い、乗り越えていくしかない。


それが、HZさんが連日、昏睡状態の意識の中でしていたことなのではないか。
僕はいま、そう感じている。


昨日、僕は、夜9時30分までDeath rattle(臨終間際の喉鳴り)を繰り返す
HZさんの傍らにいた。


ピッツバーグから駆け付けたHZさんの家族は、午後8時にいったん引き揚げた。
僕も、もうそうろそろ帰らないといけない。
頭痛がしたし、両肩が重かった。


HZさんは、明日までもつのだろうか。
お別れをこの場で伝えるべきなのだろうか。


僕は、どうすべきかを決めかねて、その場で5分間ほど立ち尽くしていた。


結局、僕はHZさんの額にキスをして、
「明日、また来るね」と言った。


…。


翌朝、Pacific Instituteに行くと、
HZさんは、昨夜午前1時59分に息を引き取ったと知らされた。


連日、僕がHZさんに献身的に尽くしていたことを知っていたスタッフとインターンが、
代わる代わる僕をハグした。


午前9時45分に、部屋から運ばれるHZさんの遺体に花びらを撒いて見送る
ペタルセレモニーが行われた。


享年96歳だった。


HZさんの顔は、昨日までとは違って、とても安らかだった。


僕の左目から一筋、そして、右目から一筋、涙が落ちた。


HZさん、素敵な笑顔と包み込むような優しさをありがとう。
そして、最後の最後まで生き抜く姿勢を教えてくれて、ありがとう。

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ホスピスケアをコーチングしてもらう

水曜日、クリニカルレビューが開かれた。


クリニカルディレクターとナースとインターン全員が集まって、
レジデントの健康やメディカル面について打ち合わせる。


僕は、そこでHZさんの状態についてシェアをし、
Pacific Instituteとして、あるいは、インターンとして、今の状態の
HZさんに何が出来るのかについて質問をした。


ナースは、我々にこれ以上出来ることは少ないと発言をした。


すると、僕たちインターンの一人であるAlanが手を上げた。
彼は、ホスピスのボランティアを3年間続けている。


彼の視点と発言は、僕にとってはとても新鮮なものだった。


「確信しているわけじゃないけれど…」


と言う前置きをしてから、Alanは言った。


「僕の見る限り、HZさんの苦痛は、肉体的なものよりも、
精神的なものから来ているように思う」


肉体面の苦痛は、モルヒネの投与によって緩和するのが一般的な対処方法だ。
HZさんには、昨晩、その処置がとられたと聞いた。確かに、今朝、HZさんの状態は
少し和らいでいるように見えた。


しかし…、


もし、その苦痛が、肉体的なものではなく、精神面の人生の未完了から
来ているものであれば、話は少し変わってくる。


肉体面の苦痛がいくぶん和らいだ様子とは言え、HZさんの呼吸はとても荒い。
口を開け、鼾をかくような口呼吸をしている。目は焦点を失っている。
時に大きく目を見開いたかと思うと、ぐっと顔をしかめて苦悶の表情になる。
その都度、両腕が宙をさまよい、バタッとベッドの上に落ちる。


