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2009年6月

San Francisco LGBT Pride Parade

サンフランシスコ時間の6月28日、今日が、そのパレードの日だった。


数日前から、街を闊歩するレズビアンの女性が目立ち始め、
ゲイのカップルが路上や駅で、手をつないでいたり、
キスをしているのを見かけるようになる。


1年前のブログにも書いたけど、僕は去年、道路の最前列で、
パレードの先頭から終わりまでじっくり見た。


今年はもういいやと思っていた。
同性愛のクラスメートは日頃からたくさん周りにいるし、
去年はあったイベント自体の物珍しさももうなかったから。


でも今朝、大学院に行くと、すぐ前のMarket Streetでちょうどパレードが
始まるところだった。 大学院に寄る前にちょっと足を伸ばしてみた。


パレードは、レズビアンのハーレーダビッドソンの大行進で始まる。
地鳴りのような爆音と奇声とともに彼女たちがやってきた。


沿道の観客が、拍手と歓声でそれに応える。 続いてきたのは、
ゲイの男性による自転車の大行進だ。


その時、ちょっと印象的な出来事があった。


前方がつかえて、行進がストップした。


すると、大きなステレオを2台積んだ自転車に乗ってやってきた中年男性が、
道路の真ん中に自転車を止めた。


そして、ある曲を大音量で流し始めたのだ。


その曲は、


“Man in the Mirror”。


Michael Jacksonだ。


他のパレードの参加者が、スピーカーのついた自転車の周りを
大きくグルグル回り始めた。


何台も何台も…。


沿道の大勢の観客も、曲に合わせて手拍子を始めた。体を揺らし始めた。
アメリカ人の、彼の死を悼む想いが伝わってきた。


なんだか…、とても奇麗な時間だった。


僕はそれを見届けて、大学院に戻った。


“Man in the Mirror”。
彼が予定をしていたイギリスツアーも、こんなイメージだったのかな。

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みんなアフリカから旅してきた。

CIISは、心理学と哲学の大学院大学だけど、文化人類学が宗教学、そして、
スピリチュアル系の学問も盛んだ。


それを反映して、いろいろなジャンルの書籍やビデオがライブラリーにある。


昨日、ライブラリーでセラピーのライブセッションを観る予定が、
視界に入った別のビデオに惹かれてそれを観ることになった。


タイトルは、「Journey of Man」。
人類の起源から現在までの繁栄の軌跡を、最新の遺伝子学を駆使して、
辿っていくドキュメンタリーだ。


それによると、遺伝子学的に、この地球に最初に登場した最古の人類は、
ナミビアに住むブッシュマンなのだそうだ。ここから、小さなグループが、
何かの理由で、あるいは何かを求めて、住み慣れた土地を去り、見知らぬ世界に
向けて旅立った。


その最初に移動したグループが行きついた先は…、


何とオーストラリアなのだそうだ。遺伝子学的に。
彼らは、そこでアボリジニとなった。


とにかく、遺伝子の連なりを調べていくと、そうなるのだそうだ。


アフリカを出た最初のグループは、海岸線を歩いてオーストラリアまで歩いた。
すごい旅だ。


そのグループに次いでアフリカを出発した小さなグループは、
中東、それから、インドに安息の地を見つけた。


そして、さらにこのグループは中央アジアで繁栄し、ここから、いくつかのグループが
ヨーロッパ、東アジアに散り、そして、更に、シベリアからベーリング海峡を渡って、
南北アメリカ大陸に渡った。


興味深かったのは、氷河期に陸の孤島となったヨーロッパは独自の民族的
変化を遂げた。つまり、色は白くなり、鼻は高くなり、彫りは深くなり…。


さらにヨーロッパ北部では、日光が少ないために、皮膚が日光の力を借りて
充分なビタミンDを作れなくなってしまった。だから、日光をより吸収しやすいように、
皮膚のメラニンの量が減り、肌の色素が少なくなっていったのだという。


さらに面白いことに、同じヨーロッパでも、海の近くに移り住んだ民族は、
魚介類からビタミンDを摂取できるために、肌の色はさほど白くならずに
済んだのだという。イタリアなどの地球海沿岸の民族がそうだ。


このビデオでは、ナビゲーターである遺伝子学者が現地で出会った
ブッシュマン→アボリジニ→インドの少数民族→中央アジアの少数民族→
ヨーロッパの民族→極東ユーラシアの少数民族→ナバホインディアンの
顔写真を、アフリカからの移動順にどんどん並べて比較していくのだけど、
確かに、それぞれどこか一部分が似ている。


僕は、こちらに来てから、日本人についてよく考えるようになったけど、
そもそも「民族」とは、結局は分類のためにつけたレッテルだ。
でも、元を辿れば、かつてみんなアフリカという一つの場所に生まれ出てきた同胞だ。
それぞれ、長い年月をかけて別ルートの旅を続けてきた仲間たちなのだ。


この時代に僕たちは再会を果たした。
でも、それが幸せな再会の仕方ばかりではなかったことは歴史が示している。


元をたどれば、我々は一つ。
すべての人の肌の下に“アフリカ”があるのだから。


そこからスタートすると、
僕たちは未来に向けて、どんな可能性を拓くことができるだろうか。

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夜の街を疾走する

僕は週2回、22時過ぎのサンフランシスコの街を自転車で疾走している。


自転車の前に白色の点滅灯を、後ろに赤の点滅灯を、さらに、
背負っているリュックに更にもう一つ赤の点滅灯をつけて。


僕は火曜日と金曜日、Greeterのシフトの関係で、22時までCIISにいる。
その日一日、最後のクラスを受けた人たちを見送ってから、
僕はSunsetにある家に向けて、ペダルを踏む。


サンフランシスコの夜は、日本に比べてとっても暗い。
24時間のコンビニエンスストアが、東京のように街中に散らかってもいない。


僕は繁華街を抜けて、いくつもの住宅街を抜ける。


途中、ゴールデンゲートパークを小さく横切る。
この時間帯はスプリンクラーが芝生に水を撒いている。
残念なことに、その何台かは、僕が走る道にも大きくはみ出して、水を放射している。
最近は上手にかわせるようになった。


パーク内にある高くて大きな木々の枝は、空の闇に溶け込んでいる。
前方には月が孤独に照っている。この道の先は…、海だ。


冷たい夜風を両腕に感じながら、僕は無言でペダルを踏む。
風を切る音しか聴こえない。


白と黒と、無音の世界の中で、前と後ろの三つの点滅灯だけが、
忙しくぺちゃくちゃ話している。


なんとなく…、


サンフランシスコの街外れの夜は、宮澤賢治の世界みたいだ。

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「人格」とは切り離して捉えてみる

僕が働いているGreeter のデスクには外部からの電話がかかってくる。
僕がするのは取次だけだけど、まあ、それを知らない人も多いから、
クレームだったり、無茶なリクエストをしたりする人もごくたまにいる。


で、僕は自分の立場を説明する。


「自分は学生で、この電話は取次をするだけだ。
あなたの要望やクレームに対して僕は答えられない」


で、相手も納得して、だいたいそれで終わる。


話していて、思った。
日本だったら、まずは謝るんだろうな、と。


日本の感覚だと、一応、窓口の電話はCIISを代表しているわけだし、
顔なわけだし。


要は、CIISで働くとは、CIISという「人格」にコミットしたように捉えるわけだ。
仕事としての「機能」にコミットするではなく。


で、アメリカ人は、僕を「機能」にコミットしている人として見るから、
事情を話せばそれで済むんだろうな。


日本人だったら、こうはいかないかもしれない。


「そうは言っても、お前はCIISの人間だろう!」
と、僕をCIISの人格の一部であるように見るだろう。


「私は単なる受付ですので、クレームは担当部署、あるいは、クレーム係まで
お願いします」って、日本の企業で言ったら、やっぱり問題になるだろうしね…。


アメリカでは、互いの「人格」は不可侵領域だ。
だってそれが、個性を重んじる自由な社会の基盤なわけだから。


だから僕たちは、その大前提の上で、物事を眺める必要がある。


自分も他人も、謝る時は自分がコミットしている「機能」に関して謝る。
「人格」としての自分はまったく悪くない。


だから、当然、「私が悪うございました」と全人格的な全面降伏的謝り方をしない。
「まず謝るのが先だろう!」「謝る態度というものがあるだろう!」などと、
期待してはいけない。


逆に、全人格的に誤っているんだから容赦してよ、という逆のアプローチも通じない。


だから、いつでもどこでも誰に対しても、しっかり説明しないといけない。


「こうこう、こういう理由で私がわかるのはここまで。あとは知らない」


だって、与えられた機能にコミットとするのが仕事なんだから。
もちろん、良くも悪くもだけど。


で、話が飛躍するようだけど、


互いの人格が不可侵領域で、ある意味、神さまからの所与のものなら、
日本人は、あんまり自分や自分の性格について悩む必要はないのかもしれない。
失敗しても、自己を全否定する必要はないのかもしれない。


