僕が“恐れている”こと
夏のセメスターもいよいよ終わりに近づいている。
先週のClinical Relationshipのクラスで、“Working with Countertransference”と
書かれた一枚の紙が配られた。
それは、自分のCountertransference(逆転移)について考えるための
用紙だったのだけど、6つある質問項目の一つに、こういうのがあった。
Describe one of your most significant struggles as a therapist.
あなたが、セラピストとしてもっとも悩んでいることを一つ書きなさい。
僕は、“Judgement”とだけ書いた。
それは、自分がセラピストとして「無能」だと、クライアントからJudgeされるのが怖い、
という意味だった。
その紙を使って、2人組のdyadを行った時に、気がついたことがあった。
(そうか、逆か…。僕はJudgeされるのが嫌で、Judgeしているんだ…)
自分がJudgeされるのが怖いから、それよりも早く相手をJudgeしようとする。
クライアントを、なぜそんなどうでもいいことで悩んでいるんだろう、とJudgeする。
クラスメートを、Spiritualityを現実逃避の方便に使っているんじゃないか、とJudgeする。
ESLの若者を、もっと日本でいろいろ学ぶべきことがあったんじゃないか、とJudgeする。
人生に不満を持つ人を、その前に自分で出来る努力があるんじゃないか、とJudgeする。
もちろん、表面には出さないけど、僕は確実に相手をJudgeをしている。
その結果、何が起こるのかというと…、
僕は、彼らに対して扉を“閉じる”。自分を守るために。
“閉じる”と僕はその方向には行けないから、僕の世界はだんだん狭くなる。
ある日、思う。最近、何でこんなに息苦しいんだろう…。
そして、僕は、自分が閉めた扉にぐるりと囲まれている自分に気づく。
自分がJudgeをされたくないために、それよりも早いスピードで他人をJudgeする。
いつも自分の中では、相手のJudgementとの競争だ。
バタン、バタン、バタン…、扉をすごいスピードで閉めまくる。
だから、自分に必要な人とは出会えるように、いかにそのJudgementの精度を上げるか、
そんなことに全力を尽くしてきたのが僕の人生だったかもしれない。
で、これまでの人生ではかなりの成功を収めてきたようにも思うし、
これからの人生では大きな壁になるのかもしれない。
セラピスト役の相手から、こう言われた。
「それを話している時のTJからは、寂しさが伝わってきたわ…」
そっか…。
自分が最もされたくないことを、自分を守るために、先に相手にする。
Working with Countertransferance。
なかなか発見のあるワークだった。
【付録】
似た言葉に“Label”がある。日本語だとレッテルを張る、という意味だ。
レッテルは、自由に張り替えられるイメージがあって、僕は別に張られても、
張るのも気にしないんだけど…。
張られた本人が自分で貼り替えればいい、そんな感覚があるのかもしれない。
それに比べて、Judgeはなぜこんなに気になるんだろう。似たような意味なのに…。
閉められた扉は、相手からしか開けてもらえないというイメージがあるからだろうか。
言葉に乗せているイメージの違いは面白い。
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コメント
ふかいないようですね。
なるほどなあと思う反面、「都会のホワイトカラーのビジネス」のできのよさはそのjudgeの速さであることは確かな気がする。
ぼくはまだ、その中にいます。
食べ物をえてゆく営みのなかで、そのようなJudgeの速さが関係ない世界はあるのだろうか、結局スポーツも工場労働もそうなのではないか。
人に対する心もちという意味では、確かに常に心を開いてまだまだ理解できていない部分があると相手に強い興味を持たないといけないのだろうけれど、僕はできてないな。
投稿: たつお | 2009年8月 5日 (水) 00時05分
たつおへ、
メッセージありがとう。
僕も考え中なんだ。Judgeするのは不可避かもしれないけど…、Judgeした後、いかに閉じないでいれるか、あるいは、Judgeした瞬間に対してどれだけ敏感であれるか、が大事かなと思っているよ。これはビジネスの世界でも言えるんじゃないかなあ。
ちなみにだけど、クライアントは、他人や社会からJudgeされることに疲れて果ててセラピーに来ているかもしれなくて、そこで、セラピストにもJudgeされてしまったら、本当に救われなくなってしまう。だから、セラピーの現場とビジネスの現場では、また少し、そのニュアンスが違うのかもしれないね。
投稿: TJ | 2009年8月 5日 (水) 05時41分