その様子は痛ましい。


Alan曰く、このHZさんの状態は、死を間近に控えた人にとって、
とてもノーマルなのだそうだ。


意識の半分はこの世、もう半分はあの世にある。
二つの世界を行ったり来たりしながら、人生の未完了を完了させている。


もちろん、僕たちがそう思っているだけで、本当のところはわからない。


しかし、そういう状態を見ると、多くの家族は狼狽してしまう。
何か手を打たねばと、本人に、周囲に働きかける。
ただ見守ることが出来ない。


全員で本人を囲んで、声をかける、励ます、手を握る、
肩を撫でる、体を摩る…、いろいろなことを試みる。


Alanは僕に言った。


「僕たちにとっては苦痛に見えるようでも、本人にとっては
人生を終了させるための貴重なプロセスであることも多いんだ」


むやみに働きかけることは、そのプロセスを阻害してしまうことにも
なりかねない。


もちろん、本当のところはだれもわからない。


Alanは、彼がボランティアのホスピスとして体験したことの一例を語ってくれた。


ある中国系のレジデントが余命幾ばくもない状態に陥った時、
そのレジデントの大家族は、毎日、入れ替わり立ち替わり訪れて、
そのレジデントを励ましたそうだ。


そのレジデントは、Alanと2人きりになった時、
涙を浮かべて言ったそうだ。


「私を、そっとしておいて欲しい…」


クリニカルレビューが終了した後、Alanは僕に言った。


一緒に、HZさんの部屋に行こうと。


僕たちは、HZさんの部屋に向かった。


HZさんの部屋まではまだ3mほどあったと思うのだけど、
Alanは、廊下で僕に言った。


「TJ、エネルギーのレベルをもっと下げて」


僕は、自分としてはかなりクールダウンさせていると思ったのだけど…。


Alanは僕に説明をした。


僕たちは、生きている以上、生命のエネルギーを発している。
まして健康である僕たちの場合、そのレベルは、実はかなり高い。


一方で、死にゆく状態にあるHZさんの生命エネルギーはかなり低いし、弱い。


僕たちが高エネルギーのまま部屋に入ると、HZさんの歩んでいる内的プロセスに
影響を与える可能性がある。延いては、その障害になる場合さえある、と言うのだ。


Alanが、ホスピスのクライアントの部屋を訪れる時には、
必ずその前に瞑想をするのだと言う。


僕は、HZさんの部屋の前で立ち止り、30秒ほど目をつぶって、
呼吸を整えた。


僕が部屋に入ると、Alanは入口のところで立ち止まった。
そして、壁の横に立って、僕がどう接するのかを見ていた。


5分ごとに、静かな声でそこからフィードバックと指示を僕に出した。


HZさんは、TJの存在に気づいているよ。
優しくHZさんの手に触れてみるように。
あまり、見つめすぎないように。
その場で目を閉じて、瞑想をしてみるように。


周囲の視線も、HZさんのプロセスを阻害することがあるということだ。
瞑想によって自分の内面に起こっている感情を知ることは、
昏睡状態にあるHZさんの内面に起こっている感情を推察する
手掛かりになるかもしれないということだ。


Alanのアドバイスを僕なりに総括すると、


一つは、人生最期の瞬間には、肉体面の苦痛だけでは無くて、
精神面の完了行為があることを意識する。HZさんの内的プロセスを信じて、
それを阻害するような働きかけに注意深くなる。


もう一つは、僕は人間と言う“動物”では無くて、人間と言う“植物”になる。
まるで“植物”のように、ただそこにいる。そして、見守ることで、
HZさんの内的プロセスをサポートする。


ホスピスケアには、“一緒にいること”の価値の極致があるような気がした。


しばらくすると、Alanは、水の入ったコップとスポンジの付いたスティックを
持ってきて、僕に手渡した。


「HZさんの口元を湿らせてあげるんだ。やってごらん。
湿らせることが目的だから、あまりたくさんやり過ぎてはいけないよ」


僕は、静かにそれを実行した。


荒い口呼吸を続け、昏睡状態かと思っていたHZさんが、
その瞬間、大きく口を開けた。そして、スポンジの水を吸おうとした。


喉が渇いていたんだ…。


僕は、そのままHZさんの傍に座りつづけた。


ありがたいことに、Alanは小一時間、それに付き合ってくれた。


僕がお礼を伝えると、彼は微笑みながらこう言った。


「僕も同じことをしてもらって学んだんだ」


HZさんの戦いは、今日も続いている。
そして、彼女は僕にたくさんのことを教え続けてくれている。

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死と一緒にいる

HZさんの死へのプロセスが続いている。


僕は、日曜日に2時間、月曜日には3時間、火曜日には3時間、
HZさんの部屋で時間を過ごした。


無言のまま顔をしかめる。そして、左腕を宙に上げて、
何かを掴もうとするのだけど、力尽きて下に落ちる。


その腕の動きは、海辺に打ち上げられた大きな魚がのた打ち回る様子に
似ていると思った…。


3日間、HZさんの部屋にいて気付いたことがある。


清掃係のラティーノは、通りすがりに、案外、平気で部屋に入ってきて、
HZさんとコミュニケーションを取ろうとする。HZさんの様子を心配そうに確認していく。
それに比べて、インターンのアメリカ人は誰も訪れなかった。