日本には、「自分を磨く」「人格を高める」って表現があるけど、そもそも、
それは人格自体が変わっていくという前提に立っている。


でも、それらはアメリカではあまり聞かない表現だと思う。
おそらく、「自分」とは既にあるものだから。
その代りに、こちらで僕が良く聞くのは「自分でいる」「自分につながる」という表現だ。


さて、長々と書いてまとまらないけど、伝えたいのは、だいたい以下のようなところだ。


身の回りの出来事を、自分の人格とは切り離して見ることができるように
なるだけで、僕たち日本人は、もっとタフな一個人になれそうな気がする。


<補足>
これを書いていて気がついたけど、CIISや生活でいろいろあった時、
アメリカ人のクラスメートから、「Don't take it personally!」と
しばしばアドバイスされてきた。

日本語的に「個人のことして受け取らない方がいいよ」と理解していた。
で、僕はそれを「あなた自身のことではなくて、一般的なこととして捉えるのが良いよ」
と変換していた。

で、イマイチ、アドバイスとして僕には機能していなかった。

でも、それを「人格のこととして受け取らなくていいよ」というアドバイスとして
捉え直すと…、何だか思いっきり意味が深くなってくるような気がする。

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7つのAAミーティングに参加する④~コミュニティについて考える

つくづく感じるのが、アメリカ人のコミュニティはかなり「目的志向」だ。
だから、そのミーティングが終われば、みんなバラバラになる。


何を当たり前のことを、と思うかもしれない。


でも、とってもドライなのだ。
そうだからこそ、多くのアメリカ人は孤独だし、寂しいんじゃないだろうか…。


一方、日本でコミュニティと言うと、そこではメンバーが互いに全人格的な
関わり合いを持とうとするイメージが僕にはある。


だから、時間とともに、そこでは「目的」よりも「関係」が重視されて行く。
やがてそこは参加者にとって「居場所」になる。
「Doing」の場所ではなく、「Being」の場所だ。


でもだから、多くの日本のコミュニティは分厚い、湿った空気をまとってしまう。
互いを意識しすぎる「世間」になってしまう。
多くの日本人は、その「世間」を息苦しく思っているんじゃないだろうか。


アメリカのコミュニティと日本のコミュニティ、一概に同じように語れないような
気がしている。


AAミーティングはコミュニティだ。アルコール依存症を克服したいと
思う人たちの。その一結節点のみでお互いが繋がっている。


ミーティングが終われば、みんなその「目的」という結節点をはずす。
バラバラの個人になる。


ミーティングがあれば集い、ミーティングが終われば、バラバラ。
基本的に、彼らはそのミーティングの間だけでコミュニティ感や一体感を
味わっているように僕には映る。


僕は、こちらに来て、アメリカの「コミュニティ」についてどことなく違和感があったのだが、
それは、日本に比べて「目的」を離れたところでの全般的な「つながり感」が希薄で、
「目的」オリエンティッドなところからくるのではないかと思った。


ちなみに、AAミーティングではお互いをファーストネームで呼び合う。
お互いのプライバシーには触れない。人種も社会階層も違う彼らの共通点は、
アルコール依存症であるという一点だけ。お互いに本名を知らないコミュニティ。


AAミーティングでは、互いに、“スポンサー”と呼ぶパートナーがいる。
お互いにサポートし合う仲間だ。お酒をどうしても飲みたくなった時に、
連絡を取って、気を紛らわしたり、励ましあう関係らしい。
その目的に従って。


彼らはその関係でまあまあ満たされる部分もあるらしい。
要は、日々、いかにそれ以外に頼れる人がいない寂しさの中で生きているか
という現れのようにも僕には映るのだが。


僕が日本人だからだと思うが、目的によってつくられる人間関係は寂しい。
目的を超えたところで繋がる関係が本物なんじゃないだろうか。
真の友情に目的がないように。


だから、コミュニティに限らず、
セラピーという「目的」のあるセラピストとクライエントとの「人間関係」にも
リアルを感じられないのは、やっぱり僕が日本人だからだろうか。

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7つのAAミーティングに参加する③~有色人種との距離

今日、守衛のアフリカンアメリカンのリサと話をしている時に気づいたことがある。


そう言えば、アジア系ほど極端ではないにしても、AAミーティングにおける
黒人のパーセンテージは低かったと。


AAミーティングのマジョリティは圧倒的に白人だ。次に、ラティーノと
アフリカンアメリカンが続く。


浮浪者が多数たむろするテンダロイン地区のAAミーティングでも、
26名の参加者のうち、黒人は6名。圧倒的多数は白人だった。
僕の偏見なのだろうけど、このエリアでは黒人のパーセンテージは
もう少し高いと思っていたから。


リサは言う。黒人社会では、お酒を飲んで他人に迷惑をかける、あるいは
ひどい状態になる仲間がいると、それをきちんと相手に伝えると。
それでも改まらないと、その人は、一緒に飲む人がいなくなる。


アメリカはIndividualism(個人主義)の国と思われているが、
それは主に白人のことであって、黒人は文化的にColloectivism(集団主義)に
カテゴライズされる。


彼らは集団から疎外されるのは避けたい、
それがある程度の歯止めにはなっているかもしれないと。


ちなみに、サンフランシスコ育ちの44歳のリサ曰く、彼女の周囲で、
同じ黒人の家族や知人がセラピーに行くようになったのは、
ここ10年ぐらいの話だと。それも、女性がマジョリティであって、
男性はほとんど行かない。奴隷制度という歴史背景もあり、黒人社会においても、
男性は強くあることを求められるから、と彼女は言っていた。


つまり、AAミーティングやセラピーに行くには、黒人社会でも、まだ抵抗があるのだと。


とすると、AAミーティングが主に機能しているのは、個人主義のカルチャーを
体現している白人ということになってしまうのだが。


さて…。

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7つのAAミーティングに参加する②~アジア系がいない

7つのミーティングに参加をして、もっとも驚いたこと。
それは、すべてのミーティングを通して、アジア系の参加者に
たった一人しか出会わなかったことだ。


チャイニーズが住民の多数を占める地区のミーティングに行った時でさえ、
一人も出会わなかった。


アジア系住民にアルコール依存症は少ないのだろうか。
あるいは、お酒の文化の違いなのだろうか。


チャイニーズ系アメリカ人のクラスメートに聞いてみた。
アメリカに住む彼女の親戚や、周囲には、アルコール依存症のチャイニーズが
たくさんいるという。大きな問題だという。


ではなぜ彼らはAAミーティングで見かけないのだろう…。


AAミーティングには、強いキリスト教色があるためか。
それとも、自分がアルコール依存症であると公表することは、
アジア系特有の「恥」という意識につながるためか。


確かに、僕もAAの集まりに、良い悪いではなくて、何となく心理的に距離を
感じたけど…。


僕の知る限り、アルコール依存症者の日常生活と生活態度に働きかけて、
コミュニティの力でお酒のない生活をサポートするAAは、
その目的に対して、かなりの程度、機能しているように見える。


AAミーティングの目指しているものを、アルコール依存症に苦しむアジア系の人たちにも
広めていくためには、まったく同じやり方ではいけないということなのだろうか。


もしそうだとすれば、どういうやり方がいいのだろう。

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7つのAA(Alcohol Annonimous)ミーティングに参加する①

先週から今週にかけて、僕は6つのAA(Alcohol Annonimous)ミーティング
参加してきた。


というのも、先々週に終了した「Alcohol and Chemical Dependency」のクラスで、
インストラクターのLarryが、できることなら6つの異なるAAミーティングに出てみて
欲しいと言っていたから。


僕は、クラスの前にも一つ見学していたから、合計7つのミーティングを回ったことになる。


・Marina地区のSerenity GroupというAAミーティング。
高級住宅街にも近いエリアだ。

・Castro地区のMeeting Place NoonというAAミーティング。
主にゲイ&レズビアンのアルコール依存者を対象としたミーティング。
26名の参加者がいて、女性は一人だけだった。

・Financial districtにあるNew HighsというAAミーティング。
ここはビジネス街だけど、ミーティングの場所は隣接するチャイナタウンの一画にある。
14人の参加者がいて、男女比は半々だ。

・Inner Sunset地区にあるBeginner Big Book StepというAAミーティング。
この辺りは、第二中華街とも言われている。
40名を超える参加者がいた。

・Tenderloin地区にあるSober Across The BoardというAAミーティング。
この地区は、治安が悪くて有名だ。浮浪者がたくさんいる。
参加者は25名で、うち女性は2名だった。

・Civic Center地区にあるThe Pepper GroupというAAミーティング。
公共機関のオフィスが集中している。
参加者は7名で、うち女性は2名。

