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最近の私の英語について

最近、僕の英語について触れていませんでしたが、
その必要がないぐらいに上達したのだろうと期待されても困る(?)ので、
現状をお知らせいたします。ハハハ。


自分が渡米前にイメージしていたほどの伸びは…、まったく無く。
ええ、本当に残念なことです。


最近、ほんの少しリスニングが上達してきたかもしれないと、
夏の夕暮れに蛍のお尻がポーッと光るように、ほのかに実感したぐらい。
一年半経ってもその程度です。
ええ、本当に残念なことです。


というわけで、「海外駐在員」や「留学経験者」に僕がイメージしていた
英語流暢度合からは、まったく程遠いのが現状です。
そもそもそれが幻想だったのかもしれませんが…。


でも、CIISに限らず自分の周囲にいる、留学生を見ていて、やっぱり20代の
若者たちは言葉に対する適応が早い気がします。


だから、負け惜しみも兼ねて、
英語が上達するという感覚がどういうことかについて考えてみました。


英語上達の実感値は、当然のことながら「英語を話す力」と、
もう一つ、その人の持つ「思考の深さ」との関数で決まっているように思います。


日頃、その人が物事をあまり深く考えてなければ、表現することもそれに応じて
シンプルで済むということです。


でも、価値観だったり、深い部分の想いだったり、文化の違いだったり、
抽象的な概念についての意思疎通を試みたりしようとすると、
ちょっと話は別です。


いつになっても英語で自分の想いを表現できた気になりません。
「僕の英語って、いつもまだまだ感」だけが募ります。


僕の日本語による思考は、40年という時間を背負っています。
それを脇において、英語を使う思考方法に変えるということは、
ある意味、日本語によって積み重ねてきた思考の成功体験を捨てる必要が
あるわけで…。


自分の内なる会話についても同様です。
日本語の方が、明らかに自分の気持ちに深く入っていきやすい。
英語では、なかなか自分の中に深く入っていけない。


もし僕が、20年ぐらいまでの時間しか日本語による思考の積み重ねを
背負ってなかったとしたら、言語間の移動も、もっとフットワーク軽くできたのだろうか…、
なんてたまに思うのですが、それも、「隣の芝は青く見える」の話ではありませんが、
「隣の英語は上手く聞こえる」的な色眼鏡な印象から来ているだけなのかも知れません。


但し…、


こちらに来て改めて思うのは、異国での人関係作りには、
母国語を使って深く思考していく力と、それを第二外国語を使って
表現できる力、の両方が大切だということ。


片方だけで、真の人間関係をつくることは難しい。


そして、この二つを高いレベルでバランスよく備えている人は、
この時代でも少ないのかもしれません。


というわけで、僕の英語に関しては、相変わらず孤軍奮闘中です。
(深く思考していく力についても同様ですが)



<付録>
書いていて考えたまったく別の話。

要は、長い歴史があるとそれだけ変われない。
伝統があると簡単には変われない。

アメリカという国がすぐに変われるのは、その歴史の浅さもあるのだろう。
それだけしがらみが少ないということだろうから。

日本は、変わるのに時間がかかる。でも、それは日本だけじゃない。
歴史のある国は、みんな変わるのに時間がかかる。
ヨーロッパの国々だってそうだろう。

すぐに変われないということは、見方を変えれば、極端に振れないための
知恵だ。簡単に変わらないから伝統が生まれるのだ。

だから、何でもアメリカという国を基準にして、日本という国の変化の
スピードの遅さを嘆かなくても良いのかもしれない。

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コメント

こんばんは。

私が英語に関して思うこと。
これは以前お客さんにアドバイスされたのですが、
「英語に慣れると英語で考えるようになるよ。英語で考えた分は英語で話せるんだよ」
ってのがあって、
そのときはちょっとぞっとしました。
うわー、日本語と同じだけのボキャブラリーをもって脳の中を英語変換出来ないと自由に話せない?
今の英語ストレスはついて回るんか!
ということでした。
言いたいことはあるのに、うまく英語に変換できないのですね。
TJくんの状況、ちょっとこれに似てませんか?

ついでに村上春樹が言ってましたが、日本語でおしゃべりな人は英語でもおしゃべりで、
日本語で寡黙な人は英語でも寡黙だ、と。
これは思考については触れてませんが、彼は翻訳してるから英語はなせるだろ、と思われてることについての文だったので、ちょっと上記とは条件が違うんだけど、二つをあわせると、おしゃべりさんはその分英語で考えられないといけないことになる。

TJ君も寡黙ではない(よね?)し、セラピーには会話がどうしても欠かせないけれど、日本語で考ることを全て英語でも考えられるのなら、ストレス感じないのかなー、なぞと思うわけです。

日本語と英語は言葉の成り立ちが違うから
語彙の連なり方も類推の仕方も違うんでしょうし、そう簡単な話じゃないんだろうけど。

投稿: 拓 | 2009年7月 9日 (木) 02時58分

拓へ、お久しぶりです。元気にしてたかな。メッセージをありがとう。確かに、英語で思考したぶんだけ英語を話せるようになるんだろうね。例えば、このブログを日本語で書くことが、かなり日本語思考に引きづられる原因になっているかもしれないと思うしね。まあ、僕としてはこのブログを書くことには別の目的があるからいいんだけど。
おしゃべりさんは、話すことがあるんだろうから、日頃からよく考えているはずだということだね、例え、それが英語でも 笑。
もし、日常の「英会話」をスラングを交えてテンポよく交換できるようになったということが「英語が話せるようになった」ということであれば、語学学校の留学レベルでいいのかもしれないなあ。拓のメッセージを読んで、僕が目指している「一応のレベル」を自分の中でもう一度明確化しておいた方がいいなと思ったよ。ありがとう!


投稿: TJ | 2009年7月11日 (土) 02時19分

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