もし、その違いが死と向き合うことに対するラテン文化とアメリカ文化との
違いから来ているのなら、興味深いと思った。


ある瞬間に、人の気配を感じて、後ろを向くと、HZさんを担当しているインターンが
部屋の外に立っていた。


「少し話をしたいんだけど…、いいかしら」


彼女は、アメリカに20年近く住んでいるウクライナからの留学生だ。


僕たちはロビーに行った。


「TJを見ていると、自分がとても弱い人間だと感じるの。これは、私が自分の内面を
TJに投影しているだけかもしれないけど…。


私は、HZさんの傍にいると、死を感じてとても恐怖してしまう…。
でも、TJは、HZさんの傍にいても、まったく怯える様子が無いように見えるの。


死と、一緒にいることができるのはなぜかしら。


もちろん、これは私の課題で、私が向き合わなければいけないことだということは、
わかっている。


私とTJは何が違うんだろう。
あなたがこれまでの人生の中で、どういう風に死を捉えてきたのか
教えてほしいの」


答えに困る質問だった。
その質問によって、そうか僕はいま死と一緒にいるのか…、と自覚したぐらいだ。


僕の祖父母は、全員、他界している。
彼らの死の間際は、僕は、何と言うか…、蚊帳の外にいたような気がする。


その後ろめたさが、今、僕をHZさんの部屋に向かわせているのだろうか。


少し違うような気がする。


新しいインターンとの違いで言えば、僕はインターンを10カ月目だ。
そのインターンは、3ヶ月目だ。僕はHZさんのインターンではなかったけど、
彼女と積み重ねてきた時間がある。


HZさんとの関係への思い入れの違いがあるかもしれない。


いや、それだけではないかもしれない。


僕は、死は絶対的な“終わり”ではなく、
何かの“始まり”なのかもしれないと、漠然と思っているところがある。
判断を保留しているところがある。


だから、自分もよくわかっていないのだけど、その旅立ちらしきものを
少しでも安らかなものにするために、HZさんに対して自分にできることは何か、
ということが常に何よりも高い優先順位として念頭にあるような気がする。


もしかしたら、これは日本の文化的なものから来ているのかもしれない。


あるいは、


考えてみたら、僕はそもそも、加齢や死と向き合う人々から何かを掴むために、
Pacific Instituteに来たのだった。


HZさんの傍にいて、HZさんに訪れようとしている死と共に向き合うのは
当然のことなのかもしれない。


色々なことが頭の中をよぎった。


ちなみに、僕は、以前、両親が大病を患った時の彼らの生と死に対する姿勢から、
たくさんのことを学んでいる。こういう両親を持てたことを誇りに思っている。


HZさんのインターンには、この話が一番納得できたと言うことだった。

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呼吸の音

HZさんは、Pacific Instituteのレジデントだ。


笑顔の素敵なお婆さんで、僕のクライアントではないのだけれど、
僕のことをとても好いてくれていた。


つい最近まで車椅子でダイニングルームに座っている姿をよく見かけたのだけど、
ここ1か月間ほどは健康の衰えが激しく、ホスピスケアを受けながら、ベッドの上で
横になっている状態だと、HZさんを担当しているインターンから聞いた。


僕は日曜日の夕方7時に、HZさんを見舞うためにPacific Instituteを訪れた。


彼女のいるフロアを担当しているCaregiverは、僕にこう言った。


「HZさんは、ここ数週間、食事を拒否し、水分を少し取るだけの状態が続いている。
もしかしたら、この1週間が峠かもしれない」


僕は、彼女の部屋に出向いた。


電気の消された部屋で、彼女はベッドの上で横になっていた。
顎は上がり、口は開いたままだ。眼は開かれているけど、宙を泳いでいる。


彼女の荒い呼吸だけが、静かな部屋に響いていた。


担当のインターンが僕に言ったことを思い出した。


「HZさんの部屋に行くと、忍び寄る死の気配を感じて怖くなるの…」


HZさんは意識がある。時折、手が動く。呼吸がとても苦しげだ。


HZさんの呼吸は、だんだん静かになり…、止まったかと思うと、
彼女は大きく顔をしかめて、再び、荒い呼吸を始める。


あれだけ口で呼吸をしていたら、口の中はカラカラだろう。


僕は、HZさんの手を静かに握った。


HZさんは、誰かが傍にいるのはわかったようだが、それが誰なのかは
もう認識できていないようだった。


日本人の僕の感覚だと、これはもう、限りなく危篤の状態だと思った。


HZさんは、何か言葉を口に出そうと試みているように見えた。
でも、それは声にならなかった。


それを試みた何回目かに、声を絞り出すように言った。


“H e l p”


僕は、Caregiverにそれを伝えに行った。


でも…、それをCaregiverに伝えても、いま彼女たちにできることは
何もないのかもしれないとも思った。


案の定、Caregiverたちは申し訳なさそうに、首を振るだけだった。


僕は、HZさんの部屋に戻った。


静かな部屋に、HZさんの苦しそうな呼吸の音だけが響いていた。


HZさんの部屋は相部屋なので、隣のベッドには、MHさんが寝ている。
認知症のMHさんには、HZさんの状態はわからないだろう。


しばらくすると、晩ご飯の休憩に降りてきたCargiverたちの笑い声が、
ダイニングルームから聞こえた。


窓の外からは、通りを走る自動車のクラクション、そして、消防車のサイレンの音、
バスの通りすぎる音が聞こえた。


僕の目の前には、今にも人生を終えようとしているHZさんがいる。
その同じ瞬間に、


部屋の隣のベッドでは、ルームメートがいつもと同じペースで生活をしていて、
部屋の外では、Caregiverたちがいつもと同じように働いていて、
建物の外では、街がいつもの通りに動いている。