・Castro地区にあるThey Stopped In TimeというAAミーティング。
若者中心の会。80名を超える参加者で、男女比も同数ぐらいだった。


確かにすべてのミーティングがそれぞれの持ち味で運営されている。
地域柄や参加者の違いを反映してか、すべてがまったく違う雰囲気だった。


会場は、コミュニティセンターの一角だったり、教会の一角だったりする。
椅子は、円形に配置されていたり、扇型に配置されていたり。


ミーティングの運営方法は統一されている。
まず会が大事にしているいくつかのPhilosophy、約束事が読み上げられた後、
会の趣旨に関係する連絡事項を募る。そして、初めての参加者をwelcomeする。
次に、サンフランシスコの外からやってきた人をWelcomeする。
最後に、禁酒をしてからの24時間、一ヶ月、三か月、半年、9が月、1年、
2年、etcの「誕生日」を迎えた人をアクノレッジする。


そして、いよいよ内容に入る。


その内容は、スピーカーが予め選ばれていて、その人が30分ほど話した後に、
参加者がシェアしていくタイプと、この会のPhilosophyや伝統について
記された本の章を輪読して、それについてシェアをしていくタイプの
だいたいどちらかだ。


そのシェアの中から、いくつか印象に残った、というより僕の聞き取れた
ものからいくつかご紹介します。


「朝目覚める。24時間の戦いが始まる。一日の終わりに今日もアルコールを
飲まずに生活できたことを感謝する。翌朝も起きる。再び24時間の戦いが始まる。
私にとって毎日が戦いなんだ。この戦いを一生続けるんだ」~Meeting Place Noon

「普通に生活しているようでも、私の内面はいつもカオスだった。
自分は十分じゃないと責め続けてしまう毎日。その苦しみを和らげるために
私にはアルコールが必要だった」~New Highs

「今日、この会で一番大切なのは新しくここに来た人たち。
みんな自分を愛することを忘れないでほしい。そして、ここに来れば我々はあなたを
愛することを覚えておいてほしい。そして、ぜひ来ることを続けてほしい」
~Sober Across The Board

「お酒を飲まない生活がどれほど素晴らしいか。私はようやく人としての
生活を手に入れたと思う」~Beginner Big Book Step

「AAミーティングは本当に私にとって大切な場所だ。最初、12のステップには
抵抗があった。しかし、その疑問を脇に置いて実践することで見えてきたことは…、
それは他のどんな方法よりも、自分を人生というリアリティに近づけてくれたということだ」
~They Stopped In Time


ベイエリアでは、毎週1000以上のAAミーティングが催されている。
今この瞬間も、そこで誰かが誰かに支えられ、誰かが誰かを支えている。

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EmpathyとSympathy

アメリカで最も支持されているKohutの「Self Psychology」を理解する上で、
Empathyという概念は非常に重要だ。日本語では「共感」と訳されているけど。


今日、Clinical Psychologyのクラスで、KohutのEmpathyに関する
講演ビデオを観た。Self Psychology学会で行ったもので、彼の死の
三日前のものだ。


事前課題の文献と、そのビデオの内容を踏まえて、ディスカッションをした。


今日のところの理解だけど、


「Empathy」とは、
想像力を働かせて、相手の感情や置かれている状況を「理解」しようとすること。
自分の相手に対する感情や解釈を横に置き、相手の立場に身を置いて、
相手の気持ちを感じようとする試みだ。


そして、「Empathy」を理解する上で、僕にとって発見だったことは、
「Empathy」をする上で、セラピストが自分の中に、必ずしもクライアントと
似たような経験を持っている必要はないということだ。


自分とは違う体験を持ったクライアントを、
より良く、より深く「理解」しようとし続ける試みのプロセスそのものが
「Empathy」だ。だから、完璧に「Empathy」すること、なんてありえないのかもしれない。


ちなみに、僕がここで使用している「理解」という言葉は、
クラスで使われていた「Understanding」の訳だ。


インストラクターは、
「Understanding」とは、頭だけではなく心での理解も含んでいる言葉で、
「Empathy」と意味するところがとても近いと言っていた。


一方で、Sympathy。日本語では「同情」と訳されることが多いようだけど。


それは、相手の感情や置かれている状況を知ることによって、
自身の過去の体験や、その時の感情を思い出し、自分の中でそれらを再体験、
追体験している面が強い。


だから、「相手を感じようとしているのか」、それとも実は「自分を感じているのか」。
「Empathy」と「Sympathy」には、そんな違いがあるのかもしれない。


くどいかなと思ったけど、僕はインストラクターに質問をしてみた。


「クライアントと似たような経験を持っていた方が良いセラピーができるのでは?」


彼女の答えは…、


必ずしもそうとは言えない、とのこと。


なぜなら、クライアントの置かれている状況やその気持ちをなんとか理解しようと、
努力するセラピストの姿勢そのものが、クライアントの癒しにつながるから。


そう言って、彼女は、白人アメリカ人である自分が、かつて50代の日本人男性の
セラピーをしたときの体験を話してくれた。


「もちろん、彼を理解するために通常よりももっと大きな努力が必要だった。
なぜなら、私は日本の文化に詳しくないし、異文化の中で暮らしたこともことも
なかったから。でも、彼を理解しようとする私の姿勢そのもののが、
彼にはとても機能したの」

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“Partly Cloudy” by Pixer

先日、Pixerの新作「Up」を観に行ったとこのブログで書いたけど、
「Up」が始まる前に、これから公開される映画の紹介と一緒に
あるショートムービーが流れた。


Pixerの映画ではお約束のようにあるらしいけど、
僕は知らなかった。


赤ちゃんを運ぶコウノトリと、赤ちゃんをつくる雲の神さまとの絆の物語。


それがすごく面白くて、優しさと哀しみを包みこんだ温かいユーモアに、
僕は思わず声を出して笑ってしまった。


事前のほっこりしたショートムービーによって、本編の世界にすぐに入れるように
観客の体を温めたり、「場」の空気を和ませたりするのは、
お笑いの「前説」と一緒の位置づけかもしれない。


その「Up」の前篇に流れたショートムービーを見つけたのでご紹介します。


「Partly Cloudy」
(または、なぜか音と映像がずれているのですが、こちらで)


5分ぐらいです。お時間のある時にぜひ!
Cloudy

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「共感」と「Judgment」

前回、「共感」の奥の深さについて書いた。


実は、Clinical Relationshipのクラスで行われた「共感」をテーマにしたデモセッションで、
僕はクラスメートたちから絶賛された。


別に、手放しで喜んでいるわけでもないのは、


僕は、明らかに「共感」的とは言えない自分の一面を知っているから。


それは…、


「Judgment(判断・決め付け)」する自分。


それは自分は正しいという側に立って、相手の悪に判決を下すことだ。
無意識にしているケースも多いのがやっかいだ。


僕は、Alchole and Chemical dependencyのクラスで、インストラクターから
「Relapse(逆戻り・退歩)」を繰り返し、なかなか立ち直れない依存症の人たちに
対してどういう印象を持っているか、正直な印象を言うようにと尋ねられた時に、
こう答えた。


「僕はそういう人に興味が持てない。自分が依存症であることを認めず、
自らの意思でアルコールや薬物を断とうとする気持ちがないのなら、
セラピストとして関わりようがないと思う。

少なくとも、自ら“変わる”意思の無いクライアントにセラピーは
機能しないと、以前、別のクラスで習ったように記憶している」


明らかに、Judgeしている。


正直に言えと言われたからそう言ったのだが、アルコール依存症から
立ち直った人が複数いたこのクラスでは、結構、ヒンシュク気味の発言だった。
反省だ。


確かに、実際のセラピーの現場では、クライアントは何度も
「Relapse(逆戻り・退歩)」を繰り返す。つまり、禁酒をするための
取り組みをしているのだが、再び飲酒して元通りの破滅型の生活に繰り返してしまう。
クライアントは「Relapse(逆戻り・退歩)」したことに対してまた悩む。
そして、その悩みを振りきるためにまた飲酒を繰り返す。


こういう時に、僕はJudgeしてしまう。
自分の弱さを理由に、その行動を正当化しているように思えて…。


話しが飛ぶようだが、コーチングには「自責」というコンセプトがある。


「他人のせい(他責)」にするのではなく、敢えて、自らの全責任で物事を
とらえ直して見よう、そこから行動を起こしてみようという姿勢だ。
それは他でもなく、自己成長のために。


しかし、「自責」で物事を捉えられるためには、本人がそれなりに強い自分を
持っていることが前提になる。自分にとっては納得がいっていないかもしれない
その状況を受け入れるわけだから。


コーチングの現場ではそれもありなのかもしれないが、
セラピーの現場では、すべての人が強いわけではない。
(もちろん、コーチングの現場でも皆が強いわけじゃないけど)