取り巻く環境は、いつもの通りに時間を刻んでいる。
まるで、僕の目の前で起こっていることなど何も特別なことではないかのように…。


死と向き合っているHZさんの孤独感を想像した。

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“コミュニティ”という居場所

週末の土曜日、昨年のPacific InstituteのインターンだったAndrewが、
6月に続いて催した食事会“Salon”に呼ばれた。


友人を自宅に招いて、あるテーマに基づいてディスカッションをする。
そして、その後は、みんなで食事をする。


料理は、Andrewがすべてを作る。
僕たちは、何か飲み物を持っていくだけだ。


3時30分に集合する。Andrewから、簡単な会の趣旨が説明される。
その説明が終わると、あとは、フリーディスカッションだ。


それぞれ椅子やソファに腰掛け、ワインやジュースを片手に、
生野菜とナッツをつまみながら、自由に話す。
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6時を過ぎるころになると、夕食だ。


部屋からテラスに出て、暮れゆく景色を眺めながら、食事を楽しむ。


今回のメンバーは、2人を除いて全員がPacific Instituteの元インターン仲間だった。


それぞれ、Pacific Institute後の人生を歩み出している。


Pacific Instituteで学んだことが新しいステージでどれだけ役に立っているかを
活き活きと話す仲間もいれば、次のステージに移る狭間にいて、
キャリア的にも生活的にも苦しい状況にいることを話す仲間もいた。


僕たちは、それらを共に喜び、共に悲しんだ。


とてもMellowなひと時だった。


厳しい競争社会を生きる個人主義のアメリカ人が、
実は心の奥底で強く欲しているもの、そして、アジアの国々に対して強く憧れているもの、


その一つが“コミュニティ”だ。
色々な場所で話題に上るし、今回もそうだった。


彼らの“コミュニティ”に対する欲求は強い。


と言っても、日本人が日本語でコミュニティと言うときの感覚とは、
少し違う響きがあるようにも思う。


そこでは、


自分が自分のままでいることを許すことができるし、
相手がそのままの相手でいることを許すことができる。


そのままの自分を受け入れることができて、
相手のそのままを受け入れることができる。


そして、自分も相手もそのままで繋がることができる。


なかなか出来ないことだ。


だからこそ、


自分と相手を許している人間関係、あるいは、自分と相手のそのままを受け入れることを
促進するMellowな空気のある場は貴重だ。


そういう場では、自分も相手も、“ただ居る”ことが出来る。


“居”場所…。


それがアメリカ人の憧れる“コミュニティ”の本質に近いように思った。


そして、


AndrewのSalonはそういう場所だった。
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インターンとしての立場

クリニカルディレクターとは、一人ひとりのレジデントの健康状態を把握し、
どういう風にケアすべきかを決める責任者のことだ。


以前は、Aninがそのポジションにいた。


インターンである僕たちは、AninとCaregiverの責任者、そして看護婦と、
“クリニカルレビュー”と言う名の全体ミーティングを持ち、
色々な角度からレジデントの健康状態を確認し、あるべき対応について
ディスカッションをしていた。


Aninがその役職を辞した今年から、CEOのNaderがそのポジションを
勤務しているのだが、CEOの仕事は忙しい。


クリニカルレビューが2ヵ月間、開かれなかった。


僕たちは、インターンとして日々気付いたことや提案、
疑問を持ちこむ場所を失った。


先週、そのミーティングが2カ月ぶりに開かれた。
そして、チェックイン(いまこの場における意見や感情を簡単に伝えること)の
機会があった。


順番に発言をしていく。


僕の前に発言をしたインターンたちは、総じて「この場を持つことが出来て嬉しい」と喜びを語った。


僕は、「2ヵ月間この場が持たれなかった事に対する怒りを、いま感じている」と発言した。


僕は、他のメンバーに比べて長くインターンをしていることもあって、
仲良くなったCaregiverや、レジデントの家族から、Pacific Instituteの現状について
感じていることやフィードバックを聞く機会が多い。


大事と思ったことは、その都度、個別にマネジャーやディレクターに伝えてきたのだが、
変化が目に見える形で現れない。


今回のミーティングの後、Naderから、個別に時間を取って話そうかと
声をかけられた。


僕は、もちろん、と答えたのだが、
この一連のプロセスで、僕は色々考えたことがある。


クリニカルディレクターとしてのNaderにものを言うのか、
それとも、CEOとしてのNaderにものを言うのか。


客観的な証拠に基づいた意見を言うのか、
自身の体験した主観的な世界を伝えるのか。


インターンとしての立場に限定してものを言うのか、
その立場を超えたところからものを言うのか。


そもそも、僕は批判したいのか、提案したいのか。


…。


スーパーバイザーにも相談をした。
僕はインターンなのだから、出来ることと、出来ないことがある。
インターンとしての立場と経験に留まって発言をしなさいとアドバイスをされた。


いったい、それはどういう形になるのだろう。


自分の立場、ポジションに留まってモノを言うとは、
相手の仕事の領域をリスペクトした結果とも言えるし、
自分の仕事の領域ではないところには、基本的に踏み込まないと言う態度にもなる。


もし、僕がマネジメントを担当していたら…、
もし、僕がCEOだったら…、


これらのフレーズに続く会話は、どうも批判的になってしまうような気がする。


それらの立場になれば、それらの立場に応じた情報が入ってくるだろう。
今とは違う風景が見えるだろう。


その時の僕の意思決定や行動は、いまの人たちと
あまり変わらないものになるかもしれない。


一つ言えるのは、


インターンとしてだけの立場から、マネジメントに意見だけを言うことは、
ある意味、とても気楽なことだ。


だから何も言わない、と言うことではない。


今回のケースに関して言えば、


あくまでも自分の置かれている立場と経験に立脚して、そこを離れることなく、
そこから見えた世界を相手に伝える。


インターンの僕の立場からは、今のPacific Instituteのマネジメントがこう見える。
この状況だと、僕のクライアントがこういう不利益を被る、
あるいは、その可能性がある。自分の経験に留まりながら、
その範囲で伝えるべきことを伝える。


レジデントの声になり切る。


それが、この件に関する僕の今のところのスタンスかもしれない。

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ルーティンを軌道修正する役割

Caregiverのクオリティが、施設の評判を決める。
そう言っても過言ではない。


Pacific Instituteには、3人の素晴らしいCaregiverを統括する
マネジャーがいた。彼女たち3人のトロイカ体制で、サンフランシスコの二つの
施設のCaregiverたちをマネジメントしていた。


信頼関係による“場”がそこに生まれていた。


その“場”の中で、Caregiverたちは、日々の負担の大きい仕事に
向き合っていた。


ところが、今年に入って、そのトロイカ体制の2角が崩れた。


そして、


“場”は、案外、簡単に消滅した。


Caregiverの仕事は、とても過酷だ。
特に、Pacific Institugteのように加齢による物忘れ、
あるいはアルツハイマーによる認知症を専門にしている施設では、
特にそうと言えるかもしれない。


どんなに心をこめてサービスをしても、
認知症を患うレジデントから感謝の言葉を言われることは、稀だ。


逆に、悪態をつかれたり、暴力をふるわれたり、ハラスメントを
受けたりする。


そういうことが毎日の仕事なのだ。


彼らが自分の仕事に喜びを見つけながら、日々、レジデントと愛をもって接することが
出来るように、誰かが、彼らのしていることを認めて、そして、感謝の気持ちを
レジデントに代わって伝えてあげないといけないのだが…、


それをすべきなのは、いったい誰なのか。


Caregiverには、すべき仕事がたくさんある。
ルーティンの仕事に追われる中で、レジデントからのイレギュラーなリクエストに
応えていかないといけない。


イレギュラーなリクエストとは、トイレ、おむつの交換、食事中の粗相の後片付け、
喧嘩の仲裁、支離滅裂な会話の相手など、有形無形にいろいろだ。


マネジメントからの適切なSuperviseが無いと、Caregiverたちは自分たちの
ルーティンの仕事を何よりも優先させるようになる。その結果、レジデントからの
イレギュラーなリクエストは、後回しになる。


そして…、


Caregiverはレジデントの変化に無関心になっていく。


そういう働き方が、カルチャーとなり、非公式なルールになっていくと大変だ。
後から採用されたCaregiverたちは、すぐにそれに染まってしまう。


悪しき文化は、引き継がれると共に覆う範囲を広げ、強固になっていく。


Managementに携わる人は、それらの働き手、つまりCaregiver基準の働き方に
メスを入れ、サービスの受け手、つまりレジデント基準の働きになるように、
絶えず、Caregiverの意識に修正を迫っていかないといけない。