「他人のせいにしている限り変われないのだから、
              自分の責任で捉えるところから始めよう」


これはかなり強者の論理なのかもしれない。


いや、言い方を変えると、クライアントが自らの意思でそう認められるまで、
伴走し続けることも、セラピストの大切な役割の一つなのかもしれない。

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「共感」というソリューション

エグゼクティブコーチとして仕事をしているとき、
クライアントに「共感」することは大事だと認識していたものの、それはあくまでも
プロセスに過ぎなくて、もっと大事なことは、視点を変える質問だったり、
効果的な提案であったり、クライアントが自らコミットできる答えを引き出すことだったり、
課題に向き合うモチベーションを高めることだと思っていた。


だから、


「共感」に重きを置くコーチングなんてあり得ない、
それはナイーブなアプローチなんじゃないかと思っていた。
「共感」しているだけじゃクライアンとの何の役にも立たないんじゃないかと…。


いま、僕は「Clinical Relationship」のクラスを取っている。


その内容はコフートが中心だけど、これまで学んできたセオリーと実践の
まとめみたいな位置づけで、とても役に立っている。


このクラスで僕が感じているのは、
本物の「共感」は、それ自体が“ソリューション”になるのだ、ということ。


つまり、


コンサルタントがクライアントに「提案」というソリューションを提供するのと
同じぐらいの位置づけで、セラピストがクライアントに提供する「共感」が
クライアントの“課題解決”に繋がるのだなということ。


ただし、大事なのは、コンサルタントの「提案」にピンからキリがあるように、
セラピストの「共感」にもピンからキリがあるということだ。


本物の「共感」は、研修などで教えられるような「仕方」のパッケージものではない。
本物の「提案」がそうであるように。


「客観の世界」にソリューションを提供するのか、
「主観の世界」にソリューションを提供するのかの違いだけであって、
これらの二つのアプローチは同じ次元にある。どちらが高いも低いもない。


深い共感は、難題に対するアプローチを解決する時と同じぐらいに
高度なソリューションだ。


その認識に立って、本物の「共感」とは何かを考える時、
それはテクニックではなく、セラピストの在り方、まさにクライアントとの
関わり方、もっと言うと、人間性の根幹のことなのだと気づく。


その奥の深さと難しさを感じながら、毎回のクラスで、僕は「共感」の入り口を
うろついている。

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Up



Pixarの最新作「Up」を3Dで観てきた。


というのも、先日、サンフランシスコ三田会で講演をして下さった、
慶應メディアデザイン研究科の稲蔭教授が、これまでのピクサーの作品の中で
もっとも素晴らしい、とおっしゃっていたから。


実は、恥ずかしながら僕はピクサーの作品を観るのは初めてだった。


この「Up」、主人公は、
妻を失い人生の晩年を迎えた身寄りのない頑固者の「老人」と、
その家にボランティアをしようとやってきたボーイスカウトの「少年」と、
そして、その老人と妻が幼いころに二人で南アメリカにある大きな滝の隣に
建てることを夢見ていた「家」だ。


この映画、主人公が体が不自由な老人ならではの、ユーモラスな表現や動作が満載だ。
なるほど、ここでこういう風に笑いをとれるのかと。


「老人」と、孫の年齢にあたる「少年」が主人公にしたのは、
現在のアメリカが失いつつある世代間の交流を問題提起したかったからのか、
それとも、増えつつある、高齢者層にもターゲットを合わせるという野心的な作品に
したかったからなのか、
あるいは、「冒険」は自らの意志さえあれば、どこにもでもある、いつでも始められる、
何歳になってからでも、誰と一緒でもできる、というメッセージを込めたかったからなのか。


それにしても、映像技術の革新はすごいと思った。
人の表情や、動作、風景、細かい表現などすべてにわたって。


でも…、


画像が「リアル」になればなるほど、その「リアルさ」が、
物語の持つ「ファンタジー性」を消してしまうような感じがしたのは気のせいか。


例えば、この「Up」では、風船をつけた家が飛ぶ。それを操縦する。
仮に、この映画が実写版だとしたら、「そんなことはないんじゃない」なんて、
そのシーンを観たとき、多少、冷めてしまうかもしれない。


おそらく、これからもどんどん進む映像上の技術革新が、僕たちの空想の領域を
どんどん侵略してくるのだろうけど…、ファンタジーをファンタジーとして楽しめる
映像としての境界がどこかにあるのかもしれない。
行きすぎた映像技術の革新は、僕たちの感動を蝕むだけなんじゃないかと、
ちょっと危惧したりもした。


と書いたものの、この「Up」、確かに素晴らしい作品です。
日本上陸の際にはぜひ!!!


もうちょっと詳しい内容はこちらで。


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「共感」の行く先

セラピーにおける「共感」とは、いろいろな定義があるのだけど、
僕のこれまでの理解で言うと、「クライアントが感じていることを、
クライアントが感じているように感じようとするセラピストの試みのこと」だ。


当然、「共感」のレベルにはいろいろある。その「共感」の仕方によって、
クライアントが「深まっていく」レベルもいろいろということになる。


すると…、セッションが「深まっていく」とはどういうことなのだろう。


今日の「Clinical Relationship」のクラスで、インストラクターのLindaが
見せてくれたビデオは、Emotionally Forcus TherapyのSusan Jonsonの
セッションだった。


Linda曰く、彼女はまさに「共感」の見本のようなセラピストだと。


ビデオの中のSusanは、深い森の中にある湖のような佇まいの聞き方をする人だった。


クライアントが何かを話す。その想いがさざ波のように、静かな湖の表面に
広がっていく。すると、湖の模様が変わる。色が変わる。Susanはそれを伝える。
時に、湖の底に何かが見える。クライアントには見えないけど、Susanには見えた何か。
それを、また静かに相手に伝えるのだ。


Susanの共感は、クライアントが現在(いま)感じていることだけでなく、
そのクライアントがいま言葉にできていない深層の想いをも掬おうとする
試みのように僕には思えた。


今日のクラスの最後、Lindaは、「共感によるセッションの深まり」について触れた。
その時に、こんなことをホワイトボードに書いた


「セラピストによる共感の行きつく先にあるもの。
                 それは、クライアントのConfrontation(直面)」。


僕はちょっと驚いた。というのも、Confrontationとはフィードバック等のもっと動的な
働きかけの時にクライアントに起こるものだと思っていたから。


でも…、確かにLindaの言う通りだ。
クライアントが本当の自分の想いに出会ったとき、それはConfrontation(直面)だ。


今日観たビデオの中でも、Susanのした、ある共感のコメントに対して、
クライアントが静かに息をのむ瞬間があった。


改めて…、


セッションが「深まる」とは、クライアントが自分の想いに出会っていくことだ。

そして、「共感」とは、クライアントが「自分の本当の想い」に出会えるように促す
セラピストのあり方のことだ。

セラピストの「共感」によって、クライアントが「自分の本当の想い」に出会えた時、
そのクライアントは自らの力で変わることができるのだ。

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「Denial」の壁を越える

「セラピストは、クライアントの防衛メカニズムを潜り抜けて、
クライアントに気づきを起こさせることが出来るのだろうか…」


つまり、クライアントがそうであることを否定しているのに、
そうであると認めさせることが出来るのだろうか。


以前、Gestalt セラピーのクラスで、インストラクターのLuに
そう質問をしたことがあった。


「クライアントが自ら望まない限り無理。心のドアの鍵穴は内側にあって、
外側から開けることはできないの」というのが彼女の答えだった。


さて、丸一日のクラス2回で終了する「Alcohol and Chemical Dependency」のクラス。
今日がその2回目だった。


アルコール依存症のクライアントは、自分がアルコール依存症で
あることを認めていない。自分の存在の全てを賭けて、それを意識的にも、
無意識的にも否定している。防衛メカニズムが頑健に働いている。


なぜなら、自分がアルコール依存症であると認めることは、自己の人格の
全否定をするに等しいことだから。それは、これまでの生活や人間関係すべてを、
つまり人生を変えなければいけないことを意味しているから。


セラピストは、そんなクライアントのディフェンスメカニズムを潜り抜け、
気づきを起こさせる必要がある。


この点が、僕がこれまで習ってきた通常のセラピーとの大きな違う点だなと思った。


今日のクラスでは、インストラクターのLarryがクライアント役になって、
生徒と1対20のセッションをした。生徒はLarryに次々と質問を投げかけ、
短いやりとりをする。


セッションのテーマは、「Get rid of denial」。


いかに、クライアントの「絶対に自分はアルコール依存症では無い」という信念を
取り除くか。


クライアントは、人生にたくさんのストレスを抱えている。
だから、セラピーにやってきた。でも自分をアルコール依存症だとは思っていない。
耐えきれない自分の人生のストレスを和らげるのにアルコールは役立っている、
そのぐらいは自覚しているかもしれない。自分の飲酒歴についても簡単には話さない。