本来なら、“場”自体にそういう働きがあるのが理想なのだが…。

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Alemany Farmers' Market

先週に続き、今週もTai-chiに参加したのだが、
その後、恒例のお茶会がTengの家であった。


毎回、誰かがお菓子を持ち寄り、Tengがお茶とコーヒーを入れる。
ワイワイガヤガヤがひと段落すると、誰かが「今日のテーマは何だ?」と言う。


政治、社会、経済から、文化、人間関係まで、色々なことを題材にして
話し合うことをみんな楽しみにしているらしい。


トータルで1時間半程度のお茶会だ。
お茶会が終わると、Tengが僕に尋ねた。


「これから、何人かと一緒にFamers' Marketに行くんだ。TJも一緒に来るかい?」


場所は、Alemanyだと言う。


僕は、Ferry BuildingやCivic CenterのFarmers' Marketには行ったことがあったが
Alemany Farmer's Marketには行ったことが無かった。規模が大きく、
品物は良質で安いし、とても評判が良いと言う。


僕は午後の用事まで、少し時間があったので、他のメンバーとTengの車に同乗して
行ってみることにした。


確かに大きなMarketで、大勢のお客で賑わっていた。
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屋台には、たくさんのオーガニックの野菜や果物が所狭しと積まれていた。
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Tengは、常連らしい。


お店の店主や売り子に挨拶をする。近況報告を兼ねた会話を2~3往復して、
野菜や果物を袋に入れる。そして、お金を払い、お釣りをもらい、
“See you next week!”と言って別れる。それを、訪れるすべてのお店で繰り返す。
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僕は、Tengの後をくっついて歩きながら思った。


これは、昔、日本の八百屋で普通に見られた風景だ。
マニュアル通りではない挨拶があり、互いの近況報告があり、
品物に関する情報交換があり、味見があったり、おまけのサービスがあったりする。
近所づきあいの温かさがある。


ところが、大型スーパーマーケットの波が押し寄せると共に、それが消えてしまった。
スーパーマーケットにあるのは、ただの売り買いだけだ。そこでは効率が重視され、
品物とお金だけが、無駄なく最短距離で交換される。


ここでは、野菜の作り手でもある店主と顔を合わせ、彼の作った野菜や果物を手にとって
確かめ、選び、必要なだけを袋に入れて、代金を支払う。その間の一つ一つのすべての行為に、
売り手と買い手の人間的な触れ合いが発生していた。


地元民の地に足のついた生活に触れた感じがした。


僕のサンフランシスコ生活は、留学生としての生活だ。
根が地面に降り切っていない。だから、Tengたちとは何かが違う。


毎週末、朝もやの立ち込めるDoloresで気心の知れた仲間たちとTai-chiをして、
お茶を飲む。そして、車に仲間たちを乗せ、Farmers' Marketに買い物に行く。


決して派手ではないのだけど、


人生を楽しむ、生活を楽しむ、あるいは、幸せと言うのは、
こういうルーティンの中にあるのかもしれない。

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Tai-chiと5Rythmes Dance

先週に引き続き、土曜日の朝、Dolores ParkにTai-chiをしに行った。


僕は列に加わり、インストラクションをするTengの後ろに付いて、
見よう見まねで、後に続く。


要領がつかめない動きの中で考える。


Tai-chiは、音楽のないダンスのようなものかもしれないと思う。
でも、ダンスをする時のように恥ずかしくならない。


なぜだろう…。


動きを音楽ではなく、型に合わせるからだろうか。
つまり、自己表現が一切問われないからだろうか。


長い年月の中で、練られ、磨かれてきたTai-chiの“型”に
己を体を合わせていく。


それは、自己表現とは反対の、自分を無にする作業だ。


そのプロセスで、恥ずかしさの源泉となる自意識も、
無になるのだろうか。


Tai-chiは皆で一緒にしているけど、基本的には、個のアクティビティだ。
その最中に、他者とのコミュニケーションは発生しない。
全員が同じペースで、同じ順番で、同じ動作をしていく。
だから、他者との比較も入る余地が無い。
意識はずっと自分の動きと共にある。


それが良いのだろうか。


僕は、Tai-chiをしながら、5Rythems Danceでの体験を思い出していた。
何が同じで、何が違うのだろう…。


クラブにも人生で1度か2度しか行ったことのなかった僕は、
初めて5Rythems Danceに行った時、強烈な恥ずかしさを感じた。
でも、すぐに慣れた。


なぜなら、5Rythems Danceは、音楽に動きを合わせるのではなく、
音楽によって自分の中に湧き起ってくる衝動に合わせて体を動かすと言う、
自己基準のダンスだと知ったからだ。


5Rythems Danceは、他の人の為でなく、自分の為にする自己表現だった。


他人の評価を気にしなくていい自己表現は、雁字搦めになっている
自己を空間に解き放ってくれる。


そのプロセスで、本当の自分が蘇ってくる。


5Rythems Danceが、内なる声に素直になることで自分を空間に解き放ち、
“真の自分”を蘇らせることを目指す動的なアクティビティなら…、


Tai-chiは、外なる型に素直になることで、自分を無くし、自然のリズムと調和し、
“真の自分”を蘇らせることを目指す静的なアクティビティと言えるのかもしれない。