もし、セラピストが「アルコール依存症」を臭わせるような質問をしたり、
決めつけることがあったら、クライアントは二度とセッションには戻ってこない。


それが前提だ。


Larryは、生徒からの質問を受けて、要領を得ない答えをしたり、否定したり、
答えなかったり、はぐらかしたりする。もちろん、時にセッションを止めて、
「その質問をするにはまだ早すぎる」「その質問は、クライアントの
防衛意識を高めるだけだ」と解説をする。


これが50分も続くと生徒がイライラしてくる。


ここからがアメリカ人らしいのだけど、何人かの生徒はLarryに対して、
あなたが私の質問に答えないのあれば意味がない、はぐらかされてばかりで、
フラストレーションを感じる、設定が頑固すぎるのではないか、と不平不満を言いだした。


それに対するLarryとのやり取りが続いた後、一人の生徒がこう言った。


「私は、アルコール依存症でAAミーティングにも、Harm Reductionのセラピーにも
通ったわ。でも、そうしながらも私が防衛のメカニズムを解いて、自分がアルコール
依存症と認められるようになるまでに…、2年間かかったの」


別の生徒も続いた。


「確かにLarryとのやり取りにはストレスを感じるわ。でも、まさにアルコール依存症の
私の妹の対応と同じだと思った。もう20年以上彼女の人生はめちゃくちゃ。
でも、彼女はそれが原因で橋の下に住んでいるような今でさえ、
自分がアルコール依存症だとは認めていないの」


たったの50分でイライラしてくる僕たちには忍耐が足りないということか。


クライアントに気づきを起こさせるためにセラピストに求められるのは
時宜を得た質問、信頼関係を気づく共感、気づきのベースとなる教育…、


そして、


忍耐だ。


魔法は無いらしい。



<補足>
Larryは、こうも言った。アルコール依存症のクライアントとのセッションは、
釣りに似ていると。アタリを探っている状態で焦ってリールを巻けば、せっかくの
獲物をばらしてしまう。忍耐が大事だと。
あるいはこうも言った。それは、OBAMAを支持した民主党支持者に、次の選挙で
共和党に投票してもらうにはどういうアプローチをすればよいかを考えるのにも
似ていると。

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「美学」の有無とアルコール依存症

昨日、CIISの図書館でよく会うので友達になったNY出身のアティバが、
家でパーティをするから来いよと誘ってくれた。


何か持って行った方がいいのかなと思って、別のアメリカ人の友だちに聞いてみると、
別に何も持っていかなくていいという。そういうものだと。


20時から始まったパーティ。小さなAtibaの部屋に20人らいが集まった。
そのほとんどが、Atibaがバーで知り合った友だち。CIIS関係者は4人だけ。


驚いたのが、そのパーティには食べ物が一切なし。
あるのは、ビールとウォッカとラムだけ。


主だったメンバーが集まると
いきなりAtibaがトランプを取り出して、「さあ、ゲームだ!」と言う。


そのゲームは、カードを引いた人が、「飲む人」を指名したり、全員で飲んだり、
自分だけが飲んだりするだけの、「王様ゲーム」のようなものだ。


ただ、酔っぱらうためだけのゲーム。


僕は、翌朝、皮肉みたいな話だが、「Alchole&Chemical Dependency」の
クラスがあるので、その輪には入らず、缶ビールをちびちびしながら、
ただ眺めていた。


指名された人はコップのお酒をイッキに飲みほす。イッキのコールはない。


本当に、ただ酔っぱらうためだけのゲーム。
彼らは、酔っぱらうのがひたすら楽しいらしい。


僕の隣で、やはりゲームの輪に入らずに見ていたクラスメートのChipに聞いてみた。

「こんな風にさ、お酒だけしかなくて、ゲームをしてひたすら飲むってパーティは、
一般的なの?」

「そうさ。特に大学生の時なんて、こんなパーティばっかりだったよ」


彼らの飲んでいるウォッカとラム、いずれも「蒸留酒」だ。
それなりに味はするけど、まあ、「醸造酒」に比べたら、深みはない。
僕が不理解なだけかもしれないが、度数の強い、酔っぱらうためのお酒だ。


ちなみに、ジンもウィスキーもブランデーも「蒸留酒」だ。
ウィスキーとブランデーは樽の味も香りも、それなりに楽しめるけど。


一方、ワインや日本酒は「醸造酒」だ。


「古さ」ぐらいしかバリエーションのない蒸留酒に比べて、
年代や畑や葡萄やお米の種類や水や作り方の違いなど、醸造酒には
バリエーションも豊富だ。「蒸留酒」と違って、食事と一緒に飲むことが多い。


だからかどうかわからないけど、「醸造酒」にはカルチャーを感じる。
「蒸留酒」にはない、飲み方の「美学」があるような気もする。


美学は「プロセス」にある。酔うという「結果」だけが欲しいなら、美学は必要ない。


お酒に美学を求める文化と、そうでない文化との間で、「アルコール依存症」に対する
考え方の違いについて、何か関係や相関があったりはしないのだろうかと思ったりした。
彼らの飲み方を観察しながら。

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「Projection(投影)」と「Transference(感情転移)」

「Projection(投影)」と「Tranceference(転移)」は、非常に重要な概念で、
セラピストとしてしっかり理解して、現場で正しく扱えるようにしておく必要がある。


ところが、その違いについて、素人の僕に僕にも分かるように上手に説明してくれる人が
なかなかいない。僕の飲みこみが悪いせいなのか…。
勝手な印象なんだけど、CIISのインストラクターもクラスメートも、どうも曖昧な感じだ。
いや、明確に定義することを避けているというか…。


昨日、ドイツ人の友だちサーシャが再びサンフランシスコにやってきた。
ガールフレンドのAnneに会うために4週間の休みを取って。


彼は、現在、ハンブルグ大学で教壇に立っている。
昨日、Anneから「一緒に食事しない?」と連絡があって、夕方、
家にお邪魔した。


僕より若い彼らの二人の専門は、サイコロジー。そして、二人とも、
博士で、おまけに、当然のことながらフロイトをドイツ語の原書で読める人たちなのだ。


これ幸いとばかり尋ねてみた。「どう違うの?」と。


少し考えてから、Sascha曰く、


「Projectionとは、自分の中に取り込めていない感情や価値を、
相手の中に発見したり、映したりして、現実をゆがめて見ること」


つまり、自分がよく自覚しているけど改めることができていない欠点を
持っている人を見ると嫌な気分になったりするのがそれだ。
でも、相手のそれが、実際に同じ欠点なのかどうかはわからない。
自分が勝手にそう思うのだ。


一方、


「Transferenceとは、目の前で相対している人との関係に、
過去、自分が別の人との関係の中で体験してきた感情や認識を当てはめること」


たとえば、小さい頃、抑圧的な父親との関係が上手く言っていなかったクライアントが、
セッションの際に、セラピストに自分の父親を重ね合わせて、
その関係に関わろうとすること。セラピストと父親は別人にも関わらず、理由もなく、
過剰に反抗したり、心を閉ざしたりすること。


すると…、


「Projection」とは、自分の内面のネガティブな感情を相手に映すことで、
「Transference」とは、自分の過去に経験した関係を、それとは別の目の前の関係に
移すこと。


そう言えるのかもしれない。


もちろん、この二つは全く別のもの、というのではなく重なる部分もある。


Saschaがこんなことを言っていた。
例えば、ドイツで生み出されたある概念が、ドイツ語から英語へ翻訳される。
そのプロセスで意味の本質がゆがんでしまったり、わかりにくくなってしまうことは、
「翻訳」の性格上、避けられないことだと。英語からドイツ語への翻訳も然りだ。


彼曰く、アメリカ人は物事を単純化しすぎる傾向があるし、ドイツ人は
物事を難しくしてしまう傾向がある。


彼の言わんとするところはよく分かる。


昔、お世話になった、脱サラして浄土宗の和尚になった老子がこんなことを言っていた。


「お経を理解するなら、日本語のものを読むより、英語のものを読む方が
わかりやすいよ」と。


話しを戻すと、


「Projection」と「Transference」についてのSaschaの説明は、とてもわかりやすかった。


でも、ドイツ語を母国語とする彼は、第二外国語の英語を使って説明をしたわけで、
そこには「翻訳」が入っている。おまけに、それを第二外国語の英語で聞いた僕は、
母国語の日本語に再度「翻訳」している訳で…。


そう、だからここに書いた僕の理解もかなりズレている…、


かもしれない。

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心に潜む「幽玄」

昨日のプレゼンテーションで、CIISにサパティカルに来ている立命館大学の教授が
提示した「日本とアメリカの違い」の中に、「幽玄」という概念があった。


僕はそれについて深く考えたことが無かった。


いろいろな定義があるみたいだけど、「幽玄」とは、プレゼンテーションを聞いた
限りでの僕の理解で言うと、「静寂と闇の持つ美」だ。


「静寂」と「闇」にも価値を置く日本人。
「静寂」と「闇」は悪しきもので排除すべきと考えるアメリカ人。


「静寂」と「闇」に美意識を持つ置く日本人の考え方に
参加者の多くのアメリカ人は興味を持っていた。


そのプレゼンテーションや、質疑のやり取りを聞きながら僕が考えていたのは…、


ではいったい、僕たちは「心の闇」をどう捉えるべきなのだろうかと言うこと。


「心の闇」は悪しきものとして、明るみのもとにさらして、光の中に消してしまおうと
するのか。それとも、「心の闇」の持つ、闇としての価値を認め、その闇の構造を
整えるべく働きかけるのか。


この2つはまったく違うアプローチだろう。


光が闇を支え、闇が光を支えている。どちらにも価値がある。
その美意識に立ったカウンセリングアプローチがあっても良いのだろうなと感じた。

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CIISのDiversity

一年近いサパティカルを終えて、近々日本に帰る立命館大学の
教授がプレゼンテーションをすると言う。


一年間の集大成ということもあって、是非ともと参加させて頂いた。


「先生」ということで、「学生」とはまた違う視点でCIISを観ている。


彼は、プレゼンテーションの中で、Diversityを謳うCIISの理念が、
単なる理念倒れになっていないのか、トーンを押さえながら批判的な視点を
提示した。


「CIISでDiversityというと、すぐRacism(人種差別)やSexism(性差別)の
話しに収斂してしまう。もっと、Language(言語)やPerception(認識)の
違いからくる多様性に目を向けるべきではないか」


「CIISはもともと“Asian Studies”に起源を持つ大学院であることを思い出すべきだろう」


なるほどなと思う。


僕がいまCIISで、「Diversity」をどう捉えているかというと、
Diversityとは一つのコンセプトではなくて、Diversityという概念自体も、
多様性に富んでいるべきなんだろうなということ。


サンフランシスコのDiversityと、バンクーバーのDiversityとは違うのであって、
Diversityとはこうあらねばいけないという画一の状態は無いのではないか、ということ。
だから、TokyoにはTokyoのDiversity、CIISにはCIISのDiversityがあっても
いいことになる。


白人の生徒が9割以上を占め、ゲイやレズビアンのパーセンテージが
圧倒的に高いCIIS。それもDiversityの一つのあり方なのかもしれない。
でも、その前提条件としては、マイノリティへの配慮が必要だ…。


外の社会でマイノリティとして苦しんできた人々が集まり、マジョリティとなったとき、
外の世界ではマジョリティだけどその世界ではマイノリティとなった人々を
差別するのでは、お互いに何も学べていないことになる。


先生の視点は、僕とは少し違う観点だったけど、非常に多くの示唆が含まれていた。
そのスピリッツを今後のCIISの生活の中で何らかの形で活かしていきたいと思う。

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Self(自己)とRelationship(関係性)

確信しているわけじゃなくて…、
でも敢えて大胆に仮説すると、最近はこんな風に考えられるんじゃないかと思っている。


アメリカ人の心の問題は、ほぼすべてが“Self”に起因している。
一方、日本人の心の問題は、ほぼすべてが“Relationship”に起因している。


アメリカ人の悩みのエッセンスは、「自分とは何か」だ。
彼らの悩みは自分の中にある。


日本人の悩みのエッセンスは、「人間関係」だ。
僕たちの悩みは、自分の外側の、自分も含めた関係性の中にある。


仮に、こう言いきれるとしよう。
カウンセリングサイコロジーは、欧米で、基本的に「自分とは何か」に起因する悩みを
解決する手法として発展してきた。それを解決するために、1対1のダイアローグという
「手法」はマッチしている。そして、その手法を日本人に当てはめようとしているのが
現在だと。


ところが、日本人の多くの心の問題は、「関係性」に起因している、とする。
それは、欧米人の悩みの質とは違う。
関係性に起因する悩みは、グループで集まって発散させるのに適している。
それは、居酒屋だったり、井戸端だったり、ファミリーレストランだったりする。


「あいつは、あの人は、ああだ、こうだ、けしからん、大嫌い」と
盛りあがっているうちに発散・解消できる。


ちなみに、日本人の悩みが、「環境」を変えると解決することも多いのは、
その悩みの多くが「関係性」から来ていることの証左だと思うけど、どうだろう。


でも、欧米人の「自分とは何か」という悩みは、グループ発散型のアプローチは適さない。
環境を変えたところでどうしようもない。自分自身を掘り下げるためには、よっぽど
気心の知れた、文字通りの「心友」と一対一で語り合うか、一人で沈思黙考するしか
ない。だから、それをサポートするダイアローグ型のセラピーが機能する。


「関係性」の悩みを多く感じている日本人に、「Self」の悩みを解決するために
開発されたカウンセリングサイコロジーのある部分、いや、多くの部分が
マッチしない可能性があるのは当然なのかもしれない。そう思うのだけれど…。


繰り返しになるけど、アメリカ人は、全てのベースに「Self」がある。


Alchole&Chemical Dependencyのクラスでクラスメートのシェアを聞く。
彼らのお酒を飲む理由は「ストレスを発散させるため」「嫌なことを忘れるため」
「それがもっとも安上がりなSelf Medicationなため」等など。
そう、みんな「自分のため」にお酒を飲むのだ。


別のクラスで恋愛に悩むクラスメートのシェアを聞く。
一番の多いのは、「自分が自分でいるために悩む、別れる」。
あるいは、「自分が自分であるために、いろいろなことを明確にする」
同様に、みんな「自分のため」が理由になっている。


以前も触れたけど、ホモセクシュアルのカミングアウトもそうだ。
彼らは自分が自分であるために、カミングアウトせずにはいられないのだ。


子育てをしながらCIISに通っている女性もたくさんいる。
彼女たちの悩みは、経済的な自立だ。夫や家族に金銭的援助をしてもらっている
現状が心苦しい。自分が自分らしく、自由にあるためには経済的にも
彼らから「自立」していないといけない。


みんな「自分のため」。そこに他者との「関係性」の視点は、ほとんどない。


日本人は、と一般化できるわけじゃないのだろうけど、僕自身は「自分のため」より、
良くも悪くも、「関係性のため」のプライオリティの方が高い気がする。
僕はお酒を飲む。関係性のために。
僕は、人間関係でクリアにしないこともたくさんあるかもしれない。関係性のために。


もし、日本人とアメリカ人では、心の悩みの種類と質が違うとするなら、
日本人にマッチするカウンセリングサイコロジーとは、どういうものになるのだろう…。

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クライアントとの間で起こっている6つのコミュニケーション

インストラクターのLinda曰く、
セラピーにおける1対1のコミュニケーションでは、4つの双方向コミュニケーションが
同時に交わされているのだとか。


①セラピストの意識と、クライアントの意識の間で交わされるコミュニケーション。
②セラピストの意識と、クライアントの無意識の間で交わされるコミュニケーション。
③セラピストの無意識と、クライアントの意識の間で交わされるコミュニケーション。
④セラピストの無意識と、クライアントの無意識の間で交わされるコミュニケーション。


ここに更に、互いの内面で交わされている二つのコミュニケーションが加わる。
⑤セラピストの意識と無意識との間で交わされるコミュニケーション。
⑥クライアントの意識と無意識との間で交わされるコミュニケーション。


この6つの双方向コミュニケーションが、同時に起こっている「場」がセラピーセッションだ。


こう考えると、1対1のコミュニケーションとは、何とダイナミズムに富んでいるのだろう…。
これを知ったことで、また違う目でセッションを観れそうな気がする。


そして、このコミュニケーションの線が複雑に交差する中で、
「Transferance(転移)」と、「Counter Transferance(逆転移)」が常に起こっている。
そう、常に起こっているのだ。


「Transference(転移)」とは、わかりやすく言えば、本人がコミュニケーションの
相手に抱く「主観」であり、「解釈」であり、「思い込み」だ。人は、コミュニケーションに
よって完璧な意思疎通ができるわけではないから、常にそれは起こっている。


セラピストがそれに鈍感であったり、その扱いを間違えると、セラピーの大きな障害に
なる。同時に、そこから探求が始めることができれば、クライアントの深層に迫る
非常に有意義な切り口にもなる。


Lindaが誰かの言葉だと言って紹介してくれた。
「Transferance(転移)、Counter Transferance(逆転移)は天気のようなものだ。
いつもそこにあるのに普段は誰も意識しない。嵐が来た時にやっと意識する。」


だから、セラピストは常にこの2つの可能性を心にとどめておく必要がある。


話が変わるようだが、
「共感」の重要性を説く二人のセラピスト、ロジャースとコフート。
ちなみに、日本ではロジャースの方が知られているような印象だけど、
アメリカで最も支持されているセラピストは、コフートだ。