残りわずかとなったサンフランシスコ・デイズのこのタイミングで、
体の知恵に触れる二つのアクティビティに出会った。


きっと、僕の人生にとっての何か意味があるに違いない。


いろいろ想像する。

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後期高齢者が社会を生きるとは…

Pacific Instituteのスタッフ、Steveに声をかけられた。


「これから、Kaiser Hospitalに患者をインタビューしに行くんだ。
良かったら一緒に来るかい?」


僕は詳しいシステムはわからないのだけど、Pacific Institute、
正確には、Assisted Care livingのAgesongとKaiserとの間には、
Kaiserの高齢の入院患者が次の入院先が見つかるまで、
あるいは、自宅に戻るまでの2週間程度を預かるという契約を
結んでいるらしい。


もちろん、Agesongの強みと患者の状態のマッチングがあるので、
そのためにリサーチをしないといけない。


そのためのインタビューをするために、Kaiser Hospitalに患者と
面会をしに行くので一緒に来ないか、と言うことだった。


僕は、これまでにも何度か、このインタビューに同行させてもらったことがあった。


いろいろな病院の雰囲気を知るのは、なかなか興味深い。
Kaiserにはまだ行ったことが無かったので、二つ返事で了解した。


「今回の患者は、事前の情報がほとんどないんだ。僕も何も知らされてなくて、
ちょっと困っているんだ」


Steveは車の中で、そう言った。


Kaiser Hospitalに着くと、その患者のケースマネジャーと会って、
僕たちは簡単な情報を仕入れた。


そのマネジャー曰く、彼は87歳の白人男性、それ以外の情報が
ほとんど分からないのだと言う。


進行した認知症があるのかというと、そうでもない。
加齢に伴う物忘れがあることを多少感じる程度だ。
こちらの話すこともよく理解している。
体も、一見、健康そうだ。


その老人は、一昨日、病院にやってきたのだという。
シミ一つない、清潔な服を着て。


彼は自分の住んでいる家の住所もしっかり言うことができた。
そこは高級住宅街で有名な場所だった。


身寄りは無いらしい。
一人だけ妹がいると言うことなのだが、彼の言う住所と電話番号には
それらしい人物を見つけることが出来なかった。


彼の掛り付けのドクターの名前も確認したのだが、同様に見つけることが
出来なかったと言う。


87歳の高齢と言うこともあって、一人暮らしをしているのであれば、
生活にあれこれに不便なこともあるだろう。


そのご老人は、そのことには自覚があって、
「自分でCaretakerを雇うつもりだ。いまそれを色々考えているところだ」と
ケースマネジャーには説明したそうだ。


ということは、彼の現状は、いろいろが生活が不便な状態にある。
倒れたり、火の始末など命の危険に関わることも出てくるかもしれない。


病院は、そういう老人を護る義務がある。


というわけで、身元の分からない、一見、裕福そうなこのご老人を、
安全が確認できるまで、昨日から半ば強制的に病室に入院させている、
と言うのが、今の状況らしい。


僕たちは、彼の待つ病室に向かった。


部屋の入口には、彼が病院を抜け出そうとするので、
警備員が部屋の前に座っていた。


実際に会ってみると、その老人は、とても温厚な紳士だった。


彼にしてみれば、とんだ災難だったろう。


病院に足を運んだら、理由もわからず、軟禁状態にされてしまったのだ。
入院させられて、3度の食事は与えられるけど、病室以外にどこにも行けない。


彼は僕たち3人の姿を見ると、興奮して助けを求めた。


「わけがわからんのだ。私は家に帰りたいんだ。なのにこの部屋に連れてこられてしまった。
外に出ようとすると、そこにいる男が押し返すんだ。」


Steveが自分たちのことを紹介し、ここに来た理由を説明し、
いくつか質問を彼にした。


「身寄りはありますか?」


「妹がいる。○○○に住んでいる。彼女は電話帳に電話番号を載せているはずだ」


「どうして病院にやってきたのですか?」


「バスを三つ乗り換えてやってきた」


「えっと…、病院に来た理由は何ですか?」


「来た理由…。何だったかな…、忘れてしまった」


彼は、そのやり取りの間も、


「いいか、見ていろ。わしが立ちあがるとだな…」


と、実際に部屋の出口まで行って、
守衛がいかに自分をひどく扱うかを僕たちに見せようとした。


僕たちは彼をなだめて、説明をした。


「○○さん、あなたの帰る家を確認して、安全を確かめるまで、我々の施設に
滞在して頂きたいのですが。とても、アットホームな場所です。
おそらく、今日中に書類の手続きを済ませて、明日の午後には迎えに
来ることができると思います。それまで少しの間、辛抱してください」