僕には一見似ているように見える二人だが、その大きな違いは、
「Transferance(転移)」の存在に触れているか、いないか。


コフートは触れている。もとがフロイトの精神分析学会出身だから。
ロジャースは、「共感」のみで、それにまったく触れていない。


そのフロイトは、「Transferance(転移)」を診断の際の「障害」とみなした。
コフートは、それを診断の「有効な材料」とみなした。


このクラスでも、当然、「Transferance(転移)」を非常に強力な“ツール”として扱う。


ちなみに…、


ここアメリカで、「コフート」なんて日本語発音しても絶対に通じない。
「コフォアーット」みたいな発音をしないとだめだ。


以上、そんなこと諸々を学んだ、
本日第二回目の「Clinical Relationship」のクラスでした。

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Alchohole & Chemical Dependency(アルコール&薬物依存症)のクラス

今日、Alchohole & Chemical Dependencyのクラスだった。


毎回思うのだけど、体験を重視するカリキュラムで有名なCIISの講師陣はユニークだ。
このクラスのインストラクターの経歴も、まさにこのクラスのためにあるような
「華やかさ(?)」だ。


彼はアルコール中毒で、今はお酒を一滴も飲んでいない。
これまでの人生で、マリファナ、コカインから始まって、エクスタシー、ヘロイン…、
ほとんどすべてのドラッグを経験してきた。薬の売人もやっていたこともあり、
5回ほど牢屋に入ったこともあるそうだ。そのせいかどうか知らないけど、
3回の離婚を経験している。


それが、10年数前に思い立って、CIISの門を叩いた。現在は、セラピストとなって、
CIISの教壇にも立っている。


今日のクラスで、彼は、最新の研究結果を踏まえて作られたドキュメンタリーTV番組の
ビデオを見せながら、こう言った。


アルコールや薬物の中毒は、脳の構造を変えてしまう病気なのだ。
思考や理性をつかさどる前頭葉が機能不全になり、当人はよりプリミティブな中脳の
本能に支配されてしまう。

その時、理性にのみ働きかけるアプローチは効果的とは言えない。

セラピストは、脳の機能不全になっていない箇所に働きかけて、
クライアントが自分自身をコントロールできる機能を再開発・育成する必要がある。

では、その時のコミュニケーションとはいったいどういうものなのか…。


もちろん、セラピーだけでは十分とは言えない。
アルコールや薬物中毒者の生活習慣にダイレクトに働きかける必要がある。
それが、例えば、AAミーティングだ。AAは生活習慣の変更を日常的に強力に
サポートしていく。


参加者を“強力にサポートする”ために、AAには“強力なフィロソフィー”がある。
参加者はそれを全面的に受け入れる必要がある。AAに参加するとは、
ある意味、「健全な(?)洗脳」と言えるかもしれない。


インストラクターによれば、アメリカの人口の10%がアルコール中毒、
そして、3組に一つの家族が身内にアルコール中毒者を抱えていると。

現に、20名のクラスメートの中にも、自分はアルコール中毒を診断されていると
シェアした人が数名いた。身内にアルコール中毒者がいないと言ったのは、
僕も含めて3人だけだった。


こちらに来て改めて感じているのだけど、
日本はアルコールに関してとても寛容な社会だ。


夕方、外食時にアルコールが無い方が珍しいのではないだろうか。
ビジネスの世界ともなれば、ほぼ毎日、何らかの形で飲んでいるという人も少なくない。
東京では、特に金曜日の夜など、酔っぱらった人が駅や街中に溢れているのは、
ごく当り前の風景だ。


サンフランシスコでは、公園や道端でお酒を飲んではいけない。
バーに入る時はもちろん、お酒を買うときは、身分証明書を見せる必要がある。
お酒の自動販売機なんていうものは、もちろん無い。

そう言えば、日本を訪れたことのあるアメリカ人のクラスメートが言っていた。
日本のレストランではまず最初にアルコールのオーダーを取りに来るので驚いたと。

日本のカルチャーが好きな台湾からのクラスメートが言っていた。
日本のトレンディドラマでは、お酒を飲むシーンがたくさん出てくるので驚いたと。

確かに、言われてみればそうかもしれない。


でも…、


これだけアルコールが身近にも関わらず、アルコール中毒が、日本ではアメリカほど
深刻な社会問題になっていないのはなぜだろう。


僕が知らないだけなのかな。


どうも日本とアメリカでは、そもそも「何のために呑むのか」という、
「お酒を飲む理由」が違っていて、そこに何かのヒントがあるような
気がしているのだけれど…。

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SAAミーティング

実は、昨日参加したAAミーティング、当初はゲイのコミュニティがあることで有名な
カストロ地区のものに参加する予定だった。CIISから一番近くにあって歩いて
いけるからだ。


ところが、実際に出かけて行って、建物の受付で尋ねると、
ミーティングは13時からだという。


「あれ、12時からじゃないんだ。おかしいな、Webでちゃんと調べてきたのに…。」


というわけで、近くのスターバックスで時間をつぶした。


12:45に建物に戻ると、受付の担当者が申し訳なさそうに話しかけてくるではないか。


曰く、


「13時から始まると思っていたAAミーティングは、SAAミーティングの間違いだった。
申し訳ない」


とのこと。


参加する予定だったAAミーティングはもう終わりの時間だ。
Oh My God!!!だ。


そう思いながらも、僕は彼の間違いに理解を示すために、
にこやかに尋ねてみた。


「AAとSAAって似ているものね。ところで、SAAって何の略なの?」


彼は答えにくそうにこう言った。



“Sodomy Addicts Anonymous”



…。



土地柄もあるのだろう。世の中にはいろいろなAddictionがあるものだ。


でも…、もしAAミーティングだと思って参加していたらどうなっていただろう。

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AA(Alcoholics Anonymous)ミーティング

今週から始まる、「Alchohole & Chemical Dependency」のクラスでは、
第一回目のクラスが始まる前に、生徒は全員、学外で催されている
AA(Alcoholics Anonymous)ミーティングに参加してくる必要がある。


AAミーティングとは、アルコール中毒の人たちによる、アルコール中毒の人たちの
サポートを目的としたグループミーティングだ。


AA(Alcoholics Anonymous)は組織化されていない、とても大きな組織で、
強力なフィロソフィーの元、自主的に運営されている。


毎週、1000以上のミーティングがベイエリアのいたるところで開催されている。


それだけ、ここアメリカにおけるアルコール中毒は深刻な問題ということだろう。


今日、僕が参加してきたのは、MarinaにあるSerenity Groupという名のAAミーティング。


「絆を大事にするコミュニティ」という感じで、その雰囲気は何となく「教会」に
似ていた。参加者は老若男女問わず、社会階層を問わず、バラエティに富んでいる。


僕の参加したミーティングは、発表者のシェアを軸に進められた。


彼は、自分のアルコール中毒の歴史、それによって狂った人生、
いかにAAミーティングに参加するようになったか、そのプロセスにあった葛藤、
そして、現在(いま)の自分にいたるまで、静かに、赤裸々に、時にユーモアを
交えて話した。


参加者はうなづきながら聞いている。共感の輪が広がっていく。


このミーティング運営には、いくつかの興味深い約束事がある。
「12のステップ」を斉唱するというのが有名だけど)


例えば、
発表者のシェアの後、それを踏まえたブループメンバーからの発言が続いたのだけど、
その時の約束事はこんな感じだ。

発言者は発言の前に、

1.“Hi,I am ○○.”と自分のファーストネームを言う。

2.続けて、“I am alchohoric.” と言う。

すると、全員が、
3.“Hi,○○.”と返す

このような手続きを必ず踏む。

つまり、仮に僕が発言をするとすると、こういう感じになる。
「TJです。私はアルコール中毒です」「(全員が)ハイ、TJ」
そして、僕は話し始める。

(僕の出身大学の伝統である、「塾生注目!」「(全員が)なんだ!」の
やり取りに近いものを感じたけど)


このミーティングでは、自分がアルコール中毒であることを徹底的に
認める姿勢が貫かれている。


アメリカでは、アルコール中毒は治らないというのが前提だ。
だから、アルコール中毒患者は、生涯アルコールと縁の無い生活をしていくことが
求められる。


言い方をければ、生涯をかけて、自分はアルコールに対して徹底的に無力な
個人なんだと、自分の弱さを徹底的に認め続けていかねばいけないのだ。


そんなことを考えながら、参加者を見回してみた。


自分の弱さを認めている彼らは、果たして弱い人たちなのか。
いや、自分の弱さを徹頭徹尾受け入れることのできる強い人たちなのか…。


ミーティングの最後、全員が立ち上がって円になり、手をつないで、こう斉唱した。


“Keep coming back, it works!”

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夏のセメスターが始まりました!