彼は、とりあえず、納得したようだった。


病院からの帰り道、僕たちは、そのご老人に心から同情をした。


彼にしてみれば、訪れた病院で、いきなり軟禁されてしまった。
周囲は自分の言うことを信じてくれない。


もし、自分がそういう状況に置かれたらどうだろう…。
混乱するだろう。


だからと言って、この先も彼がたった一人で、自立して生きていけるのかどうか、
それも不確かだ。


自由と独立を何よりも尊ぶアメリカの社会。


老人が、コミュニティ意識の薄いこの社会を一人で生きるとは、
とても大変なことだ。

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動機

Tengは、僕のクライアントのEさんの養子だ。
彼は、Pacific Instituteを毎日訪れて、Eさんを散歩に連れ出す。


その献身ぶりは、Pacific Instituteでも有名だ。
彼は3年間、それを続けている。


先週、僕はTengと夕食をご一緒する機会があった。
Valencia Streetにある、エチオピア料理のレストランでご飯をTake outした。


多少、プライバシーにタッチしすぎるかなと思ったけれども、
その時、僕は思いきって聞いてみた。


何が、Eさんへの献身的なサポートの動機になっているのか、と。


Tengは、少し間を置いてから、こう言った。


話してもいいかな…、と。


中国とタイにビジネスの基盤を持つ、とても裕福な中国人実業家の家に
生まれたTengは、第二次世界大戦が理由で、実の母親と生後2カ月で
離れ離れになってしまった。


当時、彼の家族は中国北部に住んでいたのだが、
Tengは、戦争の足音が聞えてくる政情不安な中国ではなく、
家族がビジネスの強いネットワークを持ち、親類も住んでいるタイで
育てられたのだ。


Tergのために乳母が雇われた。
彼女はとても貧しい家の出身で、Tengと同年代の子供が二人いた。
彼女は25歳のときに夫が蒸発してしまい、2人の乳飲み子と、夫の母親の両方を一人で
面倒見ないと行けない状況にあった。


その乳母は、まるで我が子のように、愛情深くTengを育ててくれた。


5年後、家族がタイに移ってきた。その時、Tengは実の母親に初めて再会したのだが、
彼は実の母親に馴染むことが出来ない。


5年間と言う時間は、あまりにも長かった。
自分の母親は乳母の方だという想いを捨て去ることができない。


それを見て、彼の母親は、彼が6歳のときに乳母を解雇した。


それに対して、怒りを覚えていた彼は家族とうまくいかなくなった。
そして、高校生の時に家出をして、乳母の家に転がり込んだ。


乳母は、彼を預かり、我が子のように育ててくれた。


20代半ばになったと時、Tengは自分の夢の為に、
アメリカに行くことを決心した。


それを知った乳母は、とても悲しんだそうだ。
精神的にとても落ち込み、行かないでくれと、頼んだそうだ。


でも、結局、Tengは自分の夢の為にアメリカに来た。
そして、大学に行き、仕事を見つけてアメリカで暮らすようになった。


もちろん、彼は乳母のことを一日たりとも忘れたことはない。
お金も僅かばかりだけど、毎月送金をした。


彼女の二人の息子は、親孝行な息子ではなかった。
だから、Tengはいつか自分が彼女を引き取って面倒を見ようと思っていた。


ところが、そう思っていた矢先に彼女は癌で亡くなってしまったのだそうだ。
彼女が亡くなった時、彼女はまだ60代の前半だったと言う。


彼女を引き取れなかった、面倒を見れなかった、受けた恩を返せなかった。
Tengは、そういう自分を絶対に許せないのだと言う。


そういう想いをずっと深く胸にしまいこんでアメリカで生きているときに、
Eさんと出会った。当時のEさんは、とても元気だった。


Tengは、CommunistだったEさんの人間性、物の考え方に強く惹かれた。


そういうこともあって、Eさんが、体が不自由になり、認知症が進み、
現在のような境遇になった時、Tengの中で、Eさんと乳母が重なった。


Tengは僕に言った。


「僕はEさんにとても感謝をしているんだ。僕が乳母に対して出来なかったことを
Eさんを通してさせてもらっている。そんなふうに感じるから。
毎日、お見舞いに通うことは大変な時もあるよ。3年間毎日だからね。
でも、それにも関わらず、とてもありがたく思っているんだ。
その気持ちでいっぱいなんだ」
Dsc09731

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