いよいよ夏のセメスターが始まった。


今日スタートしたクラスは「Clinical Relationship」。
必修科目の一つだ。20人の生徒が履修している。


インストラクターのLindaの英語は、ゆっくりと穏やかで
聞き取りやすいので、安心した。


とても自然体な彼女は、いち早くクラスにラポールをつくると、
僕たちに尋ねた。


「みんなは、セラピストって何のプロフェッショナルだと思っているの?」


一通り意見を聞くと、彼女は次の言葉をメモするようにと言った。


「Marriage and Family Therapist is a professional of relationship.」


そう、セラピストとは、「関係性のプロフェッショナル」のことなのだ。


ここで言う「関係性」とは、
外的な「他者との関係」だけでなく、内的な「自分との関係」も意味している。


その「関係性」を理解する上でポイントとなるのが、「Tranceference(感情転移)」。
その最もシンプルな定義は以下の通り。


「The total subjective experience of the client in relation to therapist.」


感情転移とは、「セラピストに対するクライアントの主観的経験のすべて」。
それはつまり、セラピストに対してクライアントが持つ「思い込み」のすべてだ。


セラピーセッションとは、
クライアントのセラピストに対する「思い込み」と、
セラピストのクライアントに対する「思い込み」とが複雑に働くダイナミックな場、
そう捉えるのだ。


お互いが「思い込み」を持つことを回避することはできない。


セラピストにできることは、いかにその間違いが起こる瞬間に敏感であり続けることが
できるか、意識を向け続けることができるか、それのみだ。


そして、さらに複雑なことに、僕たちはその「思い込み」と、「Intuition(直感)」を区別する
必要がある。直感は往々にして正しいことも少なくないのだから。


では、どうやって見分ければ良いのか。


それは…、


この夏のクラスすべてを通して、体得していくことになる。


課題の本もドカンと出ました。
ではまた。

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新しい時代、クリエイティブ社会のリーダー

少々、長い文章です。


僕は自分が受けてきた、あるいは現在受けている「大学院教育」の中で、
疑問に思い続けていることがある。


一つは、「起業家精神」だ。


大学院でそれを教えることは可能なのだろうか、ということ。
慶應ビジネススクールで学んでいた時に感じた疑問だ。
僕が学んだ10年前は、起業家精神を持った学生をいかに社会に送り出せるか
ということが大きなトレンドだった。でも、失礼ながら、慶応ビジネススクールが
そういう学生を育てることに成功しているとは思えない。
そもそも、起業家精神、ベンチャースピリッツを「教え」ようとすること自体、
本来のベンチャーマインドの趣旨から言って矛盾があったような気がする。


もう一つは、「共感する心」だ。


大学院でそれを教えることは可能なのだろうか、ということ。
これは現在CIISで学んでいて感じることだ。「共感」は、カンセリングサイコロジーの
基本であり、同時に、要諦だ。しかし、それは本を読んで身につくものではない。
真の共感力は、ロールプレイを繰り返したところで身につくものでもないだろう。
「情操教育」と言うと初等教育のようなイメージがあるけど、もしかしたら、それは、
知識や思考や理性に偏重してきた高等教育の、未開拓分野なのかもしれない。


というわけで、実は今の大学院は、もっとも大事なことを学べる「場」になっていない
のかもしれない、なんて感じていた。


といっても、僕は自分の関係したこの2つの大学院、とても好きだし、
気に入ってもいるけど。


話が少し飛ぶようだが、


昨日、サンフランシスコ三田会で講演会があった。
話し手は、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科の委員長、稲蔭正彦教授だ。


僕はたいへん恥ずかしいことに、稲蔭教授の名前を存じ上げなかった。
だから、たいへん失礼ながら、講演も期待していなかった。


それは…、とんでもない間違いだった。


講演テーマは、「クリエイティブ社会におけるメディアデザインの役割とリーダー育成」。


世界の潮流は、B-school(ビジネススクール)からD-shool(デザインスクール)に
移っている。なぜなら、アップルやピクサーの話を持ち出すまでもなく、
デザインが世界を変える力と、今後のデザイン産業の可能性は計り知れないから。


産業だけではない。デザインは美術館の外に出て、世界の街中や
僕たちの日常生活の至るところに入り込んでいる。


ところが、そのデザインは「数字」で計量することができない。
だから、現在のB-Schoolの教育モデルでは「デザインを分かる人材」を育成できない。


今の産業社会には、デザインの可能性を理解して、追求して、それを評価できる
リーダーが不在だ。


そこへリーダーを輩出しようというのが、新設された大学院の目的だ。


稲蔭教授は、これからのリーダーに求められる4つの創造性の領域を提示した。
それは、「デザイン」「マネジメント」「テクノロジー」「ポリシー」。
これらのリーダーは、この4つの交差する領域に立てる人材である必要がある。


なぜなら、市場が、社会が、その交差領域の何かを求めているから。


すると、どうだろう。


従来のビジネスモデルでは、各分野からそれぞれのスペシャリストを集めてきて、
チームを作ろうということになるのではないだろうか。


しかし、どんなチームにもリーダーが必要だ。そのリーダーを決める必要がある。


そのリーダーは、それぞれの分野の人が言っている言葉や世界観を理解できる
必要があるのだが、現状はどうか…。


ちなみに、スティーブジョブズには、それがある。
だから再生を遂げたアップルの現在(いま)がある。


でも、日本の署名な経営者の顔を浮かべても、「デザイン」という言葉にマッチする人が、
残念ながら僕には思いつかない。


ここで話を最初の問題提起に戻そう。


「創造性」を大学院で教えることは果たして可能なのだろうか。
僕は、そう質問をしてみた。


稲蔭教授は、「創造性」を謳うこの大学院で、生徒にこう言うのだという。
この大学院が教えることのできるものはない。我々にできるのは、創造性を
刺激する環境を用意することだけだと。


創造性は、教えるものではなく、育てるもの。
言葉にするとシンプルだけど、意外に分かっていなかった。


だから、


ビジネスマンに必要な「起業家マインド」は教えるのではなく、育てるもの。
そういう認識があれば、慶応ビジネススクールの教え方だってもっとユニークなものに
なるに違いない。ケーススタディの次のメソッドが必要だ。


カウンセラーに必要な「共感する力」は教えるのではなく、育てるもの。
そうだとしたら、どういう環境を用意することが大学院に求められるのか。


ついでに言うと、リーダーシップを「育てる」環境とはどういうものだろう。


稲蔭教授の言うように、これからの大学院が、


「ちょっと先の未来を覗くことのできる場」
「個人が実社会では担保されないリスクに挑むことができる場」
「異分野からの才能が自由に交流し、新しい知恵の創造が促進される場」


もしそうなれば、本当にこれからの日本が楽しみだ。教育も楽しみだ。
僕もぜひ何かの一翼を担ってみたい。

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DiversityとCreativity

大柄で、身体能力が高くてバランスのとれた、同じサイズの選手たちを揃えることが、
これからの日本のシンクロナイズドスイミングのチーム作りでは、特に大事な要素に
なると、以前、何かの記事で読んだことがある。もっともな話だと思った。


さて、


ここからはダンスの話。


仮に、あなたがそのような恵まれた素養を持ったダンスチームと
コンぺをすることになったしよう。


あなたに与えられたメンバーは、「それなり」に踊れる。
でも、背の大きさはみんなバラバラ。おまけに、小学生が二人混じっている。
更に、不利な条件(?)として、一人ひとりのダンス能力は競合チームにやや劣る、
かもしれない、としよう。


どうやったら勝てるだろうか…。


そのひとつの答えが、ここにある。


前者の恵まれている仮定したチームの名前は、Flawless
後者の恵まれていない(?)と仮定したチームの名前は、Diversity


イギリスの人気オーディション番組「Britain's God Talent」の話だ。


Diversityは、Susan Boyleをはじめ、並いる強豪たちを押さえて、
昨日の決勝戦で見事優勝した。


彼らは、先に挙げた弱みらしき部分を、ほとんど強みとして活かしている。
「視点を変える」とはこういうことかもしれない、と思った。


僕は、面白くて何度も見たけど、ダンスの細かい部分の完成度は、毎回、Flawlessの方が
上だったように思う。でも、Diversityにはそれを上回るクリエイティビティがあった。
彼らのパフォーマンスには、いつも、ダンスの枠を超えた「何か」がある。
ダンスに「異質」を混ぜるのが上手い。


Diversityは、その名前のとおり、「多様性」を上手に活かしたチームだった。
いつか、何かの参考にするために、一つのモデルとして心にとどめておこうと思う。


さて、以下は両チームの予選からのパフォーマンスです。
比較しながら見ると面白いかもしれません。


<予選>
Flawless 
Diversity 

<準決勝>
Flawless 
Diversity 

<決勝>
Flawless 
Diversity


ではまた